乾いた風が、男の髪を靡かせた。
 待ち侘びていた対峙に、全身が脈打った。アレスはずっと昔からこの日を夢見てきた。亡き父の仇を討つ日を待ち侘びていた。
 空よりも濃く青い髪は、艶やかに太陽光を反射していた。かつて話に聞いた、父の仇の髪と全く同じ色だった。男は、想像より遥かに弱そうだった。白い肌、筋肉の少ない細い線、中性的な顔立ち。その奥に滲むのは、まだ残る幼さだ。苦労を知らず育てられたと言わんばかりの無邪気な瞳。男は、自分が正義だと信じて疑うことも知らない顔をしていた。
 人殺しの息子が。アレスの苦労を知らずに、仇の息子がのうのうと生きていたと思うだけで、怒りが湧いてきた。
「おまえがセリスか……」
「きみは?」
 こちらの気も知らず、セリスはきょとんと目を丸めた。いつだって、奪った側は奪われた側のことを忘れている。アレスは、剣の柄を握った。
「黒騎士アレス……だが、おまえにはエルトシャンの子と言ったほうがわかるだろう」
 わざわざ名乗ったのは、燃えたぎる復讐心を伝えるためだった。髪と同じ色の瞳に驚きが滲んだ。
「え、まさか、ノディオン王エルトシャンの……」
 セリスは、アレスの期待と正反対の反応を示した。アレスの立場を知るなり、構えていた剣をさげて警戒を解いたのだ。セリスの態度に、アレスはますます苛立った。戦意のない相手を倒したところで、それは復讐として不十分だ。純粋な騎士と騎士との勝負の末に相手を倒すことこそが、アレスにとっての復讐だった。
「おまえの父に殺されたエルトシャンが、わが父だ。母上はシグルドを恨み続けて死んだ……。おまえには、その悔しさがわかるか!」
 行き場のない怒りをぶつけるように、アレスはセリスの喉元に剣を突きつけた。技量を見せつけるべく、素早い動きで的確に先端だけを喉に触れさせた。喉の皮膚がかすかに凹んだが、血はでなかった。
 その間、セリスはびくとも動かなかった。まるで、アレスが斬らないと予め知っていたかのように、余裕たっぷりの笑みを浮かべていた。
「そうだったのか……。でもアレス、きみの父上とわが父シグルドは親友だったんだ。不幸な結末にはなったけど、互いに恨んでなどないはずだ」
 セリスの言葉には、妙な説得力があった。剣を突きつけた時、びくとも動かなかったセリスの態度こそが、それが本心からの言葉であることを証明していた。
 アレスが返す言葉を見つける前に、セリスは続けた。
「アレス、しばらくこの軍にとどまってほしい。そうすれば、誤解も解けると思う。私は父上と同じようにエルトシャン王を尊敬してるんだ。アレス、頼む、わかってほしい」
 アレスは静かに剣を鞘に戻した。これ以上続けるのは、アレスの騎士道に反する行為だった。
「わかった……。しばらく様子をみよう。だが、もしおまえの言うことがうそだとわかったら、そのときは覚悟しろ。シグルドの代わりにおまえの命をもらう。いいな、セリス!」
 負け犬の遠吠えにも聞こえる言葉を発した自覚はあった。しかし、アレスには燻った気持ちをどうにかする手立てが他になかった。セリスは変わらず笑みを浮かべていた。ひょっとしたらアレスを揶揄っているのかもしれないと思わせるほどに、我が物顔で笑っていた。
「そのときは、きみの好きにするといい。アレス、きみと巡り会えたことは父上たちが一番喜んでいると思う。私にはそんな気がしてならないんだ……」
 アレスは最後まで言葉を聞いてから、マントを翻した。理解することと認めることは別だ。セリスの言葉を真実だと思う一方で、長年の復讐心を鎮める方法を知らなかった。
 
 木陰に腰をおろした。解放軍に身を置いてから、不規則な時間の食事を続けていた。飯時は、どうしても場所が混み合う。何より、アレスは馴れ合いを嫌った。いずれ軍のリーダーを倒そうというのに、そのリーダーを慕って集まる人々と話すことは不毛でしかなかった。
