ゆうしゃの剣

 グランベル王国がイザークに攻撃を始めたという知らせが届いた。ホリンは、ソファラ領主(つまりホリンの父であるが、その振る舞いは領主と呼ぶべきものだった)からその知らせを聞いた。すぐ横には母も控えていた。
 領主夫妻が堅苦しい態度でホリンを呼びつける時には、決まって務めが用意されていた。過去には、家臣に任せるような偵察任務や新人指導、あるいは剣技大会への出場命令を託されたこともあった。ホリンは毎回、命じられた務めを静かに聞き入れ、こなしてきた。
「イザーク王家が危機に瀕している」
 領主は厳かな口調で告げた。普段のホリンであればこの後課される務めまでじっと耐えるところだが、イザークに国家の危機が迫る中では、そうも言っていられなかった。ホリンの内心は、間もなく伝えられるであろう務めより、一人の少女(既に強かな女性へと変貌を遂げているに違いないが、ホリンは少女の頃の姿しか知らない)でいっぱいだった。八年前に城で見かけたきりの、イザーク王マナナンの娘。全身を包む凛とした空気は、それだけで少女の剣の腕が相当なものであると伝えてきた。風に靡く長髪は艶やかで、ホリンの母譲りの金髪とは性質の異なる高潔さがあった。歳は近く、ホリンの二つ下だと聞いている。
「状況は理解しています。どうか、イザーク王城まで行かせてください」
 耐えきれず願い出ると、。母の眉根が吊り上がった。領主は表情一つ変えずに息子をじっと見下ろしていた。その視線に対抗するように、ホリンは真っ直ぐ領主を見た。眉間に浮かぶ皺は深い。色味を感じさせない薄い唇が、静かに開いた。
「行くならば、アグストリアかヴェルダンだ」
 ホリンは言葉の真意を推し量ろうと目を凝らした。堅牢な門のように口を閉ざす姿。何を言っても動じないと思わせる頑固さが、瞳に色濃く滲んでいた。母の眉根はいつものハの字型に戻っていた。ゆるく唇を噛み、言葉を我慢しているようだ。
 片膝立ちの姿勢を支えるため床についていた手を、ホリンは握りしめた。
「俺一人逃げろ、と言うのですか」
 微かな憤りが滲んだ。親元を離れて安全な場所へ向かうのは、臆病者の行動だ。たとえ親の命令でも、それだけは、聞き入れるわけにはいかない。
 半ば睨みつけるように視線をやると、領主はようやく父の顔になった。息子を諭すように、やわらかな目をしている。きつく結ばれていた唇もゆるみ、薄い唇にふくらみが戻っていた。
「そうではない。王家の性格を考えてのことだ。仮にグランベルと全面戦争になればこちらに勝ち目はない。マナナン王もそれは理解されているだろう。ならば、まだ幼い孫をアイラ王女に託し、二人を遠くへ逃すはずだ。王女は強情らしいからな。そうでもしなければイザークを離れまい」
 その言い草に、ホリンは、すべてを父に見透かされていたと悟った。
「アイラ王女が……」
「そうだ」
 余分な言葉を足さない心遣いがありがたかった。もしも、アイラ王女を助けたいのだろう、と言われていたら、きっとホリンはシレジアの厳冬を超えて西の地を目指すつもりにはなれなかった。
「わかりました。ソファラ領主の息子として、王家の者を守るため旅に出ることをお許しください」
 アグストリアの血を半分ひく母のブロンドが揺れた。母はホリンの元まで近づくと、思わず唾を飲み込むほど美しい剣を差し出してきた。その動作にあわせて、奥から太く威厳ある声がした。
「それは、我が家に受け継がれてきたゆうしゃの剣だ。その剣に恥じないよう、必ず、イザーク王家の方々を見つけ、お守りしろ」
 父は再び領主の顔に戻っていた。
 ホリンは恭しく剣を受け取った。幼少期から叩きこまれてきた、身分ある者としてのふるまいだ。剣の重さが腕に伝わる。
「ホリン、気をつけてね」
