山羊の歌(サンプル)

旅立ち前の夢


   1.


 秋の冷たい風が、城の中にいてもごうごうと聞こえる日だった。ディアドラはセリスを抱えて、すっかり馴染んだメロディを口ずさんでいる。まろやかな日差しは、ディアドラのふわふわとした紫銀のくせっ毛を聖母のように照らし、もの寂しい午後に温もりを加えていた。
 シャナンが手持ち無沙汰に外を見ると、シアルフィの公国旗を掲げた兵が、ちょうど馬を降りて城門をくぐっていた。
「ディアドラ、伝令が来たみたい」
 きっとシグルドからの手紙だ。急いで教えてあげると、ディアドラはセリスを赤ちゃん用の柵付きベッドの上に優しく置いて部屋を出た。
 ずっと聞こえていた音楽がなくなった部屋は、どうにも寂しくて仕方がない。
「セリスもはやく喋れるようになったらいいのに」
 ぼやく声への返事はない。セリスは母から離れてもぐずつかずに、よく眠っていた。規則正しい寝息をたてるたび、小さな体がふくらんだり、しぼんだりしている。
 次第に心温まる気持ちになりながら、シャナンはディアドラが口ずさんでいたメロディの続きを歌ってみた。
 
 数分と経たずに戻ってきたディアドラは、嬉しそうに顔をほころばせていた。それから、セリスに気遣うような小声で、聞いたばかりの内容をシャナンにも教えてくれた。
「シグルド様がマディノ城を落とされたそうよ」
「よかったね、ディアドラ」
 シャナンも、小さな声を弾ませて喜んだ。
 戦いが落ち着いている間は、残された唯一の家族であるアイラや、仲間たちの心配をしなくてすむ。しばらくの間は、離れている皆も穏やかな時間を過ごせるはずだ。
 シャナンは、ディアドラも同じ理由で喜んでいるのだろうと思った。けれど、その予想はわずかに違っていた。
 落ち着いたとはいえ、外では残党による小競り合いがある。それにもかかわらず、ディアドラは着ている服を整えながら、無邪気にはしゃいだ。
「わたし、一度シグルド様にお会いしてくる」
 アイラの帰還を言われたとおりに待つシャナンと違い、ディアドラはただ待ち続けることが我慢ならなかったらしい。決意を言葉にしたあとは、部屋の中を熱心に動き回り、身支度を進めていった。
 シャナンは、心配になりながら動き回る姿を眺めた。
 戦争に出る前、軽快に笑って肩を叩いてくれたシグルドの言葉を思い出す。
「そうだ。シャナン、お前に頼もう。私がいない間、ディアドラとセリスを守ってくれ」
 皆に守られてばかりで戦う力がないことに、シャナンは歯痒さを覚えていた。シグルドはそんなシャナンに役割をくれた。
 シャナンは、恩に報いることを信条とするイザークの剣士の端くれとして、二人を預かると誓った。
 一度誓った約束を、破るわけにはいかない。
「ディアドラ、だめだよ。外はまだ危ないよ。それに、セリスのことはどうするの」
「だからね、セリスのことをあなたにお願いしたいの」
 シャナンは引き止めるように服の袖を掴んだが、ディアドラはシグルドの元へ行きたいのだと言って聞かなかった。
「お願い、すぐに戻るから。ね、シャナン、お願いだから」
 ディアドラの揺らがない瞳にシャナンは折れた。置いていかれる寂しさをよく知っていた。未熟な剣士であるシャナンと違い、ディアドラは魔法を上手に使いこなすことだってできる。無事にシグルドの元へ辿り着くための力が備わっていた。
「わかったよ、行ってきなよ」
 シャナンは、仕方ないなと唇を尖らせた。その言葉に、ディアドラは淑やかに微笑んだ。
「ありがとう、シャナン」
 それから、ディアドラは蝶が花にとまるように、小さなベッドで眠るセリスの頬にくちづけた。
「セリスごめんね、すぐに戻るからね」
 いそいそと去る背中を、シャナンは日常の中の一幕として、深く考えずに見送った。
 だが、その姿を最後にディアドラは二度と戻ってこなかった。


   2.


 ディアドラが消えた日から十七年。シャナンはあれから何度も何度も、同じ夢を見た。シグルドのところへ行くと言って出かけたディアドラが、二度と戻ってこない夢だ。
 夢を見るたびに、シグルドの苦しげに唇を噛む顔が鮮明に思い出された。ディアドラがいなくなってしまったと、泣きじゃくりながら謝ったシャナンのことを気遣いながらも、隠しきれていなかった苦悶の表情。
 後になって、親友を失ったばかりの恩人にシャナンが追い打ちをかけてしまったのだと知った時、どんな顔をすればいいのか、わからなくなった。あの時ディアドラを止められていれば、と後悔がいつまでも頭から離れなかった。
 そしてシャナンは、今でも当時の気持ちを忘れられずにいる。忘れるどころか、夢にうなされるたびに後悔は少しずつ深まっていった。

「だめだよ、まって、行かないでディアドラ」
 秋のもの寂しい午後の夢。離れていくディアドラの背に、必死に懇願するようにシャナンは叫んだ。夢であるとわかっていても、待ち受ける未来を知っている以上、引き留めずにはいられなかった。
 しかし、何度声をかけてもディアドラの背は離れていった。シャナンの言葉は届かず、最後には去りゆく姿が霞んで見えなくなる。
 せめて、夢の中でくらいは願いを叶えて欲しかった。ディアドラが家族と幸せに暮らす姿を見たかった。シグルドが戦争から戻ると、ディアドラとセリスが共に出迎える。そんな光景を、一度でいいから見たかった。
 シャナンは、ディアドラが消えた道を名残惜しく見つめた。手前から奥へと、なぞるように視線を移動する。特徴のない一本道がどこまでも続いている。夢の中だからか、道の周りの景色は昼から朝になったり、城内から屋外へ出たりと、とりとめもなく移り変わった。
 もう、何度引き止めることに失敗したかわからない。
 塞ぎ込みそうになっていると、ディアドラが去った方角に、彼女とよく似た姿が立っていた。儚げな紫銀の髪をまっすぐにおろした、まだ若い娘だ。おそらく、ラクチェよりも僅かに歳下。ラナと同い年くらいだろう。十六か十七の、少女が一気に大人びる歳頃に見えた。
「シャナン様、私も母についていきます」
 娘の姿に覚えはなかったが、なぜかシャナンの名前を知っているようだった。これも夢だからだろうか。
「母? どういうことだ」
 娘は質問に答えず、ディアドラの消えた道を躊躇いなく進もうとした。遠のいていく後ろ姿を止めようと腕を伸ばす。
「待て、行くな」
 しかし、伸ばした腕は届かない。娘は水面に浮かんだ泡のように、やがて跡形もなく消えてしまった。
 しんと場が静まり返り、冷たい空気が押し寄せてくる。
 見えていた道は消えてしまい、一面の暗闇になった。
「シャナン、私を守ってくれるんじゃなかったの。シグルド様と約束したでしょう」
「シャナン様、どうして教えてくださらなかったのですか」
 ディアドラと、出会ったばかりの娘の苦しげな声が聞こえる。声は延々とシャナンを責めた。
 シャナンはその場にうずくまり、耳を塞いで叱責をやり過ごそうとした。顔をあげることもできず、逃れられない後悔に犯される。逃げ場はどこにもなかった。
 
 穏やかな季節に似合わず、寝汗がひどかった。外はまだ暗い。頭の後ろが蒸れている。拳を作ると、手のひらの感触が湿っぽいことに気づいた。
 シャナンは汗ばんだ手を見つめながら、夢で出会った娘の姿を思い出そうとした。ディアドラを母と呼ぶ娘が夢に現れたのは、おそらく初めてのことだった。
 今の暮らしに凶兆が迫っているということなのだろうか。あるいは、近々予定している旅への警鐘かもしれない。
 考えているうちから、夢の記憶は遠い景色のように霞み、消えていく。
 最後には、繰り返し見た光景と、嫌な予感だけが残った。

 夕方。晴れない気持ちのまま、ティルナノグの隠れ家の近くにある小丘に立った。そこから、イード砂漠の方角をしみじみと眺めてみる。
 イード砂漠には、十年以上の時をかけて探し求めていたものがある。イザーク王国の国旗にも描かれるほど重要な剣、神剣バルムンクだ。祖父の死と共に行方不明になっていた剣を取り戻すため、シャナンは数日のうちにイード砂漠へ旅立つと決めていた。
 小丘からの景色では、険しい山脈に阻まれて砂漠を見ることはできなかった。代わりに山の麓はよく見えた。
 荒々しい岩山の手前にある草原に、立派な角を持つ山羊が一頭、凛々しく立っている。じっと目を凝らしていると、山羊は岩山の方へ駆けていった。
 あの山羊は山を越えて砂漠へ行けるのだろうか。考えながら、小さくなっていく姿を目で追っていく。
 山羊の姿が見えなくなるかどうか、という時、近づいてくる足音に気づいた。力強さのある音だった。
 誰だ、と思い振り返った先にはスカサハの姿があった。静かにため息をつく。
「おまえか。こんな場所で会うとは、奇遇だな」
「すみません。王子にお願いしたいことがあり、追いかけてしまいました」
 スカサハの声は緊張しているのか固く、シャナンも思わず姿勢を改めた。話してみろ、と続きを促す。スカサハは唇をひきむすんで頷いた。
 いつにも増して真剣な顔がシャナンを見据える。山の方から吹き下ろしてくる乾いた風が、二人の間を通り抜けた。
「シャナン王子、俺を旅に連れて行ってください」
 スカサハの申し出は、正直すこし意外だった。妹のラクチェからならば想定していたが、スカサハが自ら旅の供をしたがることは想定外だった。
 どのみち聞けない頼みではあるが、まずは覚悟を問おうと、まっすぐ向けられている目を見つめ返す。
 シャナンにとって、スカサハはいまだに庇護すべき対象だった。既に元服を終えていることは理解していても、生まれた時から見守ってきた期間をなかったことにはできない。
 もしも生半可な気持ちで危険へ飛び込もうとしているのならば、それを止めることが、子供を預かった者として果たすべき責任だ。
 唇を引きむすんで淀みなく見つめ返してくる顔にあるのは、覚悟の定まった眼差しだった。白と黒の境界が柔らかい穏やかな目に、確かな芯がある。
 シャナンの視線に動じることなく、スカサハは続けた。
「一人旅で御身に何かあれば、みんなが心配します。シャナン王子はイザーク王国にとって必要なお方です」
 言い分まで尤もだった。
 イザーク王国の正当な後継者——神剣バルムンクの力を引き出せる聖戦士オード直系の子孫——は、今や世界にシャナンしか残されていない。シャナンは、祖父や父、叔母、イザーク王国を愛するあらゆる存在から国の未来を託され、生かされてきた。そして、傍系ながらオードの血を引くスカサハがシャナンの身を案じることは、国の未来を憂う立場としても当然だった。
 スカサハは熟慮の末にここへ来たのだろう。覚悟は理解した。
 理解したところで、望みは叶えてやれない。
 シャナンには、先祖たちから託されてきた感情に一時だけ目を瞑ってでも、果たすべき使命があった。恩人シグルドとディアドラの子であるセリスを守ることだ。
 国を離れることへの気がかりは、自身の安全よりもむしろ、残していく子供達——既に元服を終えているため世間的には大人の一員である——にあった。
 シャナンが旅に出れば、セリスを守る存在がいなくなってしまう。厳密には共に子供達を見守り育ててきたオイフェがいるが、彼は帝国の動向を偵察するために城をあけることも少なくない。
 できることなら、普段から城にいるスカサハやラクチェに、セリスを託して出発したいと願っていた。同時に、託して良いものか悩んでいた。
 言葉の力は重い。シャナンが十七年経っても過去の夢にうなされているように、スカサハに消えない後悔を抱えさせることになるかもしれなかった。シャナンは、それが怖かった。
 だが、今のスカサハには危険を冒す覚悟がある。シャナンのことを考えて供を願い出てくれたスカサハならば、もしもの備えを託しても許されるかもしれない。
「スカサハ、剣を振ってみろ」
 突然の言葉にスカサハは首を傾げた。それから、浅く一回だけ頷いた。
(私の選択はスカサハを傷つけるかもしれない)
 スカサハは優しい子だ。
 イザークの民らしい勇敢さを持ちながらも、向こう見ずな妹や家族を守ろうと磨かれた、周囲をよく見る思慮深さがある。
 スカサハはてつの大剣を背中の鞘から抜いて振ってみせた。低く重い風切り音が剣の力強さを伝えてくる。まだ若さゆえの荒さや未熟さは残るが、訓練の段階としては申し分のない域まで辿り着いている剣だ。
 その剣がシャナンを決断させた。
 スカサハには他者を守護するための力が備わっている。おそらく無いだろうと信じたいが、一朝有事の際も正しくセリスや皆を守り抜いてくれるだろう。
「やはり、おまえを連れていくことはできない」
「俺では力不足ですか」
 スカサハは悲観する様子もなく、ただ事実を確認するだけの平たい声で質問してきた。
 実力を認めながら、エゴで願いを聞き届けない罪悪感が胸を焼く。
 返事の仕方を迷っている間に、スカサハはまだ人を斬ったことのない手で握っていた剣を、背中に戻した。
 日暮れ近くの冷たい風が唸るような音を立てて吹き抜ける。最近はだいぶ気温も高くなり一年の中でも過ごしやすい季節となってきた。けれども遅い時間はまだ冷える。スカサハが寒そうに剥き出しの腕をさすった。
「そうではない。おまえには、ここでセリスを守ってほしいのだ。ラクチェと他の皆のことも。おまえになら、安心して任せられる」
 頭半個ほど高い位置にあるスカサハの顔をしっかりと見た。視線の先にある表情は、真剣に口を引き結んだまま、ほとんど変わらなかった。
「少し、考えさせてください」
 シャナンは頷いた。身体を翻して帰路につく。スカサハも半歩後ろをついてきた。並び歩いても文句を言う人は誰もいないが、いつからか、スカサハは隣を歩いてくれなくなった。
 数分、無言が続いた。自然の音と、二人分の足音だけが聞こえてくる。
 帰路を半分ほど進んだところでスカサハの足音が止まった。何事かと振り向く前に、迷いのない声が返ってきた。
「先ほどの話ですが、そうすることでシャナン王子が安心して旅立てるのなら、喜んでお受けします」
 控えめながら決意を感じる声に、ほっと胸を撫でおろす。ため息をつきかけて、断られることを恐れていたのだと気づいた。そんな自分自身に呆れてしまう。
「頼んだぞ」
 シャナンは振り返らなかった。スカサハの足音が遠ざからないことを確認しながら前へ進む。
 吹く風の冷たさに、紺色の袖ごと腕をさすった。


