臆病と後悔

 グランベルの大地に強い日差しが照り付けている。バーハラ城の主塔にあるバルコニーから祖国の方角を眺めると、地平線近くに黄金の大地があった。イード砂漠だ。砂漠を超えれば、シャナンの祖国であり、これから守っていくべき土地もあるはずだが、今はイード砂漠と祖国を隔てる山が遠くに青白く霞んで見えるばかりだった。
「今度は、一人か……」
 遠い土地に向け、シャナンはぽつりと呟いた。
 もう、十八年前になる。まだ幼かったシャナンは、戦禍から逃れるために祖国を離れて、シアルフィの公子シグルドの軍に身を寄せていた。激化する戦乱の中、シグルドは息子セリスを守るため、イザークへ亡命させる決意を固めていた。イード砂漠の北端でシグルドの決意を知ったシャナンは、セリスと共にイザーク王国へ行くとシグルドに訴えかけた。
 その晩、叔母アイラから双子を預かるよう頼まれた。シャナンは嫌だと思った。アイラと帰りたかった。
「アイラは、帰らないの?」
 もっとずっと強く引き留めたかったが、それだけを聞いた。
「イザークの剣士は受けた恩を返すものだ」
 アイラは何が嬉しかったのか、小さく笑った。そして、剣を握り続け堅くなった手で優しくシャナンの頭を撫でてきた。
「それに、もう私がいなくても平気だろう。きっと、兄上も同じことを言う」
 鮮明な記憶に反して、この後自分が笑ったのか泣いたのか、シャナンはあまりよく覚えていなかった。
 翌朝、まだ空気の青白い時間にシャナンはシグルドたちとの別れを迎えた。
 逆賊の汚名を着せられながらも戦いへ向かう勇敢な戦士たちの後ろ姿。重ねた戦の重みを象徴するようにたなびく薄灰——出会った頃は純白だった——のマントと、夜空のように綺麗な黒髪は、今でも瞼の裏に焼き付いている。
 戦士たちの背を見つめていたとき、左手にはオイフェの震える手が重ねられていた。嗚咽をこらえるように、呼吸の音は不規則だった。手を繋いだまま隣を見ると、いつも頼もしい兄のように接してくれたオイフェの目が赤く色づいていた。今にも溢れそうな涙を必死に押しこめている顔を見て、シャナンは少し泣いた。シャナンが泣くとオイフェも涙を流して、託された子供たちまでもが泣き出した。
「ぼくたちがしっかりしないと」
 流れる涙を手の甲で拭い、まだぐずった鼻を啜りながら、シャナンはアイラの双子を、オイフェはセリスを抱きかかえた。その時感じた双子の温もりにシャナンはまた泣きそうになった。もう一度泣くのを堪えていると、先刻の涙が張り付いた頬にラクチェと交代で抱っこされたスカサハの、小さな手が触れた。庇護する相手がいなければ生きることも難しそうな手だった。その手の温度を守らなければいけないと思った。アイラが戻るその日まで、シャナンは大人になると誓った。
 シグルドたちと離れてからイザークへ向かう道のりは、想像より遥かに短かった、歩き始めて二、三日が経った頃には、砂漠特有の乾いた砂の匂いは消えて、代わりに青々しい芽生えの匂いがするようになった。音も賑やかになった。虫や鳥の鳴き声。梢のざわめき。シャナンが記憶していたイザーク王国の音と比べれば静かで寒い道のりだったが、それでも次第に強まる生き物の気配があった。それから一週間も経たないうちに、最初の村にたどり着いた。来た道を振り返った時、山の近くを数羽の鳥が旋回していた。
 ちょうどその時と同じように、薄茶の鳥が数羽で群れをつくり、城の近くを飛んでいった。吹き付ける風に煽られながら、遠くに見える山を目指して羽ばたいている。
(一人で進む道はあの時より長いのだろうな……)
 シャナンは風に揺れる髪を耳にかけた。
