諍い果てての契り

   1.
 
 
 ラーマン神殿の手前で、オグマがあんぐりと口を開けた。物珍しい表情だ。視線の先が気になり目で追うと、黒い長髪の美人が立っていた。美人はサムトーと同じように、腰に二本の剣を差している。他者を拒む硬い空気は、細身の長身を際立たせていた。動きの少なさも相まって、まるで精巧な彫刻のようだ。
 サムトーはその姿をしばらく眺めて、やがて頭に浮かぶ名があることに気づいた。
「もしかして、ナバールさんですか?」
 ぼんやりとしていたオグマは、ようやくサムトーの存在を思い出したらしい。視線を手前に戻しながら頭を掻いた。
「そんなところだ」
 煮え切らない表情は何を思ってのものだろうか。気になったが、聞いたところで教えてはくれないだろう。生死をかけて剣を振っていた剣闘士時代から、ずっとそうだった。
 オグマは人あたりがよく周囲に好かれるが、人を好くことも己を明かすこともほとんどない。敵意のない者を拒まずに受け入れて、去る者は追わない。そのくせ、好いてくれる人を庇うために身を犠牲にする。ちぐはぐで、根っこの部分では人に興味がない、そんな人だった。
 十数年ぶりに再会した時も、オグマは剣を交わすまで、ナバールと名乗った男がサムトーであることに気づかなかった。薄暗い場所であったとはいえ、再会できた喜びの奥に生まれた寂しさは、然るべき感情だった。
 けれど、ナバールの姿を初めて見たサムトーは、その時の寂しさを上塗りするほどに驚いていた。
 ナバールに会ったことがない者は、長髪の二刀流でそこそこ腕が立つ剣士、というだけでサムトーをナバールだと信じこんだ。口数少なくクールに振る舞い、仕事をこなしさえすれば、多少浮き名が流れても素性を疑われることはなかった。だが、一度会えばどうして今まで騙せていたのか不思議になるほど、二人の差は一目瞭然だった。
 前の戦争で仲間だったという男が間違えるのは、あまりにも杜撰だ。
「オグマさん、もしかして、あんな美人と俺の区別がつかなかったんですか!」
「気にしていたのか」
「だって、見てくださいよあの顔立ち。全然違うじゃないですか。生きるためとはいえ、あんな美人を騙っていたことが恥ずかしくなっちゃいますよ」
「悪かったな。お前も十分綺麗な顔だと思うが」
「え、本当ですか? でもなー。オグマさん、見る目ないからな」
 サムトーが気持ちばかり照れている間に、オグマの眉間に皺がよった。肌に刺さるような緊張感が生まれる。
「……気づかれたか」
 あまりにも真剣な顔つきにサムトーも周囲に気を巡らせた。敵襲を疑ったが、気配はどこにもない。オグマの視線の先も変わらずナバールへ向けられていた。変化といえば、作り物めいた綺麗な男が真っ直ぐこちらに近づいていることくらいだ。それから、先ほどは死角になっていたらしく姿が見えなかったが、可愛らしい顔立ちの娘が一人、その後ろを追いかけていた。
「おい」
 洗練された見目と比べて想像よりも若さが残る、艶のある声だった。
「マルス王子はどこだ」
「今回は殺りにきたわけではないのか」
 オグマが険しい声で返事をする。短い沈黙。かつて仲間だったとは信じられない殺伐とした空気に、サムトーは心臓がぎゅっと窄まる心地だった。ナバールのそばにいる赤毛の娘もどうやら同じらしい。行き場なさそうに、ナバールの袖に深い皺をつくり、しがみついている。
「殺りにきたといえば、その剣を抜くのか」
 ナバールの問いかけに、オグマがあきれた調子でため息をついた。
「……向こうだ」
 示された方角へ、ナバールがためらいなく娘を連れて離れていく。
 オグマは、去る姿にはさして興味なさそうに、ラーマン神殿へ向かうべく歩みを再開した。サムトーは、まだわずかに険しさを残すオグマの、数歩後ろをついていった。
 