山羊の歌


   1.


 シャナンがイード砂漠に足を踏み入れてから二日。ようやく最初のオアシスにたどり着いた。オアシスには、シャナンの他にも旅人や商人が数名いた。中には談笑して交流を楽しむ姿もあったが、シャナンはその輪に加わらず、祖国の方角を眺めた。
 険しい山々がそびえる上空には、イザークの民に多い黒髪と同じ色の鷲が舞っている。黒鷲は力の象徴で、祖国イザークを代表する鳥だ。
 少し視線を下げた先に広がる乾ききった大地には、動物の気配一つない。その光景に、シャナンは一抹のもの寂しさを覚えた。イザーク王国には、いつも野生の馬や山羊の姿があった。
 短くため息をついて、祖国を懐かしむ。
 冬は息が凍りそうなほど冷えこみ、夏は熱せられた地面がじりじりと熱を発する故郷では、見かける動物の姿形も力強かった。特に、国旗のモチーフとしても採用されている山羊の角は、他の地域よりも二回りは大きく迫力がある。このことを、シャナンは亡命の最中、恩人シグルドたちと出会う前のアグストリアで知った。
 知った当時は無邪気にはしゃいだものだった。叔母アイラを笑顔にしようと、シャナンは動物の違いに対する気づきをよく話した。外が大好きで野山を駆け回っていたシャナンにとって、動物の姿形の差異は興味深く、新鮮なものだった。
 だが、大人になった今ならばわかる。アイラへの気遣いは空回りしていた。アイラが見せてくれていた表情はいつもどこか固かった。シャナンが気づく前からずっと、それこそ共に城を離れたときから、アイラは祖国に残った家族達がたどった運命に勘づいていたのだろう。
 そのまま、昔の感傷に浸りそうになる。一人で進む旅路の心細さに、すっかりあてられていた。
 シャナンは苦笑しながら空を見た。遠くで舞う鷲が、遥か遠い空へと向かう姿をじっと見つめる。それから、地面に片膝をつき、乾き果てた土を手ですくった。定期的に吹き荒れる強風によりすっかり細かくなった粒が、指の隙間から溢れていく。最後には手汗を吸った砂だけが張りついて残った。
 それを三度繰り返し、亡き祖父に語りかけた。
 イザーク王国の伝統的なまじないだ。亡き人の霊が宿る場所で相手を思い浮かべながら土に呼びかけると、死者に声が届くと祖国では信じられている。祖父の霊は、バルムンクの近くにいる気がしていた。まだ少し遠かったかもしれないと思いながらも、シャナンは祖父に向かって念じた。
(祖父上、私もついにここまで参りました。必ずや、バルムンクを国に取り戻してみせます)
 いずれ帝国と戦う日のため。そして、今までこの身に託されてきた悲願を果たすために、シャナンは自らが守るべき存在を国に残してここまでやってきた。
 セリスや皆は無事だろうか。
 残してきた存在を案じるのとほぼ同時に、風にのって噂話が聞こえてきた。
「あんた、知ってるか。イザークの解放軍が蜂起して、ガネーシャ城を落としたらしいぞ」
 全身に驚きが走る。まさか、こんなにも早くことが動くとは。
 同時に、別の感情を抱いていた。スカサハにセリスを預けてきたことへの安堵だ。さもなくば、後に必要となる力を諦め、今すぐにでも来た道を引き返していたかもしれない。
 セリスはシャナンにとって何よりも守らねばならない存在であり、セリスを失った後に拠り所とすべき存在をシャナンは知らなかった。
 勢いよく吹き荒れた風が砂を巻き上げた。砂嵐が肌にぶつかり、細かな痛みを伝えてくる。目をあけていることも困難で、つい先ほどまで見つめていた山の影を見ることもできなかった。まるで、急げと言われているようだ。
 イザークで戦いが始まった以上、一刻も早くバルムンクを取り戻し、解放軍と合流する必要がある。シャナンは、故郷を懐かしみ足を止めていたことを、叱られたような気持ちになっていた。
 気持ちばかり急かされて、砂が入らないよう細めた目では進むべき道も見えない。それでも、焦りに身を任せ、勘のみを頼りに吹き荒れる砂嵐の中を進んだ。

 砂漠に足を踏み入れてからというもの、急く気持ちに反して歩みが遅い。危険を冒してでも、リボーを経由して向かえば良かったのではないかと後悔が頭をよぎる。
 シャナンにとって人生で一番大変だった道は、アイラと二人で超えたシレジアの冬であったが、一人で進む砂漠はそれに匹敵する困難さがあった。
 オアシス周辺は問題ないが、一度そこから離れれば、いつ襲いかかってくるかわからない砂嵐や、昼の灼熱、真冬のように冷えこむ夜を耐えながら進むことになる。
 話しをする相手がいないため、気を紛らわせることも容易ではなかった。情報も伝わってこない。解放軍の無事を祈りながら進む旅路は精神的にも負担だった。
 セリスは無事だろうか。ラクチェも向こう見ずに敵陣へ突っ込んではいないだろうか。セリスを託したことでスカサハには負担をかけてしまった。今頃恨まれているかもしれない。
 底をつきない不安が、頭をよぎっては消えていく。バルムンクが本当にイード神殿にある確証すら、どこにもなかった。剣を取り戻せなかったら、あるいは無事に取り戻せても、流れる血に剣が応えてくれなかったら、どうすれば良いのだろうか。
 いつまで経っても目的地が見えないことも不安を煽った。断崖絶壁の岩山が多くあるせいか、あるいは単純にまだ距離があるのか、あたりにはそれらしき影すらない。
 不安に襲われるたびに、シャナンはシグルドたちも同じ道を辿ったのだと言い聞かせて足を動かした。不当な嫌疑をかけられ、名誉を晴らせないまま死んでいった恩人のことを考えると、未だに胸が痛む。けれど、だからこそシャナンに与えられた試練はまだ易しいものであると、気持ちを奮い立たせられた。
 
 永遠に思えていた道のりも、終盤に差し掛かった。
 イード神殿の姿影がわかるほど近づいたオアシスで、シャナンは神殿に侵入する準備を整えた。十七年前、リューベックで別れる時に叔母アイラから貰った剣の手入れを、いつもよりも入念に行う。日頃愛用している紺色をしたイザーク王国の伝統衣装も脱ぎ、ロプト教の神官がよく着ているフード付きのローブを身に纏った。
 痛く感じるほど強い直射日光が降り注ぐ。あまりの暑さに汗が滲む。周囲の空気は乾燥しているが、ローブを纏った身体周辺は暑かった。少しでも暑さを和らげようと、父とアイラの姿を求めて伸ばした長髪を一つに括り、フードを目深に被った。

 身支度を終えてオアシスを離れようとした時、シャナンと同じようにローブに身を包み、顔を隠した男たちの話し声が聞こえてきた。
「リボー城も落ちたらしい」
 しばらく動向をつかめずにいた解放軍の話題だと、すぐにわかった。
 リボー城は、帝国領となったイザーク王国の統治者、ダナンが暮らす城だ。ダナンは、シャナンが生まれ育ったイザーク王城よりも、帝国と近いリボー城を好んでいた。リボーは、シャナンたちが長らく身を潜めてきたティルナノグから最も遠い都市であり、イザーク解放の要となる地だった。
 リボー城が落ちたということは、シャナンの守るべき国が帝国の支配から脱したことを意味する。
 祖国の解放に間に合わなかった心苦しさと、セリスたちが無事に事を進めている安心が同時にやってきた。
「こちらに来るだろうな」
「ああ。だが、ここらにはクトゥーゾフ様の目がある。心配はいらないさ」
「そうだな、フェンリルさえあれば誰も我らを脅かせまい」
 シャナンは男たちに気づかれないよう身を潜めてその場を離れた。十分に離れてからは早足で進む。フェンリルという言葉が気がかりだった。
 神官らの話し方からして、かなり強力な魔法の類に違いない。暗黒竜ロプトウスを信仰するロプト教団は魔導に長けており、どうやってか遠くの地を見渡す術もある。もし、その術で砂漠を監視し、遠距離魔法を仕掛けてくるのだとしたら、これほど厄介なことはない。
 一刻も早く剣を取り戻し、セリスたちに伝えなければ。
 気を引き締めようと、フードの両端を掴んで引っ張った。焦る気持ちを宥めながら、砂漠の奥に霞んで見えている目的地を目指す。
 
