マケドニア

 ラーマン神殿で光と星のオーブを手に入れた同盟軍は、マフーを破る唯一の魔法であるスターライト・エクスプロージョンを手に入れるため進軍を続けていた。
 大賢者ガトーの居場所は誰も知らなかったが、ドルーアへ迎えばどこかで会えるとマルスたちは信じていた。
 だが、ドルーアまでの道中に立ちはだかる障壁は高かった。特にグルニアの騎士カミュ。滅びゆくグルニアに身を捧げた騎士は、アリティアが誇る宮廷騎士団に対してさえ苦戦を強いた。メリクルソードを託されたオグマの活躍がなければ、さらに苦戦しただろう。
 グルニア城を押さえた後は、そのままの足取りでマケドニアへ向かった。
 復活したドルーア帝国と地続きである唯一の国に、ナバールは周囲と異なる理由で身震いをした。
 マケドニア独特の湿っぽく、ざらざらとした風が痛い。肌に染みついた懐かしさに、自然と過去が思い出された。
 実の両親に売られてから、ナバールは随分と長い間マケドニアで奴隷として過ごしてきた。飼い主は背格好にこれといった特徴を持たなかったが、鼻の右にある膨らんだホクロがよく目立つ男だった。
 ナバールは屋敷中の雑務をさせられていた。食事は飼い主の残飯。時には激しい暴力も振るわれた。燭台を押しつけられ、体を焼かれることもあった。整った容貌を理由に顔や首は傷つけられなかったが、その分、夜に別の仕事があった。
 嫌な記憶だ。
(……来るのではなかった)
 想像よりは遥かに冷静だったが、腹の火傷痕は静かに痛み出した。飼い主はとうの昔にナバール自身の手で殺したというのに、過去の傷は消えない。
「おい」
 軍の後方を一人で歩いていたはずが、突然声をかけられて肩がびくりと震えた。ナバールが近づきすぎたわけではなく、相手が待っていたらしい。
 返事をせずにいると、オグマは勝手に話し続けた。
「礼を伝えにきた」
 感謝されるようなことをした覚えがない。オグマはしばらく黙っていた。そしてナバールが反応しないことを悟ると仕切り直すように咳払いをした。
「……グルニアで貴様が俺の背を押さなければ、もっと多くの被害がでていた」
 そこまで言われれば流石に心当たりがあった。
 グルニア城を攻める前、マルスとシーダがメリクルソードを持ってきた時の話をしているのだろう。剣の拝受を渋ったオグマに、ナバールは剣を受けとらないことで多くを殺したいのかと尋ねた。こう言えば偽善的なこの男が剣を受け取ると知っていた。
 要するに、オグマは一つ思い違いをしている。
 ナバールは嫌がらせをしたつもりだったのだ。
 オグマはナバールと似た過去を持ち、ナバールにはない救いを得ている。
(なのに、何故コイツはオレよりも不幸に見えるのだ……)
 恵まれていることに気づかず、自分を貶め生きるオグマは哀れだった。どれだけ周囲から愛されても、当のオグマが愛されるということを知らない。
 ならばいっそ、哀れな男のちぐはぐをかき回し、周囲の環境が苦痛になるよう仕向けてやろうと思った。
 オグマにとって王家の剣を背負うことは一種の呪いになるはずだ。
 だが、ナバールの思惑に反して、剣の呪いは環境に沿う方向へオグマを変化させたらしい。オグマの得た感謝はオグマ自身の強さによるものだ。愛されることを知らずとも、ようやく周囲へと馴染んだ結果だった。
 期待通りではなかったが、不思議と落胆はなかった。かといって、経緯を明かすつもりもない。
「……何の話だ」
 考え得る最もシンプルな返事をすると、流石のオグマも詳細を語ることは諦めたようだった。
「覚えがないのか。それならそれで構わん。俺は伝えたからな。後で不満を言うなよ」
 オグマはすっきりとした顔でナバールの肩を叩いてから、軽快な足取りで先頭へと進んだ。大きな体に添えられた細身の名刀は、不思議とよく馴染んでいる。
 ナバールはしばらくその場に立ち止まり、ざらざらと痛い風を受けた。
 
 
 