 母の声は震えていた。細い腕を背中に感じた。ホリンの存在を確かめるように、腕を強く回されていた。
 ホリンは黙って抱擁を受け入れた。受け入れながら、剣を持つ手に力をこめた。父の表情は見えなかったが、きっと親の顔に戻っているだろうと思った。
 母の温度が静かに離れていく。これが家族で会う最後の時間になるかもしれない。父も母も、きっと同じ想いを抱いていた。本当は行かせたくないのだろう。母の手は今にも再びホリンを抱きしめそうだった。
 混乱の渦中にあるイザーク王国。その中で、民のため残る両親と、王家のため旅立つホリン。王家の力が弱い国の中で、唯一ソファラ領だけは、王家に絶対の忠義を誓っていた。それがイザークの血と混ざり流れるアグストリアの血の誇りだった。だから、ホリンは行かねばならない。例えアイラへの恋慕が無かったとしても、行くしかなかった。
「父上、母上。どうかお元気で」
 ホリンは立ち上がり、剣を胸の前に抱えた。
「失礼いたします」
 背を向けた後は、一切振り返らなかった。父と母の涙ぐむ声がした。ホリンも染みったい気分になり、何度か天井を仰ぎ見た。ところどころ絵具の剥がれ落ちた天使が、柔和に微笑んでいる。アグストリア出身の画家が残したとされる絵だ。
 きっと、なんとかなる。ホリンは心の中で呟いた。部屋に戻り、ありたけの路銀を詰め込んで身支度を整えた。アイラが進むとしたら、北からシレジアを抜けるだろう。ホリンは外套を着こみ、二本の剣を背負った。愛用する鉄の剣と、受け取ったばかりのゆうしゃの剣だ。
「行ってきます」
 生まれ育った家に一礼して、栗毛の愛馬に跨った。
 
 シレジアの冷たい雪が、容赦なくホリンの体を冷やしてくる。雪は、連れてきた馬にも酷だった。ホリンより先に馬が動けなくなった。
「もう少し、もう少しなんだ」
 シレジアの民ですら外出を控え戦争を止めるという厳冬を、ホリンは果敢に進み続けた。
 栗毛の馬は、遠くから見れば白馬に思えそうなほど、全身に雪を絡ませている。ホリンの外套にも雪は容赦なく積もった。手が悴み、馬も進まない。弱々しくなった歩みに、ホリンは馬を降りた。
「もう、無理そうか?」
 つぶらな愛馬の瞳を覗きながらホリンは問いかけた。寒さが厳しい上に、満足な餌も与えられてなかった。痩せ細った体から、衰弱しきったいななきが返される。
「そうか、すまなかった……」
 ホリンは周囲を見渡した。あたりは一面の銀世界だ。もう、どうすることもできない。
(早くアイラに追いつきたい一心で連れてきてしまった俺の過ちだ)
 声にはせず自分を責めた。背中が重い。震える指先でなんとか馬の轡を外してやった。
「せめて最後くらい、自由に生きろ」
 呟きながら、たてがみに絡みついた雪を払った。行く末を見守ろうと思ったが、馬はその場を動こうとしなかった。
 ホリンは、仕方なく馬に背を向けてアグストリアを目指した。アイラも通った道だと信じて、一面の銀世界を進んだ。馬は、再びたてがみが雪に埋もれ、力尽きるその時までホリンの後ろを着いてきた。
 
 ホリンがシレジアの西に着く頃には、雪が溶け萌芽が地に彩りを与え始めていた。寄る村々で邪険にされながらホリンは懸命にアイラの情報を求めた。しかし、アイラや連れ立っているだろうシャナンを見たという声はどこにもなかった。
 本当に、二人はイザークを離れたのだろうか。不安が渦巻く。嫌な予感を忘れるために、ホリンは足を早めた。
 残り心許ない路銀で、海辺にある村から小舟に乗った。五人乗りの小さな船には、ホリンの他にもう一人乗客がいた。汚れたローブを目深に被る姿は一瞬アイラを連想させたが、隠しきれずに揺れている髪は若草色をしていた。

 ホリンは久々に木を見た。母の生まれ故郷アグストリアに足を踏み入れた実感が遅れて湧き上がった。