 緩やかな坂道をのぼりきった先に、ロプト教徒の集う神殿はあった。幸い、道中では足を止めるほどの強風は吹かなかった。砂漠に入ってからしばらく続いた困難さには、季節的、あるいは地理的な影響があったのかもしれないと、辿り着いた建物を見上げながら思う。
 石造の建物は立派な城の様式をとっていた。造形も凝っている。城のあちこちに、暗黒竜ロプトウスを模したのであろう置物が配置されていた。
 神殿を見上げながら、シャナンは緊張で唾をのんだ。ここにはシャナン一人しかいない。敵地に乗り込むには、腕に自信があれど相応の覚悟が必要だった。
 同伴したいというスカサハの申し出を断り、一人で進むことを選んだのはシャナンだ。解放軍の仲間がすぐそばまで来ている以上、時間も惜しい。
 何があっても進まなければならないと、シャナンは意を決して一歩踏み出した。
 そのとき、建物の奥から近づいてくる足音に気づいた。腰にさしている剣に触れる。じっと奥に注意を向けると、金髪の三つ編みが印象に残る少女が、ひょっこりと姿を現した。とてもではないがロプト教の神官には見えない。身軽な服装と大きな袋。どうやら盗人らしかった。
 その証拠に、少女が後ろに担いでいる年季の入った袋は、はち切れんばかりに膨らんでいる。袋の口からは、見るからに立派な剣の柄が飛び出していた。そこまで気づいてから、シャナンは驚いて目を見張った。
 祖父マナナンの腰にいつも携えられていた、神剣バルムンクと同じ赤い宝石の煌めき。
 間違えるはずがない。
 少女はシャナンを一瞥したきり、そそくさと進んでいく。
「待て。他のものは良いが、その剣だけは——」
 咄嗟に声をかけると、少女は丸い目をぱちくりと瞬かせながら振り向いた。足は止めてくれない。
「嫌よ、これは私の稼ぎなんだから。悪人に渡すものなんか一つもないわ」
 少女はそれだけ言って、袋の重さを感じさせないほど軽やかに速度を上げた。
「ま、まて」
 シャナンも慌ててその後を追った。盗賊に家宝の剣を奪われて行方不明にしたとあっては洒落にもならない。もしもそのようなことがあれば、祖国イザークを解放してくれた解放軍の皆にも、代々家宝を受け継いできた先祖にも顔向けできなかった。
 少女は思いの外足が速く、初動の差で開いた距離が中々縮まらない。さらに「きゃー」だの「やめて」だの、悪者に襲われているかのように騒ぐものだから、どうにも追いかけにくかった。もしもここが街中であれば、捕まるのはシャナンだろう。
 だが、幸いにもここは人目のない砂漠だ。シャナンは少女の理解を得ようと懸命に呼びかけた。
「バカを言うな、私は何もしない。その袋から見えている家宝の剣を返してほしいだけだ」
 機敏な少女の足がぴたりと止まる。
「返してほしいって、あんたのなの?」
「そうだ。代々我が家に伝わる神剣バルムンクだ」
 数歩分の距離を残してシャナンは立ち止まった。少女がフードの奥の顔をみようと、じっと目を凝らしてきた。
「あんたって、もしかしてイザークのシャナン王子とか?」
「そうだ」
 シャナンは短い時間フードをとり顔を晒した。その甲斐もあり、少女は話を信じてくれたらしい。
 今度は少女の方から近づき、腕を掴もうとしてきた。シャナンは反射的にそれを避けた。
「なんだ、そんな服着てるから帝国の人かと思っちゃった。あたしさ、シャナン様にあこがれてたの」
 再び少女が触れようとしてきた。避けて、少女が近づき、を長々と繰り返す。
「もうわかった。だから私の剣を」
 耐えかねて切り出すと、少女は袋から剣を取り出した。
 煌々と太陽光を反射する赤い宝石。しっとりと上品な白銀の鍔。鞘に収められている刀身は、他では珍しい伸びやかな曲線を描いている。
 シャナンは感慨深さを抱きながら両手で剣を受け取った。
 昔、祖父に触らせてもらった時よりも軽く感じる。剣を手にした瞬間から、体に流れる血が呼応して力が漲った。力と共に、祖父が最後に託したであろう願いが染み込んでくる。
 
 マリクルよ、おまえに負担を残してすまなかった。我らはグランベルに嵌められたのだ……。だが、グランベルもまた踊らされているのだろう。私には、此度の件にクルト王子の意思を感じられなかった……。マリクル、シャナン、我が末裔たちよ。どうか国を頼む。例え王家に反発する者たちでも、イザークの大地に住まう部族を見捨てないでやってくれ。
 
 シャナンは神剣を抱きしめながら祖父の思いを受け取った。
(これが、神剣の……ああ、なんという力だ。祖父上。私は決して、民を、世界を見捨てないと誓います)
 バルムンクを腰に差して地面に片膝をつく。砂を一掴みしたところで、進んできた道に追手の気配を感じた。
「おまえ、そこの岩陰に隠れていろ」
 強張った声が出た。
「パティよ」
「いいから、敵が追ってきている」
「そんな姿、全然見えないけど」
 パティが呑気にぼやいた直後、黒い魔法が飛んできて地面を抉った。
「え、うそ、ほんとだ」
 パティは大袈裟に跳ねて驚きを見せていた。シャナンはすばやく立ち上がり、パティを岩陰へ押しやった。
「騒ぐ暇があったら隠れろ。死にたいのか」
「でも、シャナン様は?」
「私には、この神剣がある」
 言うなり、神殿への道を全速力で走った。足が軽い。剣を抜く。角を曲がってすぐに敵の集団が見えた。
 放たれた魔法を難なく避けて、剣を振り下ろす。バルムンクの力のおかげか、腕がいつもよりも軽かった。
 人を斬る時の剣が重く沈む手応え。何度経験しても慣れない感触が残るうちに、他の敵も、まとめて斬った。
 斬らなければやられるのはシャナンだ。まだ年端もいかぬであろうパティを、危険な目にあわせることにもなる。イード神殿に一人で乗り込む胆力があるとはいえ、パティはまだ十五歳前後の子供だろうとシャナンは推察していた。
 神殿から出てきた敵はみな屍となり、砂漠の上に残された。
 周囲を見渡し、パティがいるだろう岩陰に戻るべきか悩む。
 悩みながら、オアシスでロプトの神官から盗み聞いた話を思い出した。敵には強力な攻撃手段らしきものがある。推察した内容が正しければ、神殿から離れるほど不利になるはずだ。
 このままクトゥーゾフとかいう神官を討つほうが、セリスの助けにもなるだろう。
 敵地に一人で乗り込む危険は理解していた。だが、シャナンは自分自身とリボーに集う仲間の安全を天秤にかけて後者を選択した。最初に神殿を見上げた時と異なり、今はバルムンクの力もある。
 正面から、堂々と中に入った。フードで顔を隠した神官たちが放つ魔法を避け、近くにいる者から順に倒していく。
 一人、また一人と斬るたびに、シャナンに流れる聖戦士の血と呼応する剣の力を感じた。
 聖戦士の力は強力な分、道を違えやすい。武器に惑わされず本質を見ろとは祖父の教えだ。
 祖父の教えを頭の片隅におきながら、単身でも圧倒的な力の差を振りかざしていく。
 ひときわ上質なローブを纏った姿が奥の祭壇近くにあった。きっとあれがクトゥーゾフだ。シャナンはなるべく敵を避けながら、まっすぐに奥を目指した。斬る数は少ない方が良い。
 そして、上質な緑のローブを纏った男を正面から斬った。男の腕からすべり落ちた羊皮の魔導書は、他の者が持っている物とは異なるデザインだった。
 男が斬られた瞬間、残っていた神官たちは軒並みくずおれ戦意を失った。
 終わったか。
 シャナンは剣を手元の布で拭ってから鞘に戻した。
 血がつくことも厭わず、その場に片膝をついて目を瞑る。手を胸の前で合わせて、奪った魂の安らかな眠りを祈った。
 
 パティの元へ戻る途中、神殿に向かうセリスたちの姿を見つけた。
「シャナン。よかった、無事だったんだね」
 相手も同じようにシャナンを見つけたらしく、和やかに微笑みながら駆け寄ってきた。セリスの後ろには、スカサハとラクチェの姿もある。普段、剣を振りづらいからと薄着がちな二人も、照りつける日差しには敵わなかったようだ。肌の露出しない服を着ていた。
「ああ、心配をかけた」
 神殿に乗りこむ選択が功を奏したらしく、駆けつけた味方に負傷の形跡はなかった。パティのことも、セリスが見つけて保護してくれていた。
 シャナンは人心地ついた気持ちで仲間の姿を見た。
「私がいない間にイザークを取り戻してくれたそうだな。礼を言うぞ」
「それもみんなシャナンの力だよ。シャナンがいてくれたから、みんな頑張れたんだ」
 最後にティルナノグで別れた時よりもずっと立派なセリスの姿。その姿は、遠い昔シャナンを救ってくれたシグルドにも似ていた。顔つきこそまだ若いが、自分を飾らず素直な言葉で相手を褒めるところが特にそっくりだ。
 長年守らなければならないと思い続けてきた感情が、向ける先を見失って溢れそうになる。
「たくましくなったな」
 しんみりと呟くと、セリスは戸惑いがちに見上げてきた。気遣うように名前を呼ばれる。何でもないと伝えれば、セリスは顔を引き締め、胸を張ってみせた。
「シャナン、ボクは帝国と戦う。いいよね?」
「むろんだ。私もこの日を待っていた」
 頼もしい言葉だ。静かな砂漠に、解放軍の勇敢な空気が満ちていく。天候は穏やかで、目も開けられないほどの砂嵐が起こる気配は全くない。時々吹く風は、進む背中をやわらかに押してくれた。
 
 慣れない砂漠の進軍で奪われた体力を回復するため、解放軍はイード神殿へ立ち寄った。
 神殿に着くと、ラクチェやシャナンを慕ってくれる軍の面々がこぞって押しかけてきた。中にはバルムンク見たさにやって来る人もいた。
 囲むように近寄ってきた者たち全員と話し終えたシャナンは、疲れを滲ませつつも、スカサハの姿を探した。
 他の皆が話しかけにくる中で、スカサハは終始姿すら見せてくれなかった。そのことが気がかりだった。
 やはり、シャナンの頼みが負担になっていたのかもしれない。
 セリスを託した時、本当に事が起こるとは思っていなかった。もしもの時にスカサハならば守り抜いてくれると信じた感情に偽りはない。だが、それは非常に限られた可能性だと認識していた。
 そこまで考えてから、結局は言い訳だと考えを改める。大事なことは、スカサハがシャナンとの約束を守り、役目を果たしきった事実だけだ。皆のことを預けていった者の務めとして、せめて礼を伝えたかった。
 
 一時間ほど探し回り、日暮れ前にようやく姿を見つけた。スカサハは、神殿から少し離れた平たい土地で剣の素振りをしていた。長ズボンに長袖のシャツ、その上に革の胸あてを身につけただけの軽装だ。
 風を切る音が、ティルナノグで最後に見た時よりも更に力強くなっていた。道中もずっとセリスを気にかけてくれていたことが伝わってくる、大切な存在を守るための剣の音だ。その音は彼の父であるホリンのものに瓜二つだった。
 気配に気づいたらしく、シャナンが声をかけるよりも先に素振りの音が止まった。
「シャナン王子、こんな場所でどうかされましたか?」
「おまえを探していた」
 スカサハが握っている剣には、ここに来るまでの過酷な戦の跡が残っていた。慣れない感覚に苦戦したのか、剣の先端は潰れ、刃こぼれもしている。
「すみません。人々に囲まれていらしたのでお疲れかと思い」
「相変わらず、おまえは妙なところで遠慮するのだな。そんな間柄でもないだろう。ラクチェは迷わず話しかけにきたぞ」
「俺には、あいつのような大胆さはありません」
 スカサハはどこか諦めた様子で愛想笑いをした。
 双子は何かと比較されながら育つものだ。ラクチェがスカサハを引き合いに浅慮を指摘されて落ち込む姿を、シャナンは何度も見てきた。同じようにスカサハも、ラクチェのしがらみに囚われない大胆さを羨ましく感じているだろうことは、容易に想像がつく。
 だが、ラクチェはシャナンの旅に同行したいとは言いださなかった。スカサハは、ここ一番では決して譲らない芯を正しく持ち合わせている。何も悲観することはない。
 そう伝えるべきか悩み、結局口をつぐんだ。伝え方を誤り、ティルナノグでの大胆な願いを責められたと誤解される可能性を恐れたからだ。
 静かな時間の中で、剣をしまう音がした。空は茜に色づいている。砂漠の熱も冷めつつあった。
「セリスや皆を守ってくれたことへの礼がまだだった。スカサハ、いろいろと大変だっただろう。すまなかった」
「いえ、シャナン王子さえご無事なら俺は……」
 スカサハは言葉尻を濁しながら照れくさそうに俯いた。
 ほぼ同じ言葉と共に俯いたラクチェの姿と重ね合わせて、やはり双子なのだなと微笑ましくなる。
「うむ。ラクチェにも同じことを言われた」
「俺たちにとって、王子は特別な存在ですから」
「そうか」
 ラクチェが話しかけてくれた時は剣を見てやったが、どうしたものか、と考える。
 シャナンはホリンからも剣を教わっていたが、得た剣はアイラに近い。アイラに似たラクチェの剣であれば助言も容易だが、スカサハに対しては、そういうわけにもいかなかった。
「おまえは、随分と腕を上げたな。ますますホリンに似てきた」
「父さんに」
「ああ。おまえの剣は人を守るための剣だ。ホリンも、いつもアイラを守りながら戦っていた。当時は戦う力を持たなかった私だが、それでもわかるほどに、大切なものを守る力がある剣の使い手だったよ」
 話しながら、シャナンは幼き日の、ほろ苦い気持ちを思い出した。