 軍は二手に分かれて進むことになった。民から聞いたガトーのいる小屋を目指す少数精鋭の東回りと、東回りの精鋭たちが進みやすいように敵部隊を引きつけながら進む西回りだ。
 オグマとナバールの二人は、久々に離れて戦うことになった。ナバールは東回りの精鋭部隊に付き添う。
 オグマが西側に行くのは、敵の目を惹きつけるためだ。神器を持つ者たちが目立てば、自ずと東の敵は薄くなる。他にも、シーダやマケドニア白騎士団の飛兵が西に回された。これには敵を惹きつけるだけでなく、敵兵の投降を促す目論見もあった。
 ナバールは、マルス王子や魔道士たち、アリティア騎士の騎兵数名と東へ向かった。
 作戦は失敗だった。予想していたよりもはるかに多くの兵が東側へと回されていた。本命の行く道を予め知っていたかのように敵兵が襲いかかってくる。多勢に無勢。苦戦は必至だった。ナバールは誰よりも先頭に立ち、迫り来る飛兵を一人で一気に相手取った。敵にナイトキラー(騎兵の動きを確実に止める槍)を持つ者がいたため、アリティア騎士団はマルスの周囲を守るので精一杯になっていたからだ。
 ナバールの仕事は騎士団のところまでナイトキラーを持つ敵が向かわないよう確実に仕留めることだった。しかし、一人でこなすには、四方を囲まれる危険を冒して突出する必要がある。
 今は背中を守る存在がいない。魔道士も援護はしているが、近寄られると弱いためその範囲は心許ない。
 己しか頼れない状況で戦地を生き抜く賭けにでるのは、軍に身をおいて以来初めてだった。
 久々の緊張感。剣を握る手が汗で湿っている。
(戦いの末の死など恐れることはない。だが、この感情はなんだ)
 ナバールは自身の中に生への執着を見つけていた。かつて環境から逃れようと剣をとった青年の記憶が再び呼び起こされる。
 飼い主を殺す。かつての選択は、ただ虐げてくる存在を殺すためのものだった。
(この国は嫌いだ)
 だから、死んで骨を埋めるような真似はしたくない。
 ナバールは生じた執着の理由を自身に納得させて走り出した。木々の合間を巧みに利用して飛兵の攻撃を捌く。途中で襲いかかってきた騎兵にも臆せず対処した。
 一人、二人、五人。
 小回りが利かない飛竜の弱点をつくため余分に戦地を駆ける。そのせいか、倒した敵の数よりも疲労の蓄積が早かった。足を止めることはしないが、動きは確実に鈍くなる。
 油断もあった。長いこと背中を預ける相手がいたことで、背後の注意が僅かながら疎かになっていた。敵兵の気配は感じていたが、体が追いつかなかった。
 しまった、と思った時には、槍が横腹に刺さっていた。痛みはない。右手から剣を落とす音がした。
 敵兵は槍を抜き、もう一度体を貫こうとしてきた。次の瞬間、魔法が敵兵を吹き飛ばした。風が頬を撫でる。敵が去った安堵で地面の固さに構う余裕もなく横になった。意識が遠ざかっていく。
 薄らぐ意識の中でナバールが見たのは、この場にいるはずのないオグマの広い背中だった。
(どうせ死ぬのならアイツの剣で……アイツの、オグマの後悔に……)
 オレを含めて欲しかった。
 意識を失う瞬間、ナバールはただそれだけを思った。

 
 
 柔らかな感覚が背中を包んでいた。忙しない足音が聞こえる。昼なのだろう。瞼を閉じていても視界が薄らと明るかった。
 細く目を開ければ、見慣れない木組みの天井があった。どうやら生きながらえたらしい。
 体を起こそうとした。右脇腹がじくじくと痛む。動けないほどではなさそうだった。
 だが、ナバールはわざとそれ以上起きあがらずにしばらく横になった。目を閉じて、意識が途切れる直前の感情を思い出す。
(何故あんなことを考えた)
 ナバールとて、オグマへの執着に無自覚であるほど愚かではない。だが、最期かもしれない瞬間まで頭の中を埋めていたのがオグマだったことは腑に落ちなかった。
 死の瞬間は、最も強い願いが現れると聞いたことがある。それが真実だとすれば、オグマであればシーダ姫を最後まで守れなかった後悔を。姫であればマルス王子の目指す未来を考えるのだろう。
(ならば、オレはアイツに殺されたかったのか)
 それは違う。
 ナバールはオグマを哀れんでいた。哀れな男に息をさせてやろうとも思っていた。
 他のどの感情を認めても——かつて弱さを抱えながら生きるオグマを殺し、この世から解放してやろうかと考えたことも。そう考えて殺したくないと思ったことすら認めたとしても——オグマに殺されたいと願ったことはなかった。
 そもそも、ナバールは生死にこだわらず生きてきた。生にしがみつく理由もなければ死ぬ理由もない。剣という手段だけがあった。
 世界を漂い、生の目的すら見失い手段を振りかざしていたナバールにとって、オグマだけが世界に意味を与える存在だった。理屈などない。初めて出会った時からずっと、オグマは特別だった。
(ああ、そうか。オレはアイツに忘れられたくなかったのだ)
 自覚してから、こんな願いは知りたくなかったと思った。他者に何かを求めることは、思い通りにならない不幸を背負うことでもある。
 ナバールは誰にも頼らず、何かを望むことない存在であるべきだった。姉を探すという目的すら形骸的なものであり、そこに何の期待も抱いていなかった。
 執着と期待は似ても似つかない。
 ナバールはオグマの記憶を求めてしまった。
 だが、オグマの視線の先にいるのはシーダであり、ナバールではない。オグマはナバールを見ていない。それどころか、英雄の証を背負ってどんどんと遠くへ行ってしまう。
 苦しい道のりしか見えなかった。理解はしていても、一度抱いた感情は消えない。
 終戦後もオグマが背中を預けあった男の存在を覚えていてくれることを、願うことしかできない。

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