 近づいてくる足音がある。そのまま黄昏ていると、十歩ほど離れたところで足音が止まった。
「シャナン様、」
 声を聞いた瞬間にスカサハだとわかった。シャナンは振り向けなかった。今顔を見せれば、離れ難く思っていることに気づかれてしまう。
「どうした」
 なるべく無愛想に返事をした。スカサハは、特に気に留めた様子をみせなかった。
「俺は、あなたとイザーク王国に帰ることにしました」
「レスターからヴェルダンに誘われていたのはどうした」
「断りました」
 スカサハの言葉を、シャナンは素直に喜べなかった。シャナンの寂しいという感情が、スカサハに無理を強いたのではないかと心配だった。
「なぜだ」
 思っていたより厳しい声がでた。流石に驚いたのか、スカサハも萎縮した様子でしばらく無言になった。もう一度、今度は幾分か優しく訊ねると、スカサハは困ったように呟いた
「あなたが、一人になってしまうので……」
 振り向かないまま、シャナンには曖昧な笑みを浮かべるスカサハの姿が見えていた。右手の人差し指でぎこちなく頬を掻いているかもしれないとも思った。
 鳥の群れは、点に見えるほど遠くまで進んでいた。小さな点の数が変わっていないか数えようとして、間近で見た時の数を覚えていないことに気づいた。
「……私は、一人でも平気だ」
 平気ではなかったが、シャナンはそう言った。幼い頃から血縁も恩人も失って生きてきた。大切な存在から離れて一人で生きていくことは、想像するだけでも辛かった。同時に、耐えようがあることも知っていた。
 スカサハは、そんなシャナンの感情を十分承知しているようだった。
「ですが、俺にはあなたが寂しがっているように見えます」
「だったらなんだ。おまえは私のためにイザークに帰ると言うつもりか」
 シャナンは厳しく問うた。シャナンの弱さがスカサハの選択を奪ってしまったとしたら、それは我慢ならないことだった。振り返ると、スカサハは想像よりだいぶ近くに立っていた。腕を伸ばせば肩に触れそうな、そんな距離だ。
「俺のためですよ」
 シャナンの頬にスカサハの手が触れた。大きくなった手からは、かつてのアイラと同じ剣士特有の硬い感触がした。
 シャナンは少しだけ子供に戻りたくなった。スカサハの優しさに甘えて、感情の向くままに泣きたかった。だが、シャナンにはそうすることができない。
 素直に泣けない代わりに、スカサハの言葉の意味を知ろうとした。俺のためです、という言葉に安心を得たかった。
「フィンさんに教えてもらいました」
 スカサハは困ったように笑い、頬に触れていた手でシャナンの手をとった。そのまま片膝をついて、恭しく手の甲に口づけを落としてきた。触れてきた唇は柔らかく熱い。
 ゆっくりと唇が離れた後も、まだ触れられた箇所に熱が留まっている気がした。
「俺の忠誠はあなたにあります。だから、俺のためにあなたと一緒にいたいんです」
 シャナンに触れるスカサハの手は震えていた。一緒にいられなくなることを恐れるように、目で見てもわかるほど震えていた。
「おまえは優しいな」
 スカサハの手を引っ張りよせて、シャナンは大きな体を抱きしめた。よほど緊張していたのか、スカサハの背中は汗でぐっしょりと濡れていた。
「スカサハ、一緒にイザークへ帰ろう」
「良いのですか?」
「おまえがそれを望んだのだろう」
 シャナンは一層強くスカサハを抱きしめた。伝わってくる心臓の鼓動がやけに速かった。
 
 忙しなく階段を駆けのぼってくる音がした。音は段々と近づいてきている。
 名残惜しく思いながらスカサハから離れると同時に、少し息を切らしたラクチェが姿を見せた。