 まだ十にも満たない年だった頃、シャナンはホリンのことが嫌いだった。シャナンがアイラにしてあげられなかったことを全部できるホリンが妬ましくて仕方なかった。
 当時、シャナンは自分のために無理をするアイラの姿を見ながら、戦う術を持たないことに情けなさを抱いていた。
 ぼくに力があれば、アイラを助けられるのに。
 そう嘆いた回数も、一度や二度ではない。
 情けないという感情が頂点に達したのは、シャナンの未熟さにより、アイラの剣を汚してしまった時だった。
 まだシグルドと出会う前。亡命の末にようやく辿り着いた国ヴェルダンで、シャナンとアイラは国の第二王子が傭兵を募集しているという噂を知った。ヴェルダンは、森が歌い湖が舞う美しい国だった。これだけの自然と景観を維持できる国の王族なら間違いないだろうと、二人は王子キンボイスの元を訪ねた。
 けれど、ヴェルダンの支配者は、景観と不釣り合いな薄汚い心を持つ蛮族たちだった。
 アイラを傭兵として雇うなり、キンボイスは真っ先にシャナンを人質に取った。卑怯なことに、シャナンを盾に脅して、アイラの力を利用しようとした。
 キンボイスの脅しは効果的だった。シャナンを守るために、アイラは王家の気高い剣を悪事の加担に使った。シャナンの無力さが、アイラの剣を汚してしまったのだ。
 シャナンはそのことをずっと申し訳なく思っていた。
 恩人シグルドが助けてくれなければ、アイラは気高さを失ったまま戦い続け、死んでいたかもしれない。
 シャナンは情けなさに打ちのめされながら、いつかアイラを守れるほど強くなると誓った。
 けれど、間もなくホリンが仲間になり、その決意は不要なものになった。ホリンがアイラの背を守っていたからだ。シャナンが強くなったところで、もはや入れる隙はどこにもなかった。
 それどころか、ホリンはアイラの心までもを奪っていった。
 シグルドが王都を治め、アグストリアに一時的な平和が訪れていた頃。ホリンから受け取った勇者の剣を大事に手入れするアイラの姿を見つけた瞬間、アイラの心はホリンにあるのだと子供ながらに気づいた。
 シャナンは愛おしげに剣を見るアイラには声をかけず、ホリンの姿を探した。そして後ろ姿を見つけるなり叫んだ。
「アイラを返せ、ぼくに返せ」
 子供じみた言いがかりだった。それでも、まだ幼かったシャナンにとって、アイラは唯一残された家族だった。
 旅を始めたばかりの頃は、なぜアイラが一人の時に寂しそうな顔をしているのかさえ理解できていなかった。
 けれど、祖国を離れてから経過した一年以上の歳月は、現実を知るのに十分だった。
 大好きだった父も、母も、祖父も、もうこの世にはいない。シャナンはとっくに現実に気付きながら、明るく振る舞い続けていた。暗い顔をしてもアイラを困らせるだけだと知っていた。アイラはシャナンの前ではいつも強がって、悲しい顔を見せてはくれなかった。だから悲しむわけにはいかなかった。
 困り顔で近付いてきたホリンの胸を問答無用で必死に殴った。言葉にできない感情をぶつけるように手を動かした。筋肉の弾力が直接手に伝わってくる。珍しく鎧を外した姿だった。
 ホリンはいつでもシャナンを止められただろうに、避けようともせずに立ち続けていた。
 その余裕な態度すら、シャナンには苛立たしかった。王家の子供が無闇に怒りをぶつけてはならないと頭では理解していたが、それ以上に、溜まりに溜まっていた苦しみが溢れだして止まらない。
 次第に疲れて、殴る手にも力が入らなくなる。動かすことも大変になり、ホリンの胸に手を預けたままにした。晴れない気持ちを誤魔化すように、しゃくりあげながら恨み言を続けようとした。けれど、その前に大きな手が控えめに頭を撫でてきた。
「俺は……おまえの家族を奪おうとしたわけではない」
 シャナンは、反射的に触れてきた手を払いのけた。涙がたまった瞳で、遥か頭上にある顔を見上げる。
「だけど、おまえがぼくの役目を奪ったんだ。ぼくが……、ぼくが強くなってアイラを守るはずだったのに。ぼくを守ろうとして汚れた気高さのためには、そうしなきゃ、いけなかったのに……」
「ならば俺が剣を教えよう。それでおまえの役目を果たせ」
 一瞬、何を言われたのか訳がわからなかった。それから身体の芯がじわりと熱くなった。ホリンに憐れまれたのだと思うと、抱えていた悔しさがにじり寄るように刺激された。再び苛立たしさが募っていく。
「誰がおまえなんかに——」
 シャナンの役割を奪った本人から剣を教わるなんて馬鹿げている。
 唇を噛み締めた。爪が手のひらにめりこんで痛い。
 そんなシャナンの怒りに、ホリンは傷ついた目をしていた。シャナンの何倍も大きく見える、シグルド軍でも随一の背丈を誇る大男が、言葉一つで傷ついていたのだ。
 罪悪感が、ちりちりと胸を焼く。
 どうしてこの男が傷つくのかが、わからなかった。わからなかったが、ひどいことを伝えた自覚はあった。
 ホリンは大人だった。目だけが傷ついたと訴えかけながら、それ以外の態度を何一つ変えなかった。
「小さな意地で力を得る機会を無にするつもりなら、俺もこれ以上は何も言わん」
 ホリンは軽々とシャナンをどかして、先へ進もうとした。
 シャナンは考えるよりも先に、ホリンのズボンのベルトを掴んでいた。
「本当に、教えてくれるの」
 悔しがりながらも、言われた通りだと思った。シャナンは強くなりたかった。
 ホリンは困惑した目で見下ろしてから、目線を合わせるように屈んでくれた。
「俺は嘘つきが嫌いだ」
 誠実な青い瞳。その瞳を見ていると反発心が溶けて消えていくようだった。
 最後には、シャナンも唇を尖らせながらも教えを乞うた。
「……よろしく頼む」
 ホリンは一瞬切れ長の目を丸めてから、大きな手であやすように頭を撫でてきた。シャナンは気恥ずかしさを覚えながらも、温かな手を受け入れた。
 視界の奥に広がっていた青空はホリンの瞳と同じ色をしていた。空の上には、大きな鷲が二羽、力強く飛んでいた。
 
「おまえの父は、立派な人だったよ。黒鷲のように勇敢で、不器用で、懐が広かった」
 しみじみと呟くと、スカサハは嬉しそうに口角をあげて頷いた。たとえ記憶には残っていなくとも、親を褒められたことが嬉しいのだろう。家族思いのスカサハらしい反応だ。
「なんだか、父さんが見守ってくれている気持ちです」
 のびやかに広がる茜色の空には、鳥の姿が一羽もない。スカサハは照れくさそうに表情を緩めていた。
「そうだな」
 二人はしばらく無言で空を眺めた。
 ゆったりとした時間の流れとともに空は紫へ変わり、周囲は暗闇に包まれた。見渡す限りの砂が広がるこの地では、夜になると昼の熱を忘れたように冷え始める。
 ティルナノグで寒そうに腕をさすっていたことを思い出して、シャナンは隣で同じように空を見上げている姿を見た。すぐに寒がることはないだろうが、やはり薄着だ。
 この先の戦争を考えても、これでは心許ない。
「おまえは、その軽装をどうにかしなければならんな。鎧で身を守りながら戦うほうが良い」
「鎧なら今も着けていますよ」
 スカサハは胸元の革鎧を指差したが、シャナンの示すものは異なっていた。
 ホリンは深い空の色をした立派な鎧を身につけて戦っていた。アイラやシャナンのように、軽やかな動きが得意な剣士では危険が増すが、丈夫な鎧は基本的に着用者の身を守るものだ。ホリンに似た力強い剣を持つスカサハが身につけない理由はどこにもない。
「もっと丈夫な鎧だ。おまえの父のような」
「父さんの……」
「嫌でなければ、後で丁度いいのがないか聞いてみよう。しばらく待っていろ」
 話しながら歩き始めると、スカサハも当然のように半歩後ろをついてきた。
「ありがとうございます」
 暗くなった足元を、月明かりを頼りに歩いた。ふくよかな砂粒を踏む乾いた音が二人分重なって響く。足音を響かせながら、シャナンは重なる音に心強さを覚えていた。


   2.


 シャナンが解放軍と合流してから数日が経った。イード神殿からダーナ砦へ向かう道はよく整備されていた。一人で旅をしていた時に悩まされた困難をほとんど感じることもなく、砂漠を抜け、進軍は続いた。
 早朝、まだ日が昇り始めたばかりの時間。どこか落ち着かない気持ちで歩いていると、深い青の鎧を身につけて剣を振るスカサハの姿があった。
 握っている剣は、再会したばかりの時に持っていたものではない。鎧と共にシャナンが渡したものだ。
 シャナンの立つ場所からでは見えないが、力強く振り下ろされる剣の鍔には、目立たない場所にイザーク王国の国旗を模したデザインが彫られているはずだ。イザーク王家のための剣の証だ。
 一般的な刃渡りの大剣は、父譲りの長身を誇るスカサハの手にも馴染んだらしい。今のスカサハは、勇敢な守護者と称されることも多いフォーレストそのものだった。

 朝の湿った風が、安らかな感情に寄り添うように吹いた。
 たおやかに揺れる髪。父とアイラの姿を求めて伸ばし始めた髪は腰にまで達している。十七年前は、まだ肩にも触れるかどうかという長さだった。セリスたちが庭で走り回るようになった頃には胸元に到達し、父やアイラと同じ長さになってからは、それ以上伸びなくなった。
 伸ばした髪は、シャナンの決意だった。父やアイラが力なきシャナンを守ってくれたように、シャナンも無事に子供達を守るのだと、彼らと同じ黒髪に誓っていた。
 髪を伸ばしたシャナンに反して、共に子供達を見守ってきたオイフェは決して髪を伸ばそうとしなかった。シグルドと同じ長さにおさまるように切り、伸びては切ることを何度も繰り返していた。直接確認したことはないが、オイフェもシャナンと同じなのだろう。
 子供達を守ると言いながら、体の半分を過去に沈めたまま懸命に光に縋って生きている。
 今の戦いもそうだ。セリスは民のためだと前を向く中、シャナンは、過去の約束や清算といった感情を捨てられずにいた。きっとオイフェも。
 あまりにも多くの犠牲と惨劇を知っているシャナンたちは、真に民のことだけを考えては戦えない。
 
