キッシンググラミー

 魚を見た。息苦しさを諦めて、水圧に押されるまま体を沈めていた時だった。真っ暗な視界がふと寂しくなり目をあけると、一匹の魚が近づいてきていた。
 
 アカネイアを襲撃する前、カミュは何を思っていたのだろうか。そんな、カミュ自身もわかっていない感情に、ミシェイルは堂々とした答えを与えた。一人掛けのソファで脚を組み、片手でワイングラスを楽しげに弄りながら、こともなさげに言ったのだ。
「貴様は、それだけドルーアが憎いのだろう。それから、グルニア王の不義理に腹を立てている。まあ、後者を貴様が認めることはないだろうが」
 あっけらかんとした言葉にカミュはしばらく返事を忘れた。少なくとも、王の不義理に腹を立てていたという言い方にこそ、腹を立ててはいたが、カミュにだって思うところはある。王がドルーアと手を結ぶと決めた時、カミュは何度か考え直すよう諫言した。しかし、王は考えを変えなかった。騎士として主君の決定に従うが、納得はしていない。それを指摘され、カミュは初めてその感情に気づかされた。
「どうした、図星か?」
 ミシェイルはワインに口をつけて、ゆっくりと脚を解いた。カミュはそんなミシェイルの姿を、向かいのソファから見つめていた。
「今日は良い日だ。貴様の珍しい顔を見れた。カミュよ、覚えておけ。いくら貴様が祖国に義理建てしようと、貴様は俺に手を貸すことになる。それから、間違えてもアカネイアを助けようなどと考えるなよ。あれは敵だ」
 つくづく傲慢な男だ、とカミュは思った。立ち上がったミシェイルは颯爽と部屋を後にした。カミュはついに一言も反論できなかった。
 
 父を殺したミシェイルを、カミュは決して陛下と呼びはしない。
 生まれながら決められた敬うべき相手への敬意を怠るのは、騎士の行いではないからだ。
「では、貴様は俺が竜騎士を名乗ることも認めぬと言うのだな」
 カミュが遠回しに皮肉を告げると、ミシェイルは楽しげに笑った。
 一国の王となっても、ミシェイルはカミュを諦めなかった。カミュにはその理由がわからない。
 カミュと違い、ミシェイルはアカネイアを憎んでいるはずだ。カミュがアカネイア王女を匿った時点で、カミュはミシェイルに失望され、友人の真似事にも似た半端な関係は失われるだろうと考えていた。
 しかし、王女を匿うこの場所に、ミシェイルは何食わぬ顔で通い続けている。
「まあいい。貴様もそのうち気づくだろう。何かを為すには、何かを切り捨てなければならないとな」
 いいや、わからんさ。言おうとした言葉が音にならず、カミュは困惑した。
 近頃、カミュは大きな矛盾に苦しんでいた。グルニアが忠義を尽くすべきアカネイアに礼節を置くか、あるいは、アカネイアを裏切ることに目を瞑り、祖国のために殉じるか。ずっと前から気づいていた矛盾に、カミュは答えを出せなかった。出せない答えを誤魔化すように、グルニアの騎士としてあるべき姿を、その瞬間その瞬間で貫き続けていた。アカネイアの王女を殺せなかったのも、そのためだ。他の王族は散々殺しておきながら、グルニアの騎士としてアカネイアに不義理をしたくない感情に、ドルーア嫌いの魔が差した。カミュは大局に目を瞑り、過ちを積み重ねていた。
 言葉は、まだ音にならない。動揺を悟られないよう唇を結ぶと、近づいてきたミシェイルがシャツの襟を引っ張ってきた。前のめりになったカミュの目の前に、端正ながら野心に溢れる男の顔があった。
「それより、貴様はまだ俺のものにならないのか」
 誘惑するような吐息が鼻を掠めた。カミュはそのまま男の口を塞いでやろうか悩み、襟を掴む手を振り払った。
「冗談にしては趣味が悪い」
「ふっ、冗談ではないと言ったらどうする?」
「殿下に限ってそれはないだろう。揶揄うのもそこまでにしてくれないか。あまり口説かれると本気になってしまう」
 カミュは一瞬でもミシェイルの唇に触れようか悩んだことを悔やんでいた。
「抱かせてやる」
 しばらく続いた静寂の中、大胆不敵に笑うミシェイルの瞳から目を離せなかった。ありえないことだと、頭では理解していた。ミシェイルはカミュの持たない全てを持っていた。騎士道を捨ててまで野望を成し遂げる覚悟、冷静な洞察力、極端な合理主義。その男が、カミュに執着している。
「ただし、この俺を抱いておきながら無駄死にしたら許さないぞ。貴様は俺の計画に必要だからな」
 葛藤の狭間に溺れたまま、もはや浮き上がることを諦めたカミュは、刹那的な希望をそこに見つけてしまった。
「そのためなら、私に抱かれるというのか」
「貴様も知っているだろう。俺は、目的のためなら手段を選ばない」
 カミュの返事を待たずに、今度は確かにミシェイルの唇の感触がした。空を舞う竜の使い手らしく、ガサガサとした、けれど嫌味のない質感だった。
 