 アレスは、誰が作ったかも知らないサンドイッチを眺めた。傭兵団に身を寄せていた時より、幾分も美味しそうな見た目をしていた。食べてみると、味も格別だった。ふわりと小麦の優しい甘さがするパン生地に、ハムやレタスがいい塩梅でアクセントを与えてくれた。
「ラナのサンドイッチって美味しいよね」
 突然話しかけられて、アレスは顔を顰めた。思考を見透かして得意気に笑うセリスの姿を見ると、どうにも虫の居所が悪くなる。セリスは構わず隣に座ってきた。わざとなのか、元々距離が近いのか、あと数ミリで肩と肩がぶつかりそうだった。
「おい、セリス。まさか忘れたわけではないだろうな」
 アレスは不機嫌そうな顔をしたまま毅然と言い放ったが、セリスは出会った時を彷彿させる調子できょとん、と目を丸めるだけだった。
「え、なにが?」
「俺にとって、おまえは父の仇なんだぞ」
 セリスは顎に手を添えてしばらく悩むそぶりを見せた。やがて思考の全てを見透かしたと言いたげに、堂々とした態度でアレスを見つめて微笑んだ。
「知ってるよ。でも、私にとっての君は尊敬する人の息子だ。私は、君と話したい」
「話すことなどない」
 大きなため息をついて、アレスは立ちあがろうとした。しかし、セリスが一枚上手だった。アレスが立ち去る前に、その場に留まる理由をつくってしまった。
「私と話さないと君も困ると思うんだけど……。だって、私の言葉が嘘だったってわからないと、君はいつまでも仇を討てないよ」
 アレスは煩わしげに頭をかいた。二人の間を風が吹き抜けた。立ち止まった姿を見たセリスは、いつもの余裕綽々とした笑みではなく、心から嬉しそうな顔をしていた。アレスはその場で小さく舌打ちした。
「少しだけだからな」
 言いくるめられた自覚はあったが、どうにも強く拒絶できなかった。無垢な瞳が、アレスだけを見つめていることに気がついてしまった。アレスにここまで真っ直ぐな目を向けてくる人は、今までほとんどいなかった。アレスを拾い育ててくれたジャバローですら、アレス本人ではなく、その奥にあるへズルの血を見つめていた。
 アレスは、これから先、何があってもセリスを殺せないと思った。
 
 夕暮れ。鍛錬から部屋に戻る途中で背中から話しかけられた。声をかけてきた相手を一瞬で理解したアレスは、ぶっきらぼうに振り向いた。セリスが名前を呼んでくる時は、決まって音の粒が揃っている。それは、亡き母の呼び方とどこか似ていた。
「何か用か」
「君が軍に馴染めているか、聞こうと思って」
 セリスは、相変わらず笑っていた。最初こそ苛立ちを覚えた笑顔に、最近は安心を得るようになっていた。世界を救おうと言う青年が笑っていられるなら、この世は大丈夫なのだと、アレスは心の底から信じていた。
 癪に触るので、信じるだけで態度にはださない。かつて、親の仇だの、殺すだのと言ってしまった引け目もあった。セリスに話しかけられるたび、アレスは意識して仏頂面をつくった。
「昨日も同じことを言っていたな」
「毎回理由を聞いてくるからだよ。本当は理由なんてない。ただアレスと話したかったんだ」
 近頃、セリスはぽつぽつと本音を打ち明ける様になってきた。軍の代表としてではなく、セリスとして関わろうとしてもらえることが、アレスの救いになっていた。
 アレスの人生には、今まで親しい人がほとんどいなかった。一人で身を立てる生き方しか知らなかったアレスにとって、セリスは初めてできた友だった。当然、内心でそう思うばかりで、表面上は、あくまで敵討ちの機会を狙っている男として振る舞い続けた。セリスはきっと何もかも理解しているに違いなかったが、体裁を保つことは、アレスが騎士であるために必要だった。信じたいという理由だけで発した言葉を取り消す無垢さは、アレスの持ち合わせない特性だった。
「物好きだな」
「そうかな?」
 呆れた調子で笑い飛ばすと、セリスは小首を傾げた。出会った時に抱いた幼い印象は、こうした一つ一つの仕草に残り続けていた。