 朝日を浴びるスカサハの姿に目を細めた。子供達が健やかに育ってくれたことを嬉しく思う。
 鍛錬の邪魔をしないよう、シャナンは来た道を戻ろうとした。
 そして、驚きに息を呑んだ。
「ディアドラ……様?」
 振り返った視線の先にあったのは、珍しい紫銀の髪だ。光を受けて白く輝く髪から目が離せなくなる。少女が纏っている雰囲気もディアドラそっくりだった。独特のおっとりとした空気は、赤ちゃんだったセリスを抱えながら子守唄を口ずさむ、記憶の中の姿とぴったり重なった。
「シャナン王子、こんな場所でどうかされましたか?」
 呟く声が聞こえたのだろう。先程まで気配に気づく様子もなかったというのに、スカサハが剣をしまってそばに来ていた。
 シャナンは、なんとか動揺を隠しながら訊ねた。
「スカサハ、あの子は誰だ」
「ああ、ユリアですか。レヴィン様が拾った子らしいです」
「……ユリア、そうか」
 落ち着いて見ればユリアの髪はまっすぐと伸びていて、ディアドラのようなうねりはない。年も若く、まだ十六かそこらのようだった。
 胸が締め付けられるように苦しかった。これは落胆なのだろうか。それとも恐れだろうか。いずれにしても、スカサハが近くにいなければ、さらに取り乱していたに違いない。
 イザーク王国の未来を背負う立場である以上、たとえ身内でも情けない姿を見せてはならない。
 自分自身に言い聞かせることで、なんとか動揺を隠していた。
 アイラは、シャナンがいると気づいている時には苦しげな表情を見せなかった。当時のアイラの歳を超えたシャナンが甘えられるはずがない。
 だが、動揺を隠さねばと思うほどに後悔が呼び起こされた。幼き日の後悔を思い出す時、心は無防備な子供に戻ったかのように脆くなる。別人だとわかってなお、ユリアにディアドラの影を見てしまっていた。
 イード砂漠で大きく成長したセリスを見て、ようやく交わした約束を果たせたのだと思っていた。けれど、シャナンは過去に縛られたままだ。ディアドラとセリスを守るという、恩人と交わした大事な約束に。

 あ、と気の抜けた明るい声がして顔を上げた。
「シャナン王子、見てください。あんな場所に山羊がいますよ」
 スカサハにしては、珍しくはしゃいでいるらしかった。子供のように無邪気な笑顔を浮かべている。
「イザークのよりもツノが小さいんですね」
「国が恋しくなったか」
「俺にとっては大切な思い出が沢山ある故郷ですから。すみません、ご迷惑でしたよね……」
 照れくさそうに頬を掻く姿。春の穏やかな風のように、スカサハの笑顔は心を優しく満たす。
 シャナンも気づけばつられて笑っていた。
「ふっ……、おまえは昔から感情を内に溜めがちだからな。たまには何も気にせずはしゃげばいいさ」
 スカサハは、照れくさそうな顔を変えずに頷いた。それから、軽い足取りで山羊の方へと歩き始めた。
「シャナン王子も来てください」
「まったく、仕方ないな」
 子供の頃でさえ、スカサハがこのようにシャナンを誘うことはほとんどなかった。驚きはあれど、はしゃげばいいと言った手前、断ることも無粋に思える。
 ユリアの姿に後ろ髪を引かれながら、シャナンはスカサハを追いかけた。はじめは歩き、次第に追いつこうと小走りをした。
 動揺に沈んでいた心がわずかに晴れていることに気づく。
 シャナンは、目の前の無邪気な姿に心ゆくまで付きあった。


   3.


 進軍は順調だった。イード砂漠の南方にあるダーナ城とメルゲン城は無事に解放できた。今は決死の防衛を続けているレンスター城の救援に向かおうと軍を進めている。
 レンスター城は帝国が重点的に戦力を割いている地であり、この先の戦いは、ますます激しくなることが予想された。
 そうなる前に、オイフェと話す時間を設けたかった。解放軍に合流してからというもの、オイフェと二人で話す時間を中々取れずにいた。
 誘い時を考えていたところ、先にオイフェから晩酌に誘ってくれた。シャナンは悩む間もおかずに、誘いにのった。
 そこまでは良かった。
 オイフェは、シャナンが遠回しに相談しようとしていた悩みを的確に見透かしていた。

「シャナン、今日はずっとディアドラ様のことを考えているね。きみのことだから、ユリアが重なって見えているんでしょう」
 酒が回り始めたところで、他愛無い話と何一つ変わらない調子で切り出された言葉。盃を満たす酒が、あわやこぼれるところだった。
 ちょうど、オイフェが得たユリアの印象を聞きたいと思っていたのだ。たとえ真実がどうであれ、オイフェが一言、彼女とディアドラは関係ないと言えば信じられる気がしていた。けれど、先に切り出されては手遅れだ。オイフェの発言は、ユリアに少なからずディアドラとの類似性を見つけているからこそのものだった。
「なぜ、わかった」
 液体をこぼさないよう気をつけながら、まだ並々と酒が入ったままの盃を置く。オイフェは、シャナンの質問こそ意外だと言いたげに目を丸めていた。それから、口髭に触れて得意げに唸った。
「きみはうまく隠しているつもりなのかもしれないけど、そういう感情はわかりやすいんだよ。それに、きみは案外、顔に出るから」
 さすがは軍師だ。オイフェは感情の機微を捉えることに長けている。今まで、何度同じように見透かされてきたかわからないほど、オイフェはいつだってシャナンの感情、とりわけ悩みを的確に見抜いてきた。
「ならば、もっとうまく隠さねばな。私はイザーク王家を継ぐのだから」
 シャナンはわざと冗談めかして肩をすくめた。いままでオイフェに散々悩みを見抜かれてきた身としては、今更すぎる言葉だった。
 盃に再び手を伸ばし、口へと流しこむ。酒特有のくさみが鼻にぬける。視界の端には眉をしかめている表情があった。どうやらシャナンの考え方が気に入らなかったらしい。
 オイフェは、諭すような口調でゆっくりと訊ねてきた。
「全て隠してひとりぼっちになった王に誰がついてくるの」
 冗談めかした言葉が本心だと、オイフェは正しく気づいていた。けれど、諭されたところで思いは変わらない。
 シャナンの両肩には多くの期待がのっている。シャナンに未来を託して命を散らした存在のためにも、期待には応えなければならなかった。それがイザーク王家を継ぐ者としての務めだ。
「だが、父も祖父も叔母も皆、一人で立っていた」
「アイラさんが? きみがそう思っているうちは、向けられている視線にも気づけないだろうね」
 こういう言い方をする時、オイフェはシャナンが見えていないものに気づいている。気づいていながら、決して押しつけようとはしてこない。先のように異論を述べてくることもあるが、オイフェが道を示す時には、理解も選択も、基本的にはすべてシャナンに委ねられていた。歳の離れた兄が弟の手を引くように諭し、道を示すまでが、オイフェの領分だった。
「なんのことだ」
「それこそ、自分で気づかないと」
「たまにおまえは親みたいなことを言う」
 皮肉のつもりだったが、オイフェは特に気にした様子もなく口髭を弄った。酔いが回っているのだろう。顔がだいぶ赤い。
「シャナンこそ、情けない姿を見せるわけにはいかないと言いながら、私には弱音を言うじゃないか」
「おまえとは長い付き合いだ。それに、おまえは私が守るべきイザークの民でもないからな」
「そうだね。けれどね、私以外にもきみを心配している人は大勢いるんだよ」
 シャナンは盃を一息に煽って、不満をこぼした。
「イザークには、イザークのやり方がある」
 オイフェがどう考えようと、それだけは譲れない。グランベルの考え方で王が動けば、皆が守ろうとしてシャナンに託していったイザーク王国は消えてしまう。
 シャナンが目指すべきは、アイラの姿であり、父の姿だった。国旗に示されている力強きイザーク王国の再建こそが、課されている使命だった。
 オイフェは、空になったシャナンの盃に酒を注いでくれた。
「ごめん、今日は口を挟みすぎたね」
「構わん、心配してくれたことはわかっているさ」
 二人はそれきり話題を変えて、他愛無い話をした。セリスの成長。これから先の戦いのこと。
 ユリアについてオイフェが触れてくることも、シャナンが切り出すこともなく、夜が更けていく。
(それも、答えは自分で見つけろということか)
 シャナンは心に抱えた小さな引っ掛かりを見ないようにしながら、気のすむまで酒をあおった。


   4.


 レンスターに吹く風は冷たかった。夏の盛りが過ぎ、じわじわと冬が近づいてきているのだろう。日も徐々に短くなり始めていた。
 そんなもの寂しい季節の中で、シャナンは本陣を離れて一人で佇むことが増えていた。敵襲の警戒が必要な場面では皆のそばにいたが、そうでない時は、手頃な場所で一人、アグストリアの方角を見つめた。
 季節特有の哀愁が、どうしてもディアドラがいなくなった時のことを想起させる。
 ティルナノグで同じように佇んでいた時はラクチェが話しかけてくることも多かった。だが、最近ラクチェには恋人ができたらしく、前のように話しかけには来ない。
 ラクチェが幸せを掴んだことは喜ばしかったが、子の巣立ちは、胸の真ん中がぽっかりと空くような淋しさがあった。
 セリスも、ラクチェも、スカサハも。託された子供たちは少しずつシャナンの手から離れていく。そのうち、果たせなかった約束への後悔だけが癒えることなく残るのだろう。
 シャナンがいくら手を尽くしても、幼きセリスから母を奪ってしまった過去は変わらない。ディアドラもセリスの成長を見たかっただろうに、シャナンは未来を失わせてしまった。
 忘れられない秋の午後。あの時、すぐに帰ってくるという言葉を信じずに、無理にでも止めるべきだった。シグルドと離れて寂しがるディアドラを止められるのはシャナンしかいなかったのだから。
 ディアドラが消える直前の、淑やかな笑顔が脳裏に浮かぶ。同時に、遠くで姿を見かけたきり未だに話せずにいる少女の姿を思いだした。
 心にひっかかっている姿は、少し考えるだけで胸をざわつかせた。そんなはずはないと理解していても、ディアドラが責めに来たのではないかと、嫌な想像が頭をよぎってしまう。
 ディアドラはそんな人ではない。
 ユリアは、ディアドラではない。
 自分自身に言い聞かせようと、脳内でまじないのように何度も唱えた。恐ろしい予感は中々消えない。
 強い風に身震いをした。頬に触れると、指先が温度を失っていた。途端に、一人が心細くなった。
 オイフェは、ひとりぼっちの王に誰がついてくるのかと言っていた。だが、シャナンに言わせればその逆だ。弱き王に、一体誰がついてきてくれるというのだろうか。
 イザーク王家が各地の部族をまとめられていたのも、そこに力があったからだ。国の性質がグランベルとは異なっている。国をまとめるためには、何よりも力が必要だった。
 冷えた指先で拳をつくり、もう一度アグストリアの方角を見た。それから、シレジア、リューベックを経由してイザークを。シャナンがかつて歩いた旅路を、かすんだ景色の奥に見つけていく。
 最後に名残惜しくイザーク城の方角をじっと見た。この戦が終わればようやく戻ることができる、もう十数年と帰れずにいる故郷だ。
 こうして景色を眺めていると、己の弱さを自覚させられる。長年の悲願だった祖国の解放に間に合わず、解放軍に合流してからも、過去ばかりを見て前を向けずにいた。子供達は皆、帝国の支配からの解放という未来を見て戦っているが、シャナンは目の前にいる皆を守ることで精一杯だった。
 目を瞑り、懸命に未来を思い描いてみる。戦争が終わった時のことは考えられても、イザーク王城で国王として過ごす姿はどうしても想像できなかった。祖国に思いを馳せた時に思い浮かぶのは、野山を駆け回る少年の姿だ。
 草の匂い。風が強く頬を撫でる感覚。静かな足音。動物の鳴き声。
「シャナン様」
 突然話しかけられて、びくりと肩が跳ねた。聞き馴染みのない、柔らかな声だった。
 何事かと振り返れば、そこには想像していなかった少女——ユリアの姿があった。
 ディアドラと同じ紫銀の髪は、風でさらさらと揺れている。
「私に用か」
「いえ、シャナン様が私と話したそうにされていると聞いたので……」
 ユリアはおずおずと言ったが、誰かに言伝を頼んだ覚えはない。シャナンは唇の下に手を添え、風に揺れる草をじっと見た。それから、もしやと思い聞いてみた。
「オイフェか」
「いえ、スカサハ様から」
 思いがけない名に困惑した。スカサハは、シャナンが抱えている後悔を、はっきりとは知らないはずだ。
 オイフェが過去を話したのか。
 一瞬疑ってから、それはあり得ないことだと考えを改めた。
 オイフェがこの手のお節介を焼くことはないだろう。シャナンが、子供達に弱さを見透かされ、失望されることを恐れていると、オイフェは誰よりも理解してくれている。
 ならば、何故。
 思考が奥へ進もうとしたところで、それを阻むように遠慮がちな声がした。
「あの、シャナン様。もしかしてお忙しかったでしょうか」
「すまない。少し驚いていたんだ。おまえが、あまりにも……恩人に似ているものだから。母君も同じような髪をしているのか?」
 母のことを訊ねると、ユリアは表情を曇らせて、申し訳なさそうに俯いた。
「あ……。すみません。わたし、何も覚えていなくて」
「すまない、そうだったのか」
「いえ……」
 静かな空気に、冷たい風が音を立てて吹き抜けた。なんとか話題を見つけようと、スカサハが話してくれたことを思い出す。
 たしか、ユリアのことはレヴィンがセリスに預けていったと話していた。
 セリスも頼もしくなったとはいえ、今までは守られてばかりの立場だったはずだ。人の世話の焼き方、ひいては、シャナンでさえよく掴めなかった年頃の娘との接し方を心得ているとは思い難い。
「セリスに頼りないところはないか」
 なるべく優しい声音で尋ねると、ユリアの視線があがった。小さな花が咲くときのように、淑やかで控えめな顔を見せてくれる。
「ふふ、大丈夫です。ラナにも良くしてもらっています」
 目の前で微笑む姿は、やはりディアドラと重なった。だが、ユリアと話すうちに、心のわだかまりは晴れていくようだった。
 やはり、この子はディアドラではない。ディアドラのことを知っているわけでもなければ、シャナンを責めにきたわけでもない。どこにでもいる、一人の年頃の娘だ。
 当たり前の確認だったが、シャナンにとっては、その当たり前こそが大切だった。
「ならば良かった。ラナは料理も上手だからな。興味があれば教えてもらうといい」
「そうします。シャナン様もお料理をされるのですか?」
「いや、具を切る手伝いくらいだ」
 昔、一度だけつくった料理で皆の不評を買った話をすると、ユリアは口元を手で隠しながら笑った。
 ユリアは皆が子供の頃の話を興味深そうに聴いては、他の話をねだってきた。ついつい話しこんでしまい日没が迫る。
「もうじき暗くなるな、皆のもとへ戻ろう」
 ユリアは、はい、と頷いてシャナンの隣を歩いた。
 夕陽を浴びながら、シャナンはティルナノグで子供達と歩いた帰り道を懐かしんだ。道に漂う哀愁がどこか似ていたからかもしれない。