「シャナン様、スカサハをイザークに連れ帰ってください」
 ラクチェはまだ呼吸が整う前に、必死な顔をして聞いてきた。返事をする前に、ラクチェは急いた調子で続けた。
「あいつ、ずっと悩んでいるんです。本当は一緒に戻りたいのに、断られるかもしれないって。だから、シャナン様から——」
 そこまで言って、ラクチェの言葉は不自然に途切れた。どうやらシャナンのすぐ横にいたスカサハの姿に気づいたらしい。
「いたんだ」
 取り乱すかと思ったが、ラクチェの声は先刻までの必死さを忘れたようにそっけなかった。
「最初からな」
「邪魔しちゃった?」
「大丈夫だ」
「付き合うの?」
 口を挟む隙もなく進んでいた会話が一瞬止まり、スカサハが露骨に慌ててラクチェの手を掴んだ。
「おい、ラクチェ、こっちに来い」
「へえ、肝心なことは言えてないんだ」
「いいから少し黙ってくれ」
 瞬く間に二人の姿が消えて、シャナンは一人取り残された。
(スカサハは何を慌てていたんだ……)
 疑問に思いながら、シャナンの脳裏には遠い記憶が浮かんでいた。
 
 少し外に出ただけで指先がかじかむシレジアの冬。いつだって男勝りな勇敢さを誇るアイラが、一人の男性を強く意識するようになっていた。
「ホリンはどんな女が好きなんだろう……」
 部屋でアイラが呟くのを、シャナンは何度も耳にした。
 シレジアに来る前までは、二人は純粋に剣の腕を競うライバルだったように思う。アイラはホリンと毎日のように手合わせをしていた。
「また負けた」
 手合わせをして負けるたび、アイラは同じことを呟いた。勝った日も、アイラは反省を欠かさなかった。
 普段剣を交わしている二人は、戦場でも近くにいたらしい。
 またホリンに助けられた。今日はホリンより多く敵を倒した。あいつには攻めの姿勢が足りない。
 戦場から戻ってきたアイラの話題はホリンのことばかりだった。
 金の鍔が豪勢な剣をホリンから貰ってきたこともあった。
「告白されたの?」
 あまりの剣の豪華さにてっきり恋愛が絡んでいると思って聞くと、アイラは厳しく眉を吊り上げた。
「馬鹿を言うな。剣士の気遣いだ」
 それから、アイラの言動には小さな変化が生まれた。
 ホリンは私を庇ってばかりだ。あの剣技に憧れる。剣をもらった分、今度は私が守らなければな。
 そして、シレジアに着いたときには変化が決定的なものとなっていた。
「ホリンはどんな女が好きなんだろう……」
 連日のように呟かれる言葉を、シャナンはアイラが確認したがっている事柄として認識した。男勝りで潔いアイラが、純粋な恋煩いで疑問を燻らせていると想像できるほど、当時のシャナンは大人ではなかった。
「ねえ、ホリン」
 食堂でシャナンが話しかけると、ホリンは大きな膝折り曲げてシャナンと目線を揃えた。
「どうした」
「ホリンはどんな人が好きなの?」
 困ったように唾を飲む音がした。
「なぜ、そんなことを聞く」
「アイラが知りたそうにしてたから」
 無邪気に告げると、ホリンは大人っぽい切長の目を丸く見開いた。同時に、すぐ近くから大慌てで駆け寄る足音がした。
「おい、シャナン、こっちへ来い」
 アイラはシャナンの手首を掴み、半ば引きずるようにその場を離れた。耳まで赤く染めたアイラは、振り返ることなくずんずんと進んでいく。
 
 ああ、スカサハの行動はそういうことだったのか。とシャナンは思った。慌てた時の言葉がアイラと同じだったことに、少しの微笑ましさを覚える。
 それから少し遅れて、シャナンの顔に熱が溜まった。
(スカサハがアイラなら、ホリンは今の私ではないか?)