 翌日。オグマの元へ向かうために鼻歌混じりに歩いていると、背後から唐突に声をかけられた。紛いなりにも戦場を渡り歩いてきたサムトーだが、この時ばかりはまったく気配を感じられなかった。びくりと肩を跳ね上げて、その場でしばし硬直する。
「お前、あいつと知り合いなのか」
 気持ち程度の若さが残る艶っぽい声は、昨日聞いたばかりのものだ。ゆっくり振り向くと、そこには予想通りナバールがいた。
 昨日は気づかなかったが、ナバールはせっかくの容姿がもったいないほど身だしなみに関心がないらしい。長髪は寝起きのような状態で乱れ、服も、赤いため分かりづらいが、返り血がそのまま残っていた。
 サムトーがまじまじと観察していると、形の整ったつり眉が顰められた。
「知り合いかと聞いている」
「だ、誰とですか?」
 ナバールが示したい相手は凡そ予想がつくはずだが、反射的に、つい聞いてしまった。
 怒られるかもしれない、と身体を硬くしていると、意外にもナバールの切れ長の目が困ったようにサムトーを見た。
「あいつだ、……オグマ」
 快と不快、二つの感情しか持たなそうな顔に、きまり悪そうな表情が見え隠れしている。
「え、ああ、オグマさんですか。俺の恩人ですよ、再会したのは最近ですが」
「お前も剣闘士だったのか」
「ほとんど見習い終いでしたけど」
「そんな腕で俺を騙ったか」
「え?」
「聞こえていた。事情くらいは理解できる」
 ナバールは大して気にしなかったらしく、顔色を窺っても苛立ちの気配はなかった。印象よりも寛容な態度に拍子抜けしてしまう。
 落ち着いて思い返すと、昨日も険悪な態度を示していたのはオグマだけだった。
「だが、そうか。あいつは間違えたのか、俺の剣を」
「剣は間違えてませんよ! 一太刀で気づかれました」
「言い訳だな、俺なら構えで気づく」
「薄暗かったんです」
 ナバールの眉間に、不機嫌そうな皺ができる。動きが小さく表情に乏しいだけで、感情は案外、顔に出る人なのかもしれない。そして自由人だ。目の前の人のことが、大分わかってきた。
「それに、気づいてもらえなかったのは、俺だって同じなんですよー」
 すっかり打ち解けた気でいるサムトーが視線を下げていじけると、まるで笑っているかのように柔らかな声がした。
「お前が思う美人に間違えられたのなら、よかったではないか」
 顔を上げても、作りもののように綺麗な無表情があるだけだ。よく見ると気持ちばかり口角が上がっているが、ほとんどの人は気づかないだろうほど、わずかだ。
「オグマさんは見る目ないんですよ」
「だが、慕っているのだろう」
「俺にとっては命の恩人ですから」
「……そうか」
「ナバールさんも助けてましたよね。赤毛の若い女の子」
「あれは助けたわけではない。……成り行きだ」
 成り行きだと言いつつも、しがみつかれても娘を拒まずにいた姿を思い出して、サムトーはたまらず笑いそうだった。一方のナバールは、切れ長の目でまっすぐにサムトーを見ていた。その冷たさに、心臓がどくりと跳ねる。
「あの女の話はどうでもいい。そんな暇があるならお前も強くなれ。さもなくば死ぬだけだ」
 そよ風のように、ナバールが音を立てずに離れていく。サムトーは、名残惜しく後ろ姿を目で追い続けた。ナバールのクールな振る舞いに隠された愛嬌と優しさは、サムトーが憧れるカッコよさそのものだった。
 
「オグマさん、オグマさん。ナバールさんって、超カッコいいですね」
 開口一番で訴えかけると、オグマが怪訝そうな顔をした。
「脅されたか」
「ナバールさんはそんなことしませんよ」
「……本当に、何もされてないのだな」
「むしろ気遣ってもらったくらいです」
「なら構わぬが」
 オグマはまだ疑り深そうな顔をしていた。初めてナバールを見た時もそうだったが、オグマがここまで露骨に負の感情を見せることは滅多にない。そのような顔をするのは、サムトーが知る限り、剣を握っている時だけだった。
「オグマさんは、ナバールさんの何がそんなに気に入らないんですか?」
 不思議に思ったまま、深く考えずに聞いた。肌を刺激する乾いた風が吹き、オグマが地面へ視線を落とす。
「そういうわけでは……。いや、気に入らないと言われれば、そうなのかもしれないな」
「前の戦争で何かあったんですか?」
「……既に過ぎたことだ」
 しみじみと呟く姿にこれ以上の追求は憚られた。二人の関係は気がかりだったが、サムトーはさり気なく話題を変えた。

   2.