 ユリアと話した翌朝も、スカサハは剣を振っていた。
 軍の中には、戦争への不安も相まってか、恋の話題が増えている様子だった。ラクチェのように誰かと恋仲になる者も少なくない。けれど、スカサハには全くその気配がなかった。
 こいつも年頃だろうに。ふつふつと、そう思ってしまう。
 恋愛から遠ざかった日々を過ごしてきたシャナンが言えたことではないが、若い頃の恋心は大切にしてほしかった。剣の腕を磨くことも大事だが、守るものを持ってもらいたかった。それが、いざという時に力となり、スカサハの身を守ってくれるはずだと、シャナンは考えていた。
「今日も鍛錬か」
 話しかけると、スカサハは嬉しそうに顔を綻ばせた。
「シャナン王子。おはようございます」
「うむ。おまえはいつ会っても食うか寝るか剣を振るかだな。たまには休息をとっても良いんだぞ」
 気遣ったつもりが、スカサハは困った様子で休息、と呟いた。握っている剣の先を見つめて悩んでいるようだ。
 遠くでは、じわじわと閑静な朝が終わりを迎え始めている。鳥の鳴き声や、人々の話し声。馬が野を駆ける音が、風に乗って聞こえてきた。
「ティルナノグにいる時から、ずっとこんな生活ですから」
 スカサハは剣の先を見つめたまま眉根を下げた。
 このままではいけないと、親心で思ってしまう。
「だが、たまの息抜きも大切だ。おまえにも好きな子くらいはいるのだろう。その子を散歩にでも誘ったらどうだ」
 慰めたつもりが、スカサハはますます眉根を下げた。
「俺は、剣を振っている方が落ち着くからいいんです」
 何かと内に溜めがちな性格が恋愛にも現れているのだろうか。感情を感じさせない淡々とした声だった。
 できることなら何とかしてやりたいが、どうすればいいのかがわからない。
 幼い頃からずっと見守り育ててきた。けれど、シャナンもスカサハの全てを知っているわけではない。むしろ、最近ではわからないことの方が増えていた。
 食の好みも、好きなことも、悩みも。
 何か、行動を起こすきっかけにできることはないだろうか。記憶を端からあたり、一つ伝えたかったことを思い出した。
「ユリアに私と話すよう勧めてくれたそうだな」
「すみません」
 スカサハはすっかり内気になってしまったらしく、バツが悪そうに肩を下げた。
「責めているのではない。むしろ胸のつかえがとれて感謝している。よく、私が彼女を気にかけていると気づいたな」
 スカサハのおかげで冷たい朝の風に寂しさよりも清々しさを感じていた。今の気候にしては珍しく、夢見も随分とよかった。
 シャナンの感謝に、スカサハは顔を上げて柔らかく微笑んだ。
「いつも、王子を見ていますから」
 その柔らかな表情に、ぴんとくるものがあった。
 スカサハの魅力は飾らない素直さだ。穏やかで感情を内に溜め込みがちだからこそ、人の心を優しく包みこむ暖かさが活きてくる。
 その長所をスカサハ自身が理解すれば、奥手になっている恋愛でも一歩進む勇気を得られるかもしれない。
「そうだ。そういう言葉を好きな子に言ってやればいい。そうすればきっと、相手にもおまえの良さが伝わるさ」
 だが、シャナンの思惑に反してスカサハは再び顔を曇らせてしまった。何か、他に不安あるのだろうか。
「……そういうものでしょうか」
「ああ。それで無理だった時には私がいる。剣を振っている時間が落ち着くならば、私といくらでも交えれば良い。そうすれば忘れられるだろう。だから、恐れずに頑張れ」
 シャナンは、思いつく限り励ましの声をかけた。スカサハは困りきった顔のまま、口元だけを緩やかに曲げて笑おうとしていた。
「それなら、今から付き合っていただけませんか」
「既に諦めているのか?」
「俺に伝えるつもりがないんです。優しい人だから、きっと嫌でも拒んでくれない。無理をしてでも俺を受け入れてしまう。俺は、そんな人を好きになってしまったんです」
 切なくも相手を思いやる柔らかな表情に、スカサハの想いの強さを感じた。シャナンがいくら言葉を重ねたところで、決意は変わらないと予感させる表情だった。
 これ以上は何もしてやれなさそうだ。
「スカサハ。……剣とは言わずなんでも付き合ってやろう。他に、私がしてやれることはあるか」
 元気づけようと可能な限り明るく問いかけると、スカサハは悩ましげに唸った。
 空気は暖かだというのに、風の冷たさに身震いをしてしまう。スカサハはさらに薄着だったが、まったく寒がる素振りをみせなかった。
 やがて、迷いを残した声が訊ねてきた。
「一つだけ、お願いをしても良いでしょうか」
「むろんだ」
「シャナン王子の隣で戦う権利をください」
 思いがけない願いに、シャナンは言葉を失った。
 スカサハの望みならばなんでも聞いてやるつもりだった。スカサハならば無茶な願いは伝えてこないだろうと思っていた。
 だが、危険に飛び込もうとするならば話は別だ。シャナンは相手のことを理解し、恋を諦めているスカサハを少しでも元気づけたかった。スカサハを危険に晒しては意味がない。
 それはできない、と言おうとして、言えなかった。声をぴたりと重ねてスカサハも話し始めたからだ。
 声が重なった時、いつものスカサハならば口を閉ざすが、今回に限っては有無を言わせない強さがあった。シャナンは押し負ける形で言葉を呑んだ。
「みんなは、シャナン王子が先陣を切って前に出る姿に勇気をもらっています。ですが、俺はそんな王子の隣で役に立ちたいんだ」
 切実な訴えかけだったが、シャナンも簡単に譲るわけにはいかなかった。
「駄目だ、そんな危険な——」
「危険だということは理解してます。それでも、シャナン王子はセリス様を守ろうと前に立つのでしょう」
「私には代々受け継がれてきた神剣、バルムンクがある」
「バルムンクを手にする前から、ですよ。オイフェさんを庇って怪我をしたことだってありました。今までは力不足と諦めていましたが、俺も強くなったはずです」
 その言葉に、はっとさせられた。まだ、アイラがそばにいた時の記憶を思い出したからだ。
 
 幼い頃、シャナンはアイラの戦いを見るたびに不安を覚えていた。
 アイラはいつだって無茶をした。弱さを見せず、気高く、危険を省みずに戦場へと飛び込む後ろ姿。シャナンはその姿に憧れると同時に、無謀さが不安で仕方なかった。
 アイラが居なくなったらどうしよう。
 近くで共に戦える強さがないことに悔しさを感じながら、いつかは強くなってアイラを守ると心に誓っていた。。
 アグストリアでホリンが合流してからは、もどかしさや妬みを覚えながらも感謝していた。ホリンがアイラを守り、支えてくれていたからだ。
 幼かったシャナンは感謝を伝えられず、ホリンを嫌い、八つ当たりばかりをしていた。けれど、過酷な戦乱をアイラがいつも怪我せず切り抜けてこれたのは、ホリンのおかげだと、本当は理解していた。
 だからこそ、余計にアイラを盗られてしまうことを恐れた。
 シャナンではアイラを守ってあげられなかったから。ホリンの前でなら、アイラは弱さを晒せたから。
 ホリンが優っていた点を挙げればきりがない。
 シャナンは戦えない分、せめて元気であろうとした。遠くでアイラが沈んだ顔をしているときには、決まって近くに寄って笑いかけた。
 二人でイザーク王国を離れた時からずっと、シャナンはアイラを笑顔にしようと、明るくはしゃいで過ごしてきた。動物の姿形の差異を話し、無邪気に笑いかけた。
「見てアイラ。ここらの山羊は、イザークよりもツノが小さいんだね」

 ——シャナン王子、見てください。あんな場所に山羊がいますよ。
 ああ、そういうことか。
 以前は拒み、聞き流してしまったオイフェの小言が今になって腑に落ちる。
 ——私以外にもきみを心配している人は大勢いるんだよ。
 シャナンが一人で立とうとしているうちは、子供たちからの心配にも気付けないと、オイフェは忠告してくれていた。
 シャナンが気丈に振る舞うアイラの寂しさと危うさに気づいていたように、スカサハも恐らく、シャナンの中にある危うさを見ているのだろう。
 そして、実践の過酷さを知ってなお、イザークの次期国王として一人で立とうとするシャナンを支えたいと願ってくれた。王家の血を引く身内の一人として、恋を諦める代わりにするほどに強く、願ってくれていたのだ。
 当時のシャナンには力が足りなかったが、スカサハはもう立派に成長していて、実力も申し分ない。皆を守りたい一心で、シャナンが自分の身の安全を後回しにしている自覚もあった。
 ならば。本当にスカサハや皆のことを考えるのならば、シャナンがするべきは拒絶ではなく許容ではないだろうか。アイラがホリンに背中を預けたように、シャナンも誰かに背中を預ける時が来たのかもしれない。
 スカサハもいつかは巣立ってしまうだろう。だが、それまでならば、と考えなおす。
「そうだな、おまえはもう強い」
 最近のスカサハの剣技を脳裏に浮かべながら呟くと、スカサハの纏う空気が一気に期待の色に変化した。
 あとは、シャナンが覚悟を決めるだけだった。大事な子供達を危険に巻き込みたくない思いを手放したわけではない。
 セリスを託して旅に出た時とは事情が違う。今度は、確実な危険が降りかかる。スカサハには、なるべく危険の少ない地で戦っていて欲しかった。
 けれど、相手を気遣い感情を呑みこみがちなスカサハの、ここぞという場面で主張される大切な意思でもあった。
 イード砂漠に着いて行きたいと言い出した時、実力を認めながらシャナンのエゴで願いを聞き届けなかった負い目が、ここにきて響いていた。
 シャナンは念を押すように訊ねた。
「おまえは本当に、それで良いのか?」
「はい。ラクチェの隣も埋まってしまって困っていたんです」
 スカサハは、口元を自然に曲げてはにかんだ。戦地に送り出すのも気が引けるような、優しい顔だ。
 手が震える。
 大丈夫だ。スカサハは強い。
 シャナンは一回ゆっくりと瞬きをして呼吸を整えた。
「わかった。ならばおまえに背中を預けよう。……その代わり無理はしないでくれ。何かあれば私をおいてでも逃げると、そう約束してくれるな?」
 スカサハは、ほっとした様子で息を吐いた。
「ありがとうございます。シャナン王子」
 この選択を後悔する日が来ないことを祈りながら、シャナンは淡い願いをこめてスカサハの肩に手をのせた。


   5.