 スカサハの柔らかな唇の感触を思い出した。
 あいつが望んだ時、私はそれを受け入れられるだろうか。
 人差し指で唇をなぞった。薄く滑らかな質感は、スカサハのものと随分違う。スカサハの唇はもっとずっと厚く、乾燥して硬く、けれど熱かった。
 それこそ、唇に触れれば——。
 想像しかけて首を振った。スカサハを受け入れられると自覚してしまえば、きっと、手放せなくなる。
 シャナンの都合でスカサハの人生を奪うわけにはいかなかった。きっと、スカサハは家族愛と恋心を混同しているだけだ。だから、その時が来たらシャナンはその感情を突き放さなければならない。突き放して、スカサハと離れなければならない。
 熱を帯びた頬に手をあてた。ひんやりとした火照つた頬が冷えていく。シャナンは、スカサハの手が温かかったことを思い出した。
 
◇◇◇
 
 あれから、スカサハは何も言ってこなかった。イザークへ向かう途中まで道を共にしていたラクチェも、きつく口止めされたのか口を挟んでこなかった。
 瞬く間に城に着き、即位式の準備で慌ただしくなった。そうなると、スカサハの向けているだろう感情を気にする余裕も失われた。慣れない日々の連続に、気づけば月日が流れていた。
 帰国して最初の雨期がやってきた。イザーク王都はグランベルと比べて年中空気が乾いているが、年に三ヶ月ほど雨が増える。雨期になると、しとしとと静かな雨が続き、地面が緑に色づいた。
 そして雨期が過ぎ去れば、いよいよシャナンの即位から一年が経つ。
 感慨深さに浸りながら人の往来が減った城下町を眺めていると、後ろから話しかけられた。
「シャナン様」
 シャナンは声のほうに顔を向けた。十歩離れた場所に、やけに真剣な顔をしたスカサハが立っていた。
「どうした」
「俺、あなたのことが好きです」
 半ば忘れかけていた感情を唐突につきつけられ、シャナンは静かに降る雨を見た。ついにその時が来てしまったと、手のひらを握りしめる。
「……知っている」
 なるべく無愛想な声を出した。
 驚きに息を呑む音がした。
「いつからですか」
「おまえが、私と共に国に帰ると言ってきた日だ」
 握りしめた拳が震えた。窓ガラスに、薄く反射したスカサハの姿があった。スカサハは、力無く両手を下げてじっと俯いていた。
「そんなに前から……。俺の感情は、迷惑でしたか」
 ああ、と言いかけて開いた口をシャナンは閉じた。代わりに頷こうとしたができなかった。
 スカサハの感情を知ってから時間が経ちすぎていた。突き放すと決めたことは覚えているのに、シャナンはその時の心を忘れていた。
 返事をできずにいると、スカサハが近づいてきた。近づいてきた勢いのまま左手首を掴まれて、窓ガラスに押しつけられる。掴んできた手は、痕が残りそうなほど力強かった。
「嫌なら逃げてください。斬られても文句は言いません」
 それはあまりにも突然で、状況を理解する前に、だから左手を掴んだのか。と場違いなことを思った。余裕ない瞳がシャナンをまっすぐに見おろしている。
 スカサハの顔が、逃げる時間を与えるようにゆっくりと近づいてきた。
 抵抗しなければと思うのに、体が動かない。スカサハを拒む勇気が足りなかった。拒めない代わりに、シャナンはきつく目を瞑った。スカサハの息が唇にかかる。それ以上、スカサハは近づいてこなかった。
「これで、ようやく決心がつきました」
 掴まれていた手を解放されて、シャナンは地面にくず折れた。決心がついたと言うスカサハの目は寂しげに濡れていた。
「俺、ヴェルダンに行きます」
 震える声で突きつけられた言葉に、胸の奥が抉れるように痛んだ。
「……なぜだ」
「それが、お互いのためです」
