日常


 晴天。雲一つない紺碧が広がっている。シグルド達は森の中にいた。グランベルの士官学校からほど近くにある、曰く付きの森だ。
 一歩足を踏み入れた時から、不吉な予感はあった。その予感は、見事に的中した。どうやら何かの魔術がかけられているらしく、気がついたら同じ場所を行ったり来たりしてしまうのだ。歩き続けること一時間。当初は馬を置いてきたことを悔やんだが、これだけ彷徨うとなるとかえって徒歩でよかったかもしれない。道の定まらない森の中を馬と彷徨うのは、徒歩以上に疲れる。
 とはいえ、さすがに疲れを覚え始めた。額からは止めどなく汗が流れていた。持ってきた水分も残りが心許ない。一旦休憩をとるべきだろう。
 仲間の同意を得てから、シグルドは苔むす岩に腰をおろした。たまらず、残りの水を飲み干してしまう。
「またおまえは。とんだ厄介を持ち込んだな」
 シグルドと森を彷徨っていた友人のエルトシャンが、深々とため息をついた。制服の第一ボタンまでしっかりと締める真面目が、暑さにやられたのか第二ボタンまであけてシャツを扇いでいた。そう、清々しい晴天が帰って憎らしく思えるほど暑いのだ。それも、木々の影響かひどく湿っぽい、肌にまとわりつく暑さだ。
「だが、困っているご婦人の頼みを断るわけにもいかないだろう」
「そうだな」
 シグルドが宥めると、エルトシャンはあっさりと同意した。暑さに負けて愚痴を零したくなっただけなのだろう。
「せめて、魔導に強いやつがいればな。……それにしても、二人ともだらしないぞ」
 立ったまま嘆いたのはキュアンだ。後半は揶揄うような声だった。よく見ると、キュアンはいつも開け放している第一ボタンをわざとらしく留めていた。
「そういえば、おまえはレンスターの王子だったな」
 レンスターは、グランベル大陸の中でも、とりわけ暑いことで有名だ。その王子であるキュアンが平然としているのも道理だった。
「とはいえ、問題児がよく言うよ」
「俺は素行不良なだけで、成績は悪くないぞ」
「それを自分で言うのか……」
 本人の申告通り、キュアンの成績は良い。定期テストのたびに、シグルド、エルトシャン、キュアンの三名で一位争いを繰り広げるほどだ。ただ、常に隣国との火種が絶えない土地の王子ということもあってか、気性が荒いのだ。攻撃的な相手にはとことん手が早い。その分、情に厚く困っている人を放っておけない親分気質でもある。キュアンのそういう性格を、シグルドは大変好ましく思っていた。問題児というのも、本気で手を焼いて口にしたわけではない。愛称のようなものだ。
「なあ。この状況、ご婦人の話と随分違わないか?」
 エルトシャンは、先程より幾分も冷静な雰囲気を纏っていた。状況に対する不満が、キュアンの働きかけで和らいだのだろう。冷たい印象を与えるほど整った顔立ちに反して、エルトシャンは冗談に寛容だ。むしろ、親しい間柄であれば、それを好みさえした。
 エルトシャンの指摘を受け、あたりに意識を凝らした。なるほど、静かすぎる。先程から、三人の声と木々の揺れる音が聴こえるばかりだった。
「たしか、この森から熊のような化け物が出るから倒してくれって話だったはずなんだが……」
 シグルドは、困ったように唸った。
「また騙されたんじゃないか」
 キュアンの言葉に、エルトシャンも無言で頷いた。シグルドは親しみやすく温厚な性格だが、その分騙されやすい欠点がある。シグルドの引き受けてきた面倒ごとも、片手では数えきれない。
「そんな目ではなかったよ。何か、事情があったに違いない」
「おまえ、前にも同じこと言って騙されてたよな。隣のクラスの生徒。名前は確か」
「マチルだったか。それから、一個上の先輩と、閉店間際の飯屋と——」
「その件はもう謝っただろう。飯だって奢らされた」
 笑いながら言うと、シグルドは岩から立ち上がった。
「それより、今はこの森の抜け方を探すのが先だろう」
 太陽は既に一番高いところを過ぎ去り、あとは沈むのを待つばかりとなっていた。気温のピークが去れば移動は楽になるが、夜になれば何もできない。そう考えれば、残されている時間はそれほどなかった。
 エルトシャンも、シグルドに続いて立ち上がった。スラックスの汚れを払うと、律儀に釦を留めなおして身なりを整えた。
「無事に抜け出せたら、また飯を奢れよ」
「わかったよ」