「シャナン様、さすがにスカサハのことを気にかけすぎではありませんか?」
 スカサハに背中を預けるようになってから、ちょうど一月が経過した頃、突然ラクチェから指摘された。
 トラキア北西の村で、ラクチェは保存用の干したフルーツを頬張っていた。乾いた景色に似合わない、ほのかな甘い香りがする。
「食事も稽古も全部一緒。すぐにスカサハを誘うお姿に、子供の頃を思い出します」
 ラクチェはそう言いながら燻んだ赤のフルーツを口に運んだ。
「私がスカサハを子供扱いしているように見えるのか?」
「子供扱いというよりは……」
 いつもならハッキリとものを言うラクチェが、曖昧に視線を下げた。話しにくそうに、言葉尻を濁したまま視線の先で指いじりをしている。
「怒らないから言ってみろ」
「……無礼を承知で申し上げますが、まるで年頃の女子か、過干渉な恋人のようです」
 自身の恋人のことまで思い浮かべたのか、ラクチェは苦々しく顔を歪めた。シャナンもまた、自分自身の行為を省みて、ラクチェと同じような顔をしてしまった。言われてみれば、確かにその通りだった。
 スカサハに背中を預けると決めてからというもの、シャナンは食事や稽古に飽き足らず、入浴や散歩にもスカサハを誘い、付きあわせていた。叶わぬ恋をしてしまったスカサハを少しでも元気づけようと構いすぎていた。
 スカサハもシャナンの気遣いに配慮してか毎回迷わず頷くものだから、他者がどう認識するかを、指摘されるまで考えてすらいなかった。
「それは……。スカサハに悪いことをしたな」
「どうしてですか?」
「おまえだって、兄妹仲の良さを恋人のようだと例えられたら嫌だろう」
「兄妹と従兄弟は違うと思いますけど。それともシャナン様が、という話でしょうか」
 率直な質問に唸ってしまう。スカサハと恋人のようだと言われた場面を想像した。想像の中で、シャナンは自分の内面よりも先にスカサハの横顔を盗み見ていた。
「……いや、私は構わない。今更そういう話題で騒ぐ歳でもないからな。だが、おまえらにとっては違うだろう」
 多感な時期は誰しもが持っている。周囲の目が気になり、些細な言葉が無遠慮に心を引っ掻き、傷として残る繊細な歳。その頃についた傷は十年経っても消えずに、最近のことのように思い出される。きっと、一生消えはしない。シャナンはそのことを、根本の原因は違えどよく理解していた。
「それこそ決めつけですよ。もしも昔の私がシャナン様と恋仲に見えると言われたら、嬉しがっていたと思います」
「昔とは、何歳の話だ」
 ラクチェは短く悩んでから、粒の揃った声で悪戯っぽく笑った。
「それは秘密です」
「やはり、嫌なのではないか」
 釈然としない気持ちで肩を下げると、くすんだ緑色のフルーツが一つ差し出された。
「召し上がりますか?」
「ああ、頂こう」
 なんだかはぐらかされた心地だ。ガサガサとした表面を撫でてから口へ放り込む。水分が抜けて表面がしわしわとしたそれは、口の中に甘酸っぱく残った。

 ラクチェに指摘されてからも、シャナンは適度にスカサハを誘う生活を続けた。突然まったく誘わなくなれば、かえって余計な心配をかけそうだった。
 週に三、四回を目安に食事や稽古に誘うと、スカサハはすぐに返事をして付いてきてくれた。
 シャナンのそばにいる時、スカサハはいつも穏やかな笑顔を携えていた。共にいるだけでも心を晴れさせてくれる顔だ。
 だからこそ、何も行動せず相手への思いやりだけで恋を諦める姿を見ていられなかった。スカサハは相手のことを思って気持ちを伝えないと言っていたが、相手もスカサハも幸せになる道があるように思えてならなかった。


   6.


 トラキアに勝利を収めた後、解放軍は帝国の支配地であるミレトス地方を目指して進んだ。近づくにつれて、気温はどんどんと下がり寒くなった。一年の中で最も日が短い季節が訪れていた。
 ミレトス地方は子供狩りにより活気を奪われ、廃れた地域となっていた。子供達が犠牲になっていることに胸が痛くなる。 ミレトス地方の中で最もトラキアの近くに位置する自由都市ペルルークを救った解放軍を、市民は熱狂的に歓迎した。久々の感覚に、解放軍の皆は喜び九割、困惑一割といった調子で、各々の表情を浮かべていた。間に合わなかった命も多くあったが、救えたものを見て喜ぶことは悪いことではない。特に、娯楽の少ない戦場では大切にすべき感覚だった。
 トラキアとの、大義と侵略の境にあった戦いで止むを得ずも下がっていた士気があがっている。軍はまさに勢いづいていた。
 だが、それから間も無く悲劇が起こった。ユリアが消えたのだ、かつてのディアドラのように。

 ユリアがいなくなったという知らせを受けた時、シャナンはセリスよりも動揺していた。ユリアを助けようと、形だけでも前を向くセリスの近くで、シャナンは帰ってこなかったディアドラのことを考えていた。
 かつてはユリアと話し、ディアドラとは違うのだと安心していたというのに、心は単純で愚かだった。
 嫌な現実から目を逸らそうと、シャナンは戦い続けた。現実も夢も、シャナンを過ちから解放してはくれなかった。
 何度も見てきた悪夢——ディアドラが消えた後シャナンを叱責してくる夢だ——の中に、ユリアの声が加わるようになった。シャナンは子供の頃の姿と今の姿の境界があやふやになったまま、夢の中でうずくまり、声をやりすごした。
 そうして、数日が経った。
 耐えきれない夢に意識が浮上した。呼吸が自分のものとは思えないほど乱れていた。外はまだ暗い。日の出も遠いだろう。
 ユリアはディアドラではない。
 そんなことはわかっていた。けれど、やはりユリアはディアドラに似すぎていた。
 ユリアが消えた日、シャナンは買い物かごを片手に提げたユリアと、城の中で偶然にも出会していた。短い言葉を交わしてから、城下町へ出かけると言ったユリアの背中を、あの秋の午後と同じように、深く考えることなく見送った。
 ディアドラは戻ってこなかった。攫われたきり居場所もわからず、再び出会うことはなかった。ユリアも——と考えかけて、首を振る。
 まだ日が昇る前の暗がりでシャナンの手は震えていた。
 こうして目覚めることは初めてではなかったが、いつも以上に心細かった。
 ざわつく胸を宥めようと剣を持った。そのまま散歩に出る。外に出てから燭台を忘れたことに気づいたが、戻る元気もなく目を凝らして進んだ。
 城から五分ほど離れたところで、視界の端にゆらりと揺れる炎が映った。シャナンは警戒するように剣の柄を掴み、炎の方を見た。
 視線を向けた先には、白いはちまきに返り血を滲ませたセリスが立っていた。ディアドラに似たきめ細やかな肌にも、シグルドと同じ色の青髪にも、赤黒い血が飛んでいる。
「セリス、どうしたんだ」
「少し、目が覚めてしまって」
 セリスはのんきに目元をこすった。いでたちに似合わず眠そうだ。
「そうではない。その血は、一体どうしたんだ」
「血?」
 首をきょとんと傾げる仕草。セリスは全く心当たりがないと言いたげに、頭のはちまきをとった。するり、とほどけたはちまきが風でなびく。
 その瞬間、幻が解けた。見えていた血はどこにもなかった。赤色は、揺れる炎と空の東端にわずかに浮かぶ程度にしかない。セリスのはちまきも、肌も髪も、清潔なままだった。
「すまない、勘違いだ」
 手の甲で目元をこすりながら伝えると、不思議そうにはちまきを眺めていたセリスが顔を上げた。
「そんな勘違いをするなんて、シャナンは少し疲れてるんじゃないかな?」
 慣れた手つきで再びはちまきを結ぶセリス。戦争が始まってから何度、はちまきは交換されただろうか。汚れたセリスのはちまきが真っさらなものへ変わるたびに、大切なものを一つ取りこぼすような感覚と、たしかな安堵があった。
 疲れている自覚はあった。意識の中には、忘れられない後悔と、晴れない感情が常にあった。おかげで、睡眠もあまりよくとれていない。
 けれど、それらはセリスに伝えるべきことではない。
「なんだ、私を年寄り扱いするつもりか」
「すまない、そんなつもりでは。ただ、最近は随分と無茶な戦い方をしていたから気になってしまって……」
「そうか、心配をかけたな。だが、これは私の戦いでもある」
「シャナン」
 風が吹けば消えてしまいそうな声だった。セリスはしばらくの間、悩むようにシャナンの袖先をみつめていた。
「シャナンは一人じゃないよ。それだけは、ちゃんと覚えておいてほしい。ボクもこの前まで忘れそうになっていたから」
 セリスの気遣いが胸に染みる。軍の代表としての重圧に潰されながら、セリスは必死に戦っていた。そして、立派に責務を果たしている。長年共に過ごしてきたシャナンにすら、気遣いの言葉が出てくるほどに。
「おまえは立派になったな。強くもなった。もう、私では足元にも及ばない」
「それも、シャナンのおかげだよ」
 セリスはさらりと言ってのけたが、この強さは父譲りだろう。
 シャナンは、昇り始めたばかりの朝日を背負う立派な姿を見ながら、そう思った。
 
 セリスの勇敢さに負けまいとシャナンは必死に戦った。休むよう促してくれる周囲の声を押しきり、先陣を切って戦い続けた。眠りについた時にシャナンを責める声は、日増しに強くなっていた。最近では周囲からも責任を問われているように思えて仕方なかった。
 心が潰されないよう、果敢に斬り込み、敵を倒していく。肉を断つ感覚に安心感すらあった。自分は役に立てているのだと、敵を斬る感覚に安心を得るたび、罪悪感がわいた。
 シャナンは一人じゃないよ。そう言ってくれたセリスの言葉に反するように、シャナンの目には敵の姿しか留まらなくなっていた。
 グランベル帝国が近づくにつれ、戦いは激しくなっていく。
 