 路銀は底をついていた。馬もいない。行くあてもないまま、ただ進んだ。野生の動物を狩り、木の実を拾い食い繋いだ。村に着いたら剣を一本手放そうと思った。シレジアと比べれば命の危機は遠のいたが、その分、アイラの消息を一度も掴めずにいることに情けなさを覚える。
 アグストリアの果てなく続く森を進むうちに、動物の調理に慣れた。戦うための剣でホリンは命を繋いだ。
 ようやく真っ当な村(途中にも村はあったが、どこも開発途上らしく武器屋すらなかった)へ辿り着いたころには、ほぼヴェルダンとの境まで来ていた。
(父上、母上、不義理な息子をお許しください)
 胸の内でつぶやいて、質屋を探した。歩いていると、体格の良いスキンヘッドの男に声をかけられた。
「兄ちゃん、剣の腕に自信はあるかい?」
 ホリンは静かに頷いた。頷いたことに自分自身でおどろいた。男は、そんなホリンの心情に構うことなく腕を掴んできた。
「ちょいと、戦っていってくれよ」
 強引に腕を引っ張られ、流されるまま連れこまれた闘技場は、ホリンの知るものより随分と小綺麗だった。イザークにある闘技場は行き場のない荒くれどもの溜まり場だった。闘技場に近づくものは命知らずか自信家だけだと言われていた。しかし、アグストリアの闘技場は市民の賭けの場として成立していた。出場者には強者としての風格があったが、観客席には老若男女、平民、貴族、あらゆる人が揃っている。
「剣は一本だけで頼むぜ」
「ああ」
 ホリンは迷わず、ゆうしゃの剣を闘技場の壁に立てかけた。闘技場の中心に戻ると、背負っていたもう一つの剣——多くの野生動物の命を奪ってきた鉄の大剣を胸の前で構えた。相手の男は、すっかり刃の薄くなった銅の剣を握っていた。
 始まりの合図として、ゴングが鳴った。先に動いたのは相手だった。無駄のないステップでホリンに近づくと、懐を目指して一息に剣を振り下ろしてきた。刀同士がぶつかり、甲高い音がする。ホリンは腕っぷしで相手の剣を跳ね除けた。よろめいた隙に、すかさず得意技の月光剣を打ちこむ。
 動物を仕留める時と異なり、急所はわざと外した。殺さないように、けれど確実に戦意を削ぐため腕の筋を絶った。手応えを感じてから数秒遅れて血が溢れる。
 剣が、男の手から滑り落ちた。ゴングが鳴り響く。始まりの時より興奮に震えた迫力ある音だった。一瞬の静寂を経て、歓声が広がった。右手を高く突き上げる。久々に晴れ晴れとした気分だった。
 
 路銀が集まれば闘技場から離れるつもりだった。ホリンの旅には目的があった。しかし、ホリンは十分な金を稼いでからも闘技場に通い続けた。見つかるかもわからない人を探し続けるより、闘技場の稼ぎで生きる方がずっと楽だった。人生を捧げてきた剣の腕で稼いだ金を受け取ると、今までの努力を肯定された気分に浸れた。
 アイラは逃げなかったのだ。ホリンの旅は無駄だったのだ。胸のうちで言い訳を重ねて、ホリンはアグストリアの闘技場近くの宿に住み着いた。
 ゆうしゃの剣は少しずつ埃を被っていった。剣を見るたび、不義理を思い出して胸の奥が痛んだ。それでも、ホリンは闘技場から離れられなかった。剣をベッドの下に押しこんで剣闘に明け暮れる日々を続けた。イザークでも指折りの剣士だったホリンは、次第に最強の剣闘士と呼ばれ始め、ますます闘技場での金稼ぎに明け暮れた。
 闘技場通いの生活も一年と少しが過ぎた頃、一人の騎士があらわれた。その頃になると、グランベルとイザークの戦争は本格化し、ヴェルダンの方でもいざこざがあるという噂が聞こえてきていた。
 騎士と対峙した時、ホリンは闘技場に似つかわしくないやつだと思った。薄く青みがかった黒の瞳には忠義があった。ホリンがベッドの下に押しこんで目をそらし続けてきた感情だ。