 シグルドは渋々頷いた。キュアンと言質をとった証左の目配せを交わし、地面を調べ始めた。それで、二人もエルトシャンの後に続き周囲の観察に励んだ。キュアンは得意の木登り(授業をさぼる時に登っている)で葉や枝を、シグルドはキュアンが登っている木の幹や根元を重点的に調査した。
 しかし、どれほど探しても解決の糸口は見つからない。太陽は、既に木々の陰に隠れ始めていた。
「何も手がかりはない、か」
「一度、場所を変えた方がよさそうだな」
 流石にこれ以上調べても徒労だろうと、三人は惰性で移動を決めた。
 木々の影で暗くなった道を進む。心なしか、湿り気を帯びた地面が重く、脚にまとわりつく気がした。昼を過ぎたこともあってか、暑さはだいぶ和らいでいた。静かすぎる森ほど気味が悪いものも珍しい。増してや動物の気配が一切しないとなると、ひとしおだ。ところどころ、出っぱった根や、倒れた木、中途半端な大きさの岩が転がり、三人の移動を邪魔した。おかげで、靴も、マントも、ズボンも、すっかり泥で汚れている。
 空もほとんど見えない。とても足を止めようとは思えない空気に、目的も忘れて歩み続けた。やがて、再び開けた場所に出た。中心には、先刻座ったものとそっくりの岩があった。
 いや、全く同じ岩だった。
 最初にそのことに気づいたのはシグルドだ。
「見てくれ。僕の水筒がある」
 シグルドは岩にかけ寄り水筒を手にした。
「その水筒、エスリンからの大事なプレゼントだとか言ってたよな」
 キュアンが顔を顰めて呟いた。
「実は、そうなんだ」
「お前なあ……そんな大事なものを置き忘れたのか」
「あはは。でも、そんなこと言ってるけど、君だって前に——」
 二人の話題が逸れそうなのを見兼ね、エルトシャンが咳払いをした。キュアンもシグルドも、エスリンの話が始まると長い。
「ということは、やはりここに抜け出す手がかりがあるんだろうな」
 その言葉に、シグルドは頷いた。
「僕もそう思う。転移魔法も万能じゃない。同じ場所に戻ってくるということは、この空間に仕掛けがあるはずだ」
「それなら、さっき調べなかったところだろうな」
「ちょうど、いい場所があるぞ」
 エルトシャンが指差したのは、シグルドの水筒だ。
「ああ、確かに。忘れ物もいい仕事をするもんだ」
 キュアンが悪戯っぽく笑った。太陽は森の影に隠れきっていて、日没までに残された時間も僅かだった。
「座った時にはなにも感じなかったけどな」
「それもそうだが。なんせ俺たちは魔道について素人だからな」
 エルトシャンは、シグルドの水筒を地面に置いて、岩を調べ始めた。
 しかし、手がかりは見つからない。
「そんなはずは……」
「こうなりゃ、今夜は三人で祭りだな」
「また君は、そんな悠長なこと言って」
「それなら、いっそ苔でもむしってみるか?」
 キュアンの冗談に、エルトシャンがはっと目を見開いた。
「そうか、そういうことか。キュアン、まさか気づいて黙っていたわけではなかろうな」
「いや、俺もエルトの言葉でわかったところだよ」
 二人の会話に、シグルドもコケを見つめた。ちょうど二人が見ているあたり、岩の側面に、魔導書でみかける円形の陣があった。
「これのことか?」
「恐らくな。非攻撃系の魔法は使用者を増やせるよう杖に封じ込め安定させるのが大半と聞いてはいたが……。まさか、術者不在でも発動する方法があるとはな」
「詳しいことは、依頼してきたご婦人に聞いて解決といこうぜ」
「それもそうだな」
 シグルドは、迷いなく苔をむしった。その瞬間、あたりが賑わいだした。鳥の囀り、動物のかける音、川のせせらぎ、虫の羽音。三人は森の入口に立っていた。
「戻ってきたな」
 シグルドは安堵のため息をこぼした。
 日没は、もうすぐそこに迫っていた。ほのかに赤く色づき始めた空が西に広がっている。キュアンは大きく伸びをした。
「よし、今晩はシグルドの奢りだな」
「この前行ったローストビーフの店なんかどうだ」
 エルトシャンが、冗談めかして口角をあげた。
「頼むから、もう少し手加減してくれ。来月はエスリンの誕生日なんだ」
「だから、おまえの金で俺の懐を温めてくれよ。な、兄貴」
 キュアンは揶揄うようにシグルドの肩に腕を回した。シグルドは、困ったように眉根を寄せた。エルトシャンは、呆れた眼差しを二人に向けた。
「その茶番はまだ続くのか」
「いや、もう終わりにするよ。腹が減った」
 三人は肩を並べて帰路をたどった。シグルドの持ちこむ厄介も、終わってしまえば悪くない。