 そんな幼さを、アレスは好ましく感じていた。それは、セリスがセリスとして振る舞っている証拠だった。例えば軍議の時、セリスは人が変わったように堂々たる指揮官となった。戦場では、口を厳しく引き結んだまま剣を振るっていた。代表として振る舞う時、セリスはそこに一切の幼さを残さなかった。
 アレスはまじまじとセリスをみつめた。沈みかけた陽の中でも、青い瞳は輝きを忘れない。吹く風の温もりに、不思議と、少しの本音をこぼしても許される気がした。
「俺と好んで話したがるやつは、傭兵団にいた時から滅多にいなかった。……おまえは、どうして俺と話したがる」
 それは、アレスが常々感じていた疑問だった。馴れ合いを嫌い一人でいようとする人間に、好んで関わろうとする理由が、アレスには思い付かなかった。
 セリスは、どこか遠くに視線をやって、目を細めた。愁のある表情だった。
「君がボクをセリスと呼んでくれるから」
「は?」
 訳がわからず、アレスは訊ね返した。セリスの声は妙に真剣みを帯びていたが、すぐにいつもの余裕ある顔が浮かんだ。上品そうに笑って、セリスは言った。
「ふふ、冗談だよ。揶揄ったときの反応が面白いから、つい話しかけたくなるんだ」
 はぐらかされた予感が残った。しかし、責めようにも確信はなかった。
 アレスは呆れたように呟いた。
「聞いた俺がおろかだった」
「ごめんね。でも、そんなアレスが好きだよ。君は、まだボクの事を殺してやりたいって思ってる?」
 ここまで言われても、アレスはまだセリスを友と呼べない。
「どうだろうな」
「もう、意地悪なんだから。本当はもう、復讐なんて考えていないくせに」
 背中を軽く叩かれて、アレスも叩き返した。
「勝手に決めつけるなよ」
 しばらく無邪気な小競り合いを続けて、二人はすっかり暗くなった道を並んで歩いた。それは、仲睦まじい子猫が戯れ合う姿に似ていた。
 
「おい、セリス」
 一人で森の奥へ向かおうとするマントを掴んでアレスは話しかけた。一瞬吹いた突風に、森がざわざわとないた。振り返ったセリスは、愛想笑いを浮かべていた。
 アレスは、無性に腹が立った。その笑いは、セリスが兵を労う時に見せる顔だった。
 セリスが愛想笑いを浮かべるまで、アレスはきっかけがあればセリスから頼ってくれると思っていた。友人として、アレスに助けを求めてくれると信じていた。セリスがトラキアと戦うことに悩み、苦しんでいることを、アレスは知っていた。
「どうしたの? 君から話しかけてくるのは、出会った時以来だね」
「おまえが話しかけてこないからだろう」
 アレスはマントを乱暴に手離した。セリスは、軽くマントを払って形を整えると、どこを見ているかもわからない顔で聞いてきた。
「私と話したいと思ってくれていたの?」
 視線が合わないことも、アレスを苛立たせた。無垢な瞳があったから、アレスはセリスを殺せないと思ったのだ。長年信じてきた親の言葉より、仇の息子の言葉を信じるのは簡単なことではなかった。友人だと認めるまでにも、大きな葛藤があった。
 セリスは口にこそしていないアレスの迷いを全て知っているはずだった。いつも得意げに見透かした顔をしておいて、知らないはずがなかった。それなのに、今、目の前にいる男は、そんなアレスの信じたものを全て捨て去っていた。
 ふと、今ならセリスを殺せるかもしれないと思った。忘れていた復讐心を、ほんの欠片だけ見つけた気がした。
 アレスは小刻みに震える手に気づかないふりをして、左腰に視線を向けた。
「バカなことを言うな。俺はおまえを殺しに来たんだ。伝えただろう、おまえの言葉が嘘だとわかれば容赦しないと」
 アレスは腰に下げていた剣を抜いた。出会った日と同じように、喉元に剣を突きつけた。セリスはびくとも動かなかった。それは、かつての余裕とは違った理由によるものだった。セリスからは、色濃い諦めが滲んでいた。
「そう、だったね。いいよ、君がそう決めたのなら。私は、それを受け入れる」
「本当に、いいんだな?」
 セリスの喉元から一筋の血が流れた。それは、飽きるほど見てきた血の中でも、最も色鮮やかに映った。そして、その血はセリスの体内にこそ、流れているべきものだった。