 アグストリアとは異なる落ち着いたブロンドの髪は短く切り揃えられ、程よい長さで整えられている。深い赤の鎧は損傷が激しく、厳しい戦いを続けてきたことが伝わってきた。
「見ない顔だな」
 珍しく、ホリンは相手に話しかけた。相手は言葉を返さず頷いた。戦いの開始を告げるゴングが短く響く。ホリンは相手の動きを待った。男もまた、何度も研ぎ直したとわかる鉄の剣を構えたまま、なかなか動こうとしなかった。
「おまえの名は?」
「ノイッシュです」
「そうか」
 ホリンは剣を振り上げた。ノイッシュはすんでのところでそれを避けた。危なかっかしい動きだ。ノイッシュからの反撃をホリンは軽々と避けた。続いて撃ち込んだ一撃はノイッシュの腕を掠めた。
 ホリンは動揺していた。目を逸らし続けた感情が目の前にあることに、堪え難さを覚えた。同時に、忠義ある剣を奪う惜しさに、闘技場ではあるまじき躊躇をした。
「おまえじゃ俺には勝てない。降参しろ」
 ホリンの言葉を受けても、ノイッシュは果敢に立ち向かってきた。ノイッシュの攻撃はホリンに当たらない。ホリンの剣だけが、確実にノイッシュの鎧の隙間を縫い、肌を浅く割いた。
「これが最後の忠告だ。これからも剣を握りたければ降参しろ」
 ノイッシュはホリンの言葉に応じなかった。間髪入れずに鉄の剣を振り下ろす動作が見えた。
 繰り出された一撃を避けようとして、ホリンは不意をつかれた。先程までの剣捌きからは信じられない鋭さで繰り広げられた一撃。その一撃を、ホリンは鎧を介して真っ当に食らってしまった。
 意志に反して、足の力が抜けていく。腹を抱えて闘技場にうずくまった。ゴングが鳴り響いている。立ち上がれない。
 ホリンは初めて敗北を喫した。

「おまえは、何を信じて戦っているんだ」
 闘技場の硬い土の上に膝をついたまま、ノイッシュを見上げた。不思議で仕方なかった。明らかに実力で劣る動きが、最後だけは一流の剣士と遜色ないものになっていた。その力の源が気になって仕方がない。ホリンの見失ったものが、ノイッシュにはあった。
 ノイッシュは剣をしまうと、律儀にホリンの視線まで屈んだ。
「我が主君、シグルド様のために」
「シグルドは、おまえが剣を捧げるに値するのか?」
「シグルド様は、グランベル騎士の誇りです」
 ノイッシュは透き通った目をしていた。心の底から主君を誇っている目だった。ホリンは部屋の奥に押し込めたゆうしゃの剣を思った。
(つくづく臆病者だ)
 自嘲の笑みがこぼれた。
 ホリンは、託された使命を放り出し、目先の剣の腕を確かめることに満足をするだけの愚かな男に成り果てていた。
 地面についた手を握りしめると、硬い砂に血の跡が滲んだ。
「俺を、シグルドの元へ連れていってくれないか?」
 ホリンはノイッシュの目をまっすぐに見つめた。
「何故ですか?」
「金のために戦い、忠義を捨てていた己が情けなくなった。おまえのような騎士が誇る主君になら、行方の知れない相手の代わりに剣を託してもいいと思ったんだ」
「貴方のような剣士なら、きっとシグルド様も歓迎します」
 差し出された手をつかんだ。試合前は満員だった観客席は、人が疎に散っている。ホリンの名が書かれた紙が闘技場の端に何枚も落ちていた。びりびりに破かれている物もあった。
 そこには、失望より清々しさがあった。闘技場との決別。
 晴れやかな気持ちで立ち上がると、ホリンはノイッシュを待たせて、ゆうしゃの剣を取りに戻った。
 深く積もった埃を指で払う。指の形に沿って、金の装飾が眩しく光った。
 目的を果たせないホリンに剣を抜く資格はなかった。ただ、再び道を見失いかけた時に、その剣が導になって欲しいと思い、剣を背負った。