 ミシェイルと重ねた行為は、麻薬だった。カミュの苦しみは何も解決されず、状況ばかりが悪化していく。
 マルスが率いる解放軍は、カミュの助けたニーナを旗印に進軍を続けていた。彼らはきっと、ドルーアに味方するグルニアを滅ぼしにくるだろう。
 マルスは立派な男だった。カミュはニーナ姫を守ると誓ったが、途中からその約束を果たせずにいた。ハーディンとマルス。義理を果たせずにいる間にニーナ姫を助けてくれた存在に、カミュは内心で感謝していた。
 しかし、感謝と現実は非情なまでに乖離する。カミュは、グルニアの将として、この二人を討たなければならなかった。
「貴様も出撃するのか」
 その声は、カミュを止めようとしている音だった。振り返ると、聴いた声が幻だったと錯覚するほど、ミシェイルは退屈そうにワインを回していた。
 カミュは返事の代わりに、ミシェイルの口に乱暴に触れた。カミュから口づけをするのは、初めてのことだった。
「そうだな、貴様はそういう男だったな。カミュよ、覚えているか」
 妖しげに細められたミシェイルの瞳は、カミュを吸い込んだ。
「この俺を抱いておきながら無駄死にしたら許さないぞ」
 かつて聴いた覚えのある台詞をミシェイルは告げた。それから少しの間をおき、続けた。
「貴様はまだ俺の計画に手を貸していない。この意味がわからぬ男ではなかろう」
 挑発的な視線から逃れるようにカミュは目を伏せた。
「わかっている。だが、私は騎士としてしか生きられない。願わくば、貴公に……いや、今のは忘れてくれ」
「貴様はつくづく不器用だな」
 そういって、ミシェイルはカミュの全てに触れてきた。互いにこれが意味を持たない行為であることを理解しながら、求めることを止められなかった。これから起こる無意味な戦いを避ける術がないのと同じように、二人には、争う術がなかった。
 
 マルスと対峙し、その剣がカミュを貫いた時、悲しい音がした。海岸沿いでの戦いだった。ざーざーとした波の音に混ざり、カミュは確かにマルスの苦悩を聞いた。
「ニーナ姫を、頼んだぞ」
 この青年なら信頼できる。そう思ったカミュは、朦朧とする意識の中でそれだけを言い残して波の音に近づいた。マルスは黙ってそんなカミュの姿を見ていた。
 カミュは切り立った崖の上から身を投げた。思い出したのは、ミシェイルのことだった。
「すまない、私は貴公の情だけを利用してしまったようだ」
 沈みゆく意識の中、近づいてくる魚の姿を見た。まだ、来ないでくれ。傲慢な王には、野望が遂げられずとも生きていてほしいと願った。
 
 ざーざー。ざーざー。男は波の音が聞こえるベッドの上で目覚めた。鴎が高らかに鳴いている。
 そして、頭がひどく痛んだ。
「目が覚めたのね」
 しばらくして、新芽のような淡い緑髪の似合う少女が男に駆け寄って来た。
「君が助けてくれたのか?」
「助けたと言っても、休める場所を貸しただけよ。ねえ、あなたの名前を教えてくれる?」
「名前……」
 男の記憶は靄がかかったように途絶えていた。
「名前は……」
 しばらく唸っていると、少女は困った顔をしながらも力強く手を握り締めてきた。
「記憶がないのね。でも、大丈夫。きっとルドルフ皇帝のところにいけば何とかなるわ。あなたの体調がよくなったら出かけましょう」
「すまない」
 男が少女の名を聞き忘れたと気づいた時、少女は既に背を向けた後だった。
 
 ジーク。それは男に与えられた新しい名だ。大切な存在が二人、果たさなければならない使命が一つあった気がする。気がするだけで、ジークはそれ以上のことを思い出すことができなかった。
 どうやら、ジークは海を漂流してバレンシア大陸に流れ着いたらしかった。ジークの脇腹には、刀で刺された傷があった。比較的新しい傷だ。傷口は触れるとずきずきと痛んだ。
 傷が癒えて間も無く、バレンシア大陸の戦禍がジークの元まで及んだ。
 その中で、アルムという少年と出会った。邂逅はジークに不思議な感覚を与えた。ふと、かつてアルムのような、世界を救わんとする青年に、腹を刺された気がしたのだ。
 記憶は、戦のたびに少しずつ思い出された。戦争が終わる頃、ジークは全ての記憶を取り戻していた。
 
 再びアカネイアが戦火に巻き込まれたと知った時、ジークに迷いはなかった。故国の海は遠い。しかし、それでも進まなければいけないことがある。
「すまないが暫く旅に出るよ」
 ジークは同居人に言い残して、アカネイアへの航路を渡った。道中にみた飛竜は、かつてミシェイルに見せてもらったものより幾分も小さかった。
 大陸に着くとジークはシリウスと名乗った。戦争の原因がハーディンとニーナ姫の関係悪化にあると知った時、〝カミュ〟は全てに気づいてしまったのだ。今、〝カミュ〟がアカネイア大陸を訪ねるわけにはいかなかった。
 そして、あの男に再会した。かつてカミュの人生の一部として深く刻まれていた男だ。男は傷だらけの姿で、妹に支えられながらマルス軍に加わった。
 ミシェイルはシリウスの存在に気がつくなり、幽霊を見たかのように目を瞬かせた。
「生きていたのか、——」
 驚きを滲ませながら言葉を紡ぎかけたミシェイルの口を、シリウスは強引に塞いだ。それこそがシリウス——カミュの答えだった。
 長い口づけを終えると、ミシェイルは昔を思い出す妖しい顔をした。
「貴様はつくづく面白いな」
 ミシェイルはそう言って、カミュの腰に腕を回した。