「それが約束だから」
 アレスは深くため息をついた。剣を鞘に戻し、吐き捨てるように言った。
「おまえ、つまらん男になったな」
「え?」
 アレスは、どうしようもない苛立ちを包み隠さずセリスにぶつけた。それ以外に、信じたセリスを取り戻す術がわからなかった。
「何を一人で抱えようとしているんだ。散々俺の考えを見透かしておいて、おまえはどうして何も話さない。言っちゃ悪いが、これは俺の友人であるセリスに向けた質問だからな。隠しだてしたら、次はこの場で斬ってやる。いいな、セリス!」
 声を荒げて言い放つと、セリスはゆっくりと目を瞬かせた。
「君は、ボクを友人と呼んでくれるんだね……。わかったよ、アレス。笑わないで聞いてくれる?」
 視線が交わり、アレスの苛立ちがおさまった。セリスは、紛れもなく友人であるアレスを見ていた。
「それは、おまえ次第だな。だが、俺は真剣な人間を笑い飛ばすような、おろかな男ではないつもりだ」
「うん、君のことを信じるよ」
 セリスは木々の揺れに合わせてゆっくりと深呼吸した。それから、葉がひらりと舞い落ちるような速度で話始めた。アレスはそれを黙って聞いた。
「……怖いんだ。ボクが人間でいられなくなるのが、恐ろしくて仕方ないんだ。レヴィンはこの戦いを聖戦だと言う。この戦が本当に聖戦なら、ボクは神様にならないといけない。人々が望むまま、綺麗なものも醜いものも全部引き受けて、皆を守り、導いていかないといけないんだ……。それって、神様のすることだろう。だから、ボクは本当は神様にならなきゃいけないんだ。それなのに、それが怖くて、恐れていることを悟られるのも嫌で、悩んでばかりいる。情けない話だよね」
 しばらく、二人の間に静寂が流れた。セリスが全てを言葉にするまで待とうと、アレスは思っていた。
 これ以上言葉が続かないとわかると、アレスは慈しむようにセリスの両肩に手をのせた。
「ああ。情けないな。だが、情けないのは、おまえが神になれないからではない。一人で神になるなんて許さない。俺は、絶対におまえを神になんかしてやらないぞ。汚れ仕事は傭兵の得意分野なんだ。おまえに仕事を奪われてたまるか。おまえは、綺麗な顔をして笑っていればいい。全てを見透かしたようなムカつく笑みを浮かべて、俺みたいなやつに手を差し伸べていればいい。他のことは気にするな。全部、何とかしてやる」
 それから、胸の前で腕を組んで、やや強引に言葉を足した。
「……それに、おまえが神になったら殺せないだろう。神になろうって男が、俺との約束を破るつもりか」
 アレスの想いは、セリスに十分すぎるほど伝わったようだった。セリスは潤んだ瞳でアレスを見上げていた。
「……君の言う通りだね。ほんとうに、その通りだ。アレス、ありがとう」
 大きな瞳から大粒の涙がこぼれだして、アレスはたじろいだ。
「おい、リーダーがこんな場所で泣くなよ。……こっちへこい」
 アレスはマントを広げてセリスを包んだ。周囲に人の気配はなかったが、それでもこの姿は他の人に見せたくないと思った。
「ありがとう。君がいてくれてよかった」
「ああ。……それから、その、おまえの言葉が嘘だとわかったというのは、嘘だからな」
「もう、それくらいわかってるよ。ボクのことを思って言ってくれたんでしょ。アレスはまじめだね」
 セリスは嗚咽混じりに呟いて、そのまましばらく泣きじゃくった。アレスの胸元に涙が染み込んだ。アレスはセリスの背中をさすってやった。
 ようやく落ち着いたセリスは、目の周りを赤く腫れさせたまま、アレスに真剣な目を向けた。
「ねえ、アレス。ボクは神様になれないけど、醜いものもちゃんと見るよ。君と一緒なら、耐えられそうだ。だから、これからもボクの友人でいてほしい」
「そうだな。おまえが勝手にどこかにいかないよう見張ってやるさ」
 温かな風が木々の梢をならした。二人は、手と手が触れ合いそうな、体同士がぶつかりそうな、そんな距離を保って並び歩いた。