ほころび

 セリスの言葉は真実だった。アレスが長年恨んできた父の仇を、父は少しも恨んでいなかった。
 トラキアの乾いた大地の風を受けながら、物思いに耽る。
 
 大陸全体に寒い季節が近づき、貧しいトラキア王国の土地はますます痩せ細っていた。おかげで、最近は解放軍の懐事情も思わしくない。
 傭兵暮らしで安定した生活がなかったアレスにとって、大した問題ではない乏しさ。だが、守られながら育ってきた面々にとっては違うらしい。
 下がった士気を気にしているのか、セリスは食事を抜くことが増えた。
 聞くところによれば、なんとなく、食欲がわかないらしい。軍の代表が食べねば他の者たちだって気が引けるというのに、セリスはそれがわかっていない。オイフェやシャナンのような年長者が気を配り、なんとか皆が食べていた。
 それだけではない。最近セリスは一人でいることが増えた。ダーナで出会った直後は、アレスが嫌がっても話しかけにきたというのに。
 父が、敵対することになっても信じ続けた親友の息子は、第一印象よりも遥かに繊細だった。大方、トラキアの猛勢に自身の戦いの正当性でも問うているのだろう。
 誤解は解けたというのに、これでは。
 
 もどかしさに歯軋りをしていると、ちょうど城の出口へと向かうセリスの姿が視界に入った。
 また、あいつは。そう思ったきり行動を起こせない自分自身に情けなさを覚える。
 アレスはかつて、セリスに刃を向けてしまった。その後悔が今更になって膨れ上がっていた。
「セリスのことが気になるのか」
 若くも貫禄があるテノールの声。後方に、真っ黒な長髪を腰まで伸ばした男性が立っていた。歩数にして四、五歩先。剣士が戦うときの間合いだ。
 その姿は、軍に馴染もうとしないアレスにも覚えがあった。戦いの時にいつも先陣を切って戦う、軍で随一の剣の使い手。名を確か、シャナンと言う。
 置かれた距離に信頼がないのかと疑ったが、シャナンは腰に剣を刺していなかった。単純に、人と話すときに間を取るのが癖づいているのだろう。その気持ちは、アレスにもよく理解できた。
「気になると言えば、そうかもしれないな。あいつは、軍の代表には向いていない。いつ逃げ出して、この場所がだめになるかもわからん」
「お前は本当にそう思うのか」
「……どう考えても、あいつは優しすぎるだろう。それにお人好しだ」
「そうだな。アレス王子が剣を突きつけたときのあいつの行動には、私も肝を冷やされた」
 シャナンは冗談めかした調子で笑ったが、アレスはさっぱり笑えなかった。
 セリスをまだ仇の息子だと思い込んでいたとき、アレスは彼に父の形見を突きつけた。魔剣ミストルティンで仇の息子を斬れば、父の無念も少しは晴れると信じていた。
 けれど、セリスは腰に下げた剣を抜くどころか、地面に置いてアレスに近づいてきた。
 その行動には、剣を向けていたアレスでもぞっとした。軍の代表が、まさか丸腰で敵に近づいてくるとは思ってもみなかった。
「だが、セリスは逃げないよ。お前もわかっているのだろう」
 シャナンは何もかもを見通しているように、凛とした顔をしていた。
 アレスは何も答えなかった。
 答えられなかった。
 頷けば、セリスを眺めていた理由がセリス自身に向けた心配だと筒抜けになってしまう。アレスに、セリスのことを心配する資格はなかった。
 傭兵暮らしが長かったアレスは昨日の敵が今日の友にもなることも、その逆があることもを知っている。
 だが、それは果たすべき使命がないからこそのことだ。
 かつて、アレスは明確に、自分の意思でセリス本人に殺意を抱いていた。心からセリスを憎み刃を向けた。
 誤解が解けたからといって易々と近づき心配の言葉をかけていいはずがない。
 昼時が近いのか、食堂の方角から賑やかな声がした。懐事情は乏しくとも、食事は戦争で疲弊した心を癒す大事な手段だ。貧相なものでも仲間と囲めば美味くなると言っていたのは、最後までわかりあうことができなかった育て親の言葉だ。
 食事時の喧騒とは正反対の静けさに、シャナンの声はよく響いた。
「今のあいつには、お前のようなありのままの友人が必要だ。もしも気にかけているのなら、話しかけてやって欲しい」
「俺はあいつの友人になれない」
 即答すると、シャナンは若さだとでも言いたげに、ふっと笑った。
「気にかけていないのならば、それでも構わないさ」
 シャナンはそれだけ言って、喧騒へと去っていった。
 アレスはシャナンの姿が見えなくなるまで見届けてから、城の出口へ向かった。