 割り当てられている天幕に戻ってから、オグマは一人ため息をついた。
 まさか、サムトーがナバールに懐くとは思っていなかった。昔から人懐っこいやつだったが、あの掴みどころのない男にまで持ち味を発揮すると、誰が想像できただろうか。
 オグマはサムトーに余計な疑りを与えまいと、とある出来事への言及を避けた。語らなかったことを後から気にする程度には罪悪感があった。だが、サムトーが彼自身の意志でナバールに懐いたのなら、オグマに止める権利はない。ナバールと同じように、オグマも純真な信頼を受けるに値する人生を歩んできたわけではなかった。
 今の大戦が始まる前、暗黒戦争の時は、オグマもナバールをそれなりに信頼できる仲間だと思っていた。盗賊の用心棒から足を洗いマルスの元で戦う二刀流の剣士は、掴みどころに欠けていたが、まるで真っ当な傭兵そのものだった。確かな腕に何度も命を預け、預けられもした。背中を託す相手として、ナバールを理解しようとも努めてきた。その甲斐もあり、終戦間際には戦いがない時も言葉を交わすことが増え、一定の信頼関係を築けたと思いこんでいた。
 けれど、それは一方的な思い込みだった。信頼はたった一度の出来事で呆気なく崩壊する。
 海が近いタリスでは年に数えるほどしかない、澄みきった晴天が眩しい日だった。雲ひとつない清々しいはずの空の下で、戦場で頼みにしていた二振りの剣の切先が、戦意と共にオグマへ向けられた。その瞬間、オグマは胸の中に鮮烈な感情がいくつも浮かび、反発し合っていることを自覚した。何故だという失望。本性を見抜けなかった歯がゆさ。戦意を向けられた怒り。剣士としての歓喜。裏切られたと思うと同時に、ナバールの精緻な剣と斬り結べる喜びを抱いた。そして、そのような感情を抱いたことに嫌気がさした。
「見下げた男だ」
 ため息混じりに口にした。
 剣のために悪事へ加担するような真似を、今のオグマは決してしない。ナバールと違いオグマには守るものがある。それでも、捨てた過去である剣闘士時代の疼きが、道理に反する男の選択を理解していた。
 目的もなく、生きるという名目で人生を消費するために剣を奮っていた忘れたい過去。それが、嫌でも頭をよぎる。
 ナバールが憎かった。暗黒戦争で共に戦っていた男の裏切りに腹が立った。剣を向けられた直後に湧き上がった感情は、ナバールへの苛立ちと失望に収束していた。そのはずだった。
 ナバールをカッコいいと言った純真なサムトーの姿を見てわからなくなった。あの日の失望は、果たして本当にナバールに向けたものだったのだろうか。オグマが自身への失望をナバールの姿に重ねただけではなかったか。今のオグマがナバールにとる態度は、果たして正しい選択の結果なのか。
 立てばたちまち頭をぶつけてしまうほど小さな天幕に、居心地の良さを覚える。ここならば、誰にも顔を見られない。
 オグマは気が済むまで悩み、最後まで答えを見つけられないまま、夜を明かした。

 最近、サムトーが妙な修行を始めた。道端で突然逆立ちを始めたり、片足だけで器用にけんけんと飛んで移動したり。
 何度かは聞いて良いか悩み耐えていたが、数週間も続くと流石に我慢ならなかった。
「お前は何をしているんだ」
 絶え間なく両足を蹴り上げる姿に問いかけると、サムトーは動き続けながら誇らしげに胸を張った。
「剣の修行ですよ。ナバールさんに稽古をつけてもらってるんです」
「奴が、稽古だと?」
「はい!」
 サムトーの人懐っこい目がはつらつと太陽光を反射して、茶色に輝っている。けれどオグマは、半ばサムトーの発言を信じられずにいた。
「奴がそんな面倒事を引き受けるとは思えぬが……」
「頑張って頼み込んだんですよ。本物に教わる機会なんて滅多にありませんから!」
「騙されているのではないか。ちっとも剣を使っていないだろう」
「体幹と、バランス感覚が大事なんです」
 ナバールを慕うサムトーの気持ちが衰える気配は一向にない。むしろ、益々の信頼を寄せているようだった。
 体幹とバランス。口の中でつぶやくと、不思議とナバールの剣によく馴染む言葉だった。二振りの剣を器用に扱う姿は、どんな姿勢でも芯が通っていた。
「よかったな」
 さりげなく声にすると、活発だったサムトーの動きがぴたりと止まった。夕飯に思いがけない好物があった時のような、ささやかな驚きの顔をしている。
「オグマさん。今度、稽古を見にきませんか」
「おれは、お前の親じゃないぞ」
「わかってますよ。でも、一度でいいから来て欲しいんです。明日、拠点の北東にある小高い丘に、陽が昇ってから向かってください」
「……考えておこう」
 気乗りしていない返事だったが、サムトーは満足そうに動きを再開した。オグマは軽快な動きをしばらく眺めてから、以降は声をかけずにその場を去った。
 