 帝国と橋を介してほど近くにあるミレトス城へ向かう途中の草原。音を立てずに降る雨は服を濡らし、動きを鈍らせていた。視界も悪かった。そのような状況下でも、シャナンは果敢に敵陣へ踏み込んで魔導士たちを倒した。
 魔導士を倒しきり、息をついたのも束の間。殺気を感じて顔をあげると、スナイパーの放った矢が真正面からシャナンを捉えていた。
 避けられない。
 そう思った直後、矢との間に青い鎧が割って入った。スカサハに渡した鎧だ。その瞬間、シャナンは己の愚かさを悟った。
 スカサハの存在を忘れてしまっていた。シャナンの無茶に付き合わせていたことにも気づかないほど、そばにスカサハがいることが当たり前になっていた。
 シャナンは無力なままであった。
 過去に囚われ今を見ず、自己満足の安心を得るためだけに、アイラから預かったかけがえのない存在を危険に晒した。
 声が出なかった。自分のものともわからない苦しげな息が、声とも言えない呻きとなって漏れ出た。
 スカサハ。
 漏れ出た呻きは、そうとは聞こえない形でスカサハの名を呼んでいた。
 永遠にも思えた一瞬。
 次の瞬間には、何事もなかったようにスカサハの足が大きく踏み出されていた。シャナンが譲り渡したはがねの大剣が、スナイパーを斬りさく。
 返り血が青い鎧にべったりと付着していた。雨がゆっくりと付着した血を薄めていく。スカサハの血が、その中に混ざっているかはわからなかった。
 だが、スカサハは生きている。それだけは確かだった。
 シャナンは落としそうになっていた剣を握りなおして、気を引き締めた。
 そのあとは振り向かなかった。スカサハの状態を確認したい気持ちと葛藤しながら、目の前の敵を着実に倒す。斬ることへの安堵はなかった。スカサハの無事をずっと祈り、気にかけていた。シャナンは振り向かない分まで、近くにある息遣いを絶えず意識した。スカサハは動いている。呼吸もいつも通りだ。大丈夫、無事なはずだ。
 そうでなければ、一体この先をどうやって生きていけばいいのだろうか。
 子供達を守りながら、救われていたのはいつだってシャナンだった。セリスを守るという使命があったから、バーハラでの悲劇を知った後も希望を捨てずに生きてこれた。スカサハとラクチェがいたから、アイラの分まで強くなれた。子供達はシャナンを導く光だった。
 時々遊びに行かせていた村が帝国兵に襲われて、ラクチェから友達を奪ってしまった時の無念。あと一歩助けが遅れていたら、シャナンはラクチェまでもを失っていた。その時にも、同じことを思った。今回は、その時以上に恐怖を抱いた。
 力強い姿をもつイザーク王国の山羊は、過酷な環境に住まうからこそ、大きな角を手に入れた。強い力が必要だから、シャナンたちは剣術を命懸けで磨き、己が大切な存在を守っている。
 守るべき存在を失った時、生きる理由はどこにも残らない。己の過ちでスカサハを失ってしまった後、この先に光を見つけられる自信がなかった。
 
 やがて敵の気配が消えた。むせかえるように強い血の匂いがあたりに残っている。体にも同じ匂いが染みついていた。そんな殺伐とした空間には不釣り合いな、柔らかな声で名前を呼ばれた。スカサハの声だ。
 鎧がちょうど張りだす胸のあたりには、最近までなかった傷があった。鋭利な凹みは、シャナンを守ろうとして出来た傷だ。凹みを触ってみたが、穴は空いていなかった。
 鎧がスカサハを守ってくれていた。その事実に、つよい緊張がほどけていく。シャナンはようやく声を出せた。
「……この、馬鹿者が」
 気持ちに反して、声には怒りが滲んでいた。
「なぜ私を庇って前に飛び出すような真似をした」
 怒鳴ってしまったことにシャナン自身が驚いた。けれど、驚きは態度に現れず、一度あふれた言葉もおさまらない。理不尽な怒りだと誰よりも理解しながら、スカサハを叱りつけていた。
 鎧が攻撃を弾くことなど、冷静に考えれば明白なことだった。そのために、スカサハにこれを渡したのだ。
 馬鹿者はシャナン自身だ。
 過去に囚われ、剣に溺れ、大事な養い子を危険に晒した。
「シャナン王子?」
 スカサハは萎縮するというよりも、ただただ困惑している様子だった。シャナンの怒りの意味を理解できずにいるのか、理解した上で感情が追いついていないのか。冷静さを失っている状況では、それすらも判別がつかない。
「無理はしない約束だろう。時間が止まったかと思った。おまえがいなくなってしまうかもしれないと思うと、私は」
 震える声は今にも泣き声に変わりそうだった。雨が涙の代わりに目元を伝う。
 そうだ、恐ろしかったのだ。
 己の愚かな行動でスカサハを失ってしまうことが、何よりも怖かった。
 とうとう、握ったままでいた剣を落としてしまった。そのまま地面へくずおれたかったが、なけなしの意地で堪えていた。
 イザーク王国を託された者として、情けない姿を見せてはいけない。長年意識し続けてきた感情を手放すことは難しい。ましてや、幼い頃から守り育ててきた子には、なおさら、誇れる姿だけを見せていたかった。
 アイラがホリンに背中を預けたように、シャナンはスカサハを選んだ。選んだが、弱さを見せたくはない。
 矛盾する感情も今や無意味なものとなり、どう足掻いても取り繕えなかった。ならばいっそ、今だけは弱さを晒けだしてもいいのではないだろうか。
 弱さも愚かさもすべてを明かす相手として、他の誰でもなく——長年の苦楽を共にしたオイフェですらなく——シャナンを一心に心配し続けてくれたスカサハを選んだのだと、自分に言い聞かせても許されるのではないだろうか。
 許してほしい。守り育ててきたスカサハに甘えてしまう弱さを、一人で立てない無力さを、今だけは許して欲しかった。
 誰に請うでもない許しを必死に求めながら、唇をかみしめた。ぐずついている鼻をすすった。苦しい感情を、一つも飾らず声にする。
「私のせいで、おまえを失うのではないかと思った。私がおまえを忘れて剣の力に頼ったから、私が力無いままだから、私は、何も守れずに、また失うのだと——」
「シャナン様」
 目から本物の涙が溢れかけたとき、輪郭のはっきりとした声と共に、二の腕を強く掴まれた。身を捩っても逃れられそうにないほど、スカサハの力は強い。
「シャナン様、俺はここにいます」
 スカサハは正面から惜しげもなくシャナンを見つめていた。腕から伝わってくる力の強さに、スカサハの存在を感じさせられる。
「俺は、シャナン様がくれた鎧があったから前に出たのです。自分を犠牲に飛び出したわけではありません。それに、あなたが俺を失うことを恐れてくださったように、俺もあなたを失いたくなかったんですよ」
 シャナンが冷静さを失っていたとき、スカサハは着実に戦況を把握していた。己の力量を踏まえ、正しく判断して行動していた。
「……俺だけじゃない。王子はイザーク王国にも、この軍にも必要な人なんです。最近、周りを見ずに無茶する姿を見て、みんながどれだけ心配していたかご存知ですか」
 スカサハに諭されて、整理もつかないままに絡まっていた感情が少しだけほどけた。感情に振り回されていた態度に、自分の意思が戻ってくる。
「すまなかった。庇ってくれた礼を、先に伝えるべきだった。……情けない姿を見せたな」
 自嘲するような笑いが溢れた。
 預かった子供たちは立派に育ったというのに、肝心のシャナンの心だけは、九歳の傷に取り残されたままだった。
「情けなくなんかありません」
 スカサハは大きな声で力強く訴えかけてきた。シャナンの二の腕を掴んでいた手が一瞬離れ、背中へまわされる。
 全身を包みこむ温かな抱擁。戦いを思い出させる錆びた匂いが鼻を刺激した。それすら気にならないほど、スカサハの存在を全身で感じられることに幸福を感じた。
 背中から伝わる細かな手の震え。芯のある髪に頬をくすぐられる感覚。スカサハの声に合わせて耳をくすぐる呼気。それらすべてが、シャナンにスカサハの命を伝えてくれた。
「一人で強く気高くあろうとするシャナン様だから、俺は守りたいと思ったんだ。あなたは俺にとって……誰よりも大切な、失いたくない存在なんですよ」
 スカサハの腕に力がこもる。
 何か返事をしなければと思うが、適した内容が何一つ浮かばなかった。
 羊の群れに一頭だけ混ざった山羊のように、一人勇ましく進んでいくアイラの背中を思い出した。
 スカサハの言葉は、かつてシャナンがアイラに伝えたかった感情だった。一人で強く気高くあろうとするアイラだから、守りたいと思っていた。
 シャナンも同じ言葉を伝えられていたら、今この戦場にアイラも立っていたのだろうか。スカサハとラクチェから、母を失わせずに済んだのだろうか。
 考えても無意味なことを、延々と思考する。
 ラクチェを守ってくれる存在ができてよかった。ラクチェの、アイラに似た無鉄砲さをかねてより心配していた。
 スカサハは誰かを守る盾になれるだろう。できることなら幸せな恋をしてほしかった。相手のために想いは明かせないと言っていたが、スカサハに好かれて嫌がる人はいないだろうとも思ってしまう。
 好いた相手がいると言いながら、真っ先に家族のことを心配してくれる優しい子。
「スカサハ、おまえの家族を愛する心は私も理解しているつもりだ。いつも私とラクチェとセリスと、皆のことを守ってくれてありがとう」
「……はい。俺にとっては、みんな大切な家族です」
 スカサハのおかげで、乱れていた呼吸もだいぶ落ち着いた。落ち着いてから呼吸が乱れていたことに気づいたほど、何もかもに動揺していた。
 スカサハの腕から離れて顔を上げる。自分より頭半個ほど高い位置にある、穏やかな表情。
 スカサハの表情は初春の日なたのようだった。暖かく、ほがらかで離れがたくなる懐の広さがあった。けれど、瞳の奥には寂しさが滲んでおり、容赦なく吹きつける冷たい風を彷彿とさせる。
 現実の冬は始まったばかりで、春はまだ遠い。二人の隙間に、枯れ葉が一枚落ちた。寂しい音を立てた葉は、血で濡れた大地に溶けこんだ。
 スカサハの奥に感じる寂しさの正体が気になった。やはり、叶わぬ恋が心を蝕んでいるのだろうか。
 寂しさを抱えたまま生きるスカサハを思うと、あまりにも不憫で、どうにかしてやりたいと願ってしまう。
 余計な親心で結構だ。
 スカサハの寂しさが救われるのならば、たとえ鬱陶しがられ、嫌われても構わなかった。
 戦いが終わるその時までスカサハを守り抜く決意はある。だが、戦場に立つ限り命は危険に晒される。不自由な身の上になるかもしれない。その時に後悔のない人生を、スカサハには歩んでほしかった。いつかとは言わずに、今の幸せのために行動してほしいと願ってしまった。
「おまえの、恋の話なのだが。家族と接する時のように素直な感情を明かしてみたらどうだ。好きだとは言えずとも、心配を伝えるくらいなら許されるだろう。案外、向こうからおまえのことを好いてくれるかもしれない」
「なぜ、今そのような話に……」
「私は、やはりおまえにも幸せになってほしいのだ。戦場には危険が多い。何かあった時に悔やむのでは手遅れだ」
「俺は、王子のそばで戦えるだけで充分です」
「だが、いつまでも私のそばにいる訳にはいかないだろう」
 ラクチェは、戦争が終わったら恋人についていくと言っていた。すでに相手から誘われて受け入れたのだと、決まったその日に伝えてくれた。
 スカサハが離れていくのも、そう遠い話ではない。
 シャナンが寂しさを押し隠して伝えたからか、スカサハは困ったように眉根を下げた。
「……もしかして、嫌になったのですか」
 瞳の奥に滲んでいた寂しさが、すぐ目の前に迫っている。冷たい風にさらされて、頬も鼻先も赤い。瞳すらも薄らと紅色を帯びる顔は、どこか泣いているようにも見えた。
「今日のことで俺がそばにいることが嫌になったのなら、そうだと言ってください。そうしたら、俺はちゃんと離れていきますから。シャナン様さえ無事でいてくださるのなら俺は……」
「スカサハ?」
「すみません。ですが、わずかでも俺のことを考えてくださるのなら、あなたのそばに居場所をください。それさえあれば、恋心なんかどうだっていい」
 先ほどまで大きく立派に見えていたスカサハの姿が、急にすぼまってしまい、子供のようだった。
「いや、私の伝え方が悪かった。私がいることで、おまえの可能性を奪っているのではないかと、心配になっただけなんだ。おまえが嫌になったわけではない」
 そこまで話してから違和感を得た。スカサハは、恋心よりもシャナンのそばに居場所があることを求めた。だが、いくら恋を諦めたからといって、シャナンただ一人だけを優先したがるのは、不自然ではないだろうか。
 スカサハはいつだって、他の誰よりもシャナンを気遣い、隣に立ち、心配してくれていた。どうしてそれを、恋によるものではないと思い込んでいたのだろうか。
 気づいてしまった、向けられている視線の意味に。抱きしめてくれた温度の理由と、震える手にこめられていた感情にも。
「スカサハ、間違っていたらすまない。おまえは、」


ここまでの内容で全体の四分の三弱になります!
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