 これ以上は話せないと言いたげに、スカサハは背を向けた。その背が静かに遠ざかっていく。
 これでよかったんだ。シャナンは自分に言い聞かせた。これで、私はスカサハの人生を奪わずにすむ。スカサハの決めた道を、私は応援しなければ。
 応援、しなければ。
 ぽたり、とこぼれ落ちた水が服に染みを作った。
 離れたくないと思った。
 慌ただしかった一年間、スカサハはいつもシャナンのそばにいた。孤独を寂しがるシャナンの感情を埋めるように、隣にいてくれた。
 もう、とっくに気づいていた。シャナンはスカサハと唇を重ねられる。抱き合って、その先の時間を過ごすことだって多分できる。シャナンの寂しさに気づき、自分のために一緒にイザークへ帰ると言いきったスカサハのことが愛おしくて仕方がなかった。
「スカサハ」
 シャナンは立ち上がり、遠ざかる背を追いかけた。後ろからスカサハを抱きしめ、その勢いのまま唇を重ねた。触れた唇は塩からかった。
「どうして……」
 スカサハは、口付けられた自分の唇に触れながら、全身で戸惑いをあらわにしていた。
「おまえと離れたくなかった」
「そのために恋人ごっこをするんですか」
「違う」
「でしたら、俺とそういうことしたいって思ってくれているんですか」
 荒々しい声だった。シャナンの行動は、明らかにスカサハの心をかき乱していた。それでも、シャナンはスカサハから離れたくなかった。
「お前となら、嫌ではない」
「結局、触れたいわけではないのでしょう」
 スカサハはシャナンから逃げるように、抱き締める腕を力づくで引き剥がしてきた。
「俺、本当は黙ってあなたのそばで過ごし続けるつもりでした。でも、我慢するたびに苦しくて、あなたに触れないくらいなら離れたくて、だから、悩んで、悩んで決めたんです」
 苦悩を形にするように、スカサハは強く唇を噛んだ。かなり力を入れたのか、噛んだ場所が切れて血が滲む。視線を落とすと、拳からも血がつたっていた。
「あなたの気持ちが無いまま触れても辛いだけです。……一人が寂しいというなら、どうか他の人に縋ってください」
 絞り出すような声だった。手を伸ばせばスカサハに届くのに、シャナンはその場に立ちすくんだ。
「おまえ以外は考えられない」
 小さく呟くだけで精一杯だった。どうしたら、スカサハがそばに居てくれるのかわからなかった。
 シャナンの呟きに、スカサハは重々しく瞬きをした。
「それならどうして、あんなに嫌そうに目を瞑ったんですか」
 最初、言葉の意味が理解できなかった。それからすぐに、ひどい仕打ちをしたと思った。
 スカサハの顔が近づいてきた時、拒めないと思いながら、拒絶に等しいことをした。それでいて、離れると決めたスカサハを追いかけ、引き止め、血を流すほど苦しい想いを強いている。
 シャナンはせめてもの気持ちで、スカサハを見つめた。
「嫌ではなかった。おまえに自由に生きてほしかったから、拒まねばと思っていた。だが、私にはどうしてもそれができなかったんだ」
「無茶苦茶です」
 スカサハは足の先を見つめて、もう一度繰り返した。
「そんなの、無茶苦茶ですよ……」
 スカサハは逃げ出すように踵を返した。シャナンは一歩踏み出して、血の滴っているスカサハの手を必死に掴んだ。
「どうしたら、私の言葉を信じられる」
 スカサハは答えなかった。手を振り解かれ、どんどんと遠くへ行ってしまう。
「スカサハ、待ってくれ」
 スカサハの輪郭が霞んでしまってもう見えなかった。これ以上追いかける勇気はなかった。シャナンは力なくその場に座り込んだ。
 
 
 鳥の鳴き声も梢のざわめきも聞こえない。ひとりぼっちの闇の中でシャナンはうずくまっていた。