 目覚めると、ちょうど日の出の時間だった。外は快晴。砂漠にある都市カダインへ近づいているからか、ここ数日は雲ひとつない晴天が続いていた。澄み切った空に、わずかな悪寒と、サムトーの願いを思い出す。
 サムトーを落ち込ませるのも忍びない。遠目で見て引き返すだけだと言い聞かせて、オグマはベルトの具合を何度も確かめながら、大剣を背中に固定した。
 伝えられた小丘に着いたときには、稽古はすでに始まっていた。オグマは、二人に気づかれないように遠くから様子を眺めた。
 サムトーが細身の木刀を両手で握り、懸命に振っている。心なしか、最後に見た時よりも動きが軽やかだった。一通り動き終わったサムトーが木陰に座るナバールに視線を送るたびに、ナバールは表情を変えずに首を横にふった。時折立ちあがり、手本だろうか、剣を振って見せてもいるようだった。
 この調子なら問題ないだろう。立ち去ろうとしたところで、ナバールと目があった。ナバールがサムトーを呼び寄せて耳打ちする。サムトーが剣をおき、大きく両手を振ってきた。静かな朝によく響く、名前を呼ぶ大声まであった。これでは離れられまい。渋々と、まだらに緑の生える地面を進む。
 サムトーに目線で訴えかけられるまま、ナバールとの間に一人分の距離を残して足を止めた。ナバールは何を考えているかわからない顔で、じっとサムトーに視線を向けていた。
 オグマが草丈の短い地面に腰をおろすのを待っていたかのように、ナバールがにわかに口をひらいた。
「熱心に見ていたようだが、お前に教える剣はないぞ」
「そんなもの、こちらから願い下げだ。それよりも本当に剣を教えてやっていたのだな」
「俺の名を騙る奴が弱いと困る。悪評が広まれば、仕事にならん」
「それだけか」
「……それだけだ」
 サムトーは、二人が話している間も剣を振り続けていた。遠目で見たとき以上に着実な成長を感じる。一番大きな違いは音だ。剣を振った時の音が、前よりも静かな高音へと変わっていた。余計な動きが減り、剣速もあがったらしい。確実にナバールの剣へと近づいている証だ。
 オグマは隣の男を盗み見た。真剣な面差しでサムトーを見る横顔からは、一つも感情を見つけられない。
「お前の本当の目的はなんだ」
「目的か。今は何もない。……だが、声をかけたのは、あいつがお前の知り合いだったからだ」
 オグマはため息を抑えられなかった。タリスで剣を向けてきた時も同じようなことを言われた。オグマと剣を交わすため、賊に手を貸したのだ、と。
「またか。おれは、お前の裏切りを許していない。おれの知り合いに声をかけたところで、それは変わらんぞ」
「流れ者の用心棒に、信頼でも寄せていたのか」
 ナバールの細い目が、見開かれた状態でオグマを捉えた。その反応に失言を悟るが、言ってしまった事は取り消せない。
 言い訳を考えて言葉に詰まっているうちに、血色を感じない薄い唇がひらき、風でかき消えそうなほど小さな呟きが聞こえてくる。
「だが、俺もお前に裏切られた」
 視線が交わる。寂しげな瞳に、タリスで戦いを求めてきた時の姿がぴたりと重なった。ナバールの望みは、あの時から少しも変わっていないのだろう。ただの思いつきではなく、オグマの剣を求め抜いた結果があの裏切りだった。
 オグマは悟った。オグマが目的のない剣に耐えられず闘技場から逃げ出したように、手にした剣の目的を持たない男も、その意味を求めていたのだ。ナバールの剣の矛先は、前の戦争で敵を斬っている時からオグマに向けられていた。初めて二人が剣を交えた時からずっと、オグマとの決着をつけることこそが、ナバールの剣の目的だった。オグマが気づかず、都合のいい姿しか見てこなかっただけだ。
 一度だけ、許してやろうと思った。ナバールの本質を理解した今ならば、再び相手と向き合えそうだった。
 そのために必要な契りは理解している。
「もう二度と賊に手を貸すな。お前が道理に反さなければ、死ぬ前に決着をつけてやる。だが、そうでなければ二度と望みは叶わぬと思え」
「お前は、あの日対峙したのが、生きるため賊に雇われた剣士でも同じことを言うか」
「言わないな。だが、お前の腕なら問題ないだろう」
「……違いない」
 朝の澄んだ風が優しく頬を撫でる。草の匂い、鳥の鳴き声。ナバールが静かに笑った。
「五年だ。それ以上は待たない」
「……わかった」
 いつの間にかサムトーは剣を振る手を止めていた。口元が、満足そうに弧を描いている。
「二人とも、仲直りできたんですね!」
 オグマが困惑で目を丸めているうちに、ナバールが不満そうに呟いた。
「元より友人ではない」
「……こちらの台詞だ」
 示し合わせたかのように、二人は背中合わせに離れていく。サムトーはどちらを追うこともできないらしく、おろおろと嘆いていた。
「え、ええ。オグマさん、ナバールさーん。俺が悪かったですって」
 オグマは、そんなサムトーの声を後ろに聞きながら空を見上げた。声を出して笑う。これほど清々しく空を見上げるのはいつぶりだろうか。
 胸がすいた気持ちで周囲を散策してから、オグマは皆の過ごす拠点へと戻った。