 もう少し器用に生きる方法を知っていたら、何かが変わっていたのだろうか。
 スカサハの人生を奪ってはいけないと思っていた。感情を受け入れてはいけないと思っていた。スカサハのためを思っていたはずが、気づけば誰も幸せにならない選択をしていた。
 昔からそうだった。ディアドラを失った時も、シャナンはディアドラの気持ちを思って送り出したはずだった。その結果、シグルドからもセリスからもその存在を奪ってしまった。
 シャナンがあの時もっと強く引き留めていれば、シグルドが死ぬことはなかったかもしれない。セリスも両親の温度を知ることができた。
 難しいことを考えず感情に従っていれば、スカサハを傷つけることはなかった。
 だが、もう手遅れだ。
 スカサハはきっと、ヴェルダンへ旅立ってしまっただろう。臆病で救いようのないシャナンに愛想を尽かしながら、城を去ったに違いない。
 シャナンはひとりぼっちになってしまった。暗闇の中、一人座り込んで嘆いてばかりだ。
(情けないな、私は)
 よろよろと立ち上がり、あてもなく歩き始めた。灯も持たずに歩いたせいで、腕や頭や足をあちこちにぶつけた。かといって、灯がどこにあるのかも分からない。
 自嘲するようなため息が溢れた。その時、遠くにゆらりと揺れる蝋燭灯が見えた。
 次第に足音が聞こえ始め、シャナンは唾を飲んだ。
「スカサハか」
 おそるおそる訊ねると、驚いたように灯がゆれた。
「シャナン様、ですか?」
 急いた足取りで灯が近づいてきた。ぼんやりと見えた姿がはっきりするまでスカサハは近づいてきた。
「もしかして、あれからずっと……」
 シャナンが頷くと、スカサハは近くに燭台を置いて座った。
「どうしてですか」
「動けなかった。おまえが居なくなるのが怖かった」
 スカサハは、何かを諦めるような深いため息をついた。
「額、怪我してます」
「ああ」
「ひどい顔です」
「そうだな」
 スカサハの手が、シャナンの頬に触れた。涙の跡を剥がすように頬を掻いてくる指。触れた場所からスカサハの体温が沁みてきた。
「俺、やっぱりこの城に残ります」
 スカサハの手が頬をたどって、シャナンの唇を撫でた。顔が近づき、シャナンは目を瞑る。拒めなかった時とは違い、優しく全てを受け入れるように瞑った。唇にスカサハの吐息がして、それからすぐに柔らかく熱い唇の感触がした。唇よりさらに熱い舌が口内を撫でてくる。
 離れた後、スカサハの大きな目にはシャナンの姿だけが映っていた。肩に大きな剣士の手が触れる。
 スカサハは、意志のこもった声で訴えかけてきた。
「だから、俺に触れたいって思うまで、俺のことを好きになってください」
 こめられた力が、想いの強さを伝えてきた。スカサハの手はわずかに震えている。また拒まれることを恐れるようだった。
 シャナンは置かれている手の上に自分の手を重ねた。唇を重ねた時よりもゆっくりと、沁みるような温かさが伝わってきた。
「さっきまで、ずっとおまえの体温が恋しかった」
 スカサハの温度を確かめるように、手をとって頬に触れさせる。
 シャナンは、まだ小さかったスカサハの手で、大人になる決意をもらった。バーハラの時は、子どもに戻りたくなった。今はただ、触れる温度が愛おしい。
「すまなかった……」
 シャナンから唇を重ねた。舌をいれると、驚いたようにスカサハの肩が跳ねた。スカサハは驚きながらも舌を絡ませてきた。
 薄暗がりの中でしばらく触れ合ってから、二人は立ち上がった。どちらともなく手を繋いで、蝋燭のゆらめく灯りを頼りに進む。スカサハの大きな手を握りしめながら、シャナンはもう二度とスカサハを拒まないと決めた。