それは、海だった。
しなやかに流れる剣。際限なく膨らむ感動。フラルダリウス城の中庭でグレンの剣技を目にした日、イングリットは、グレンの婚約者であることを誇らしく思った。
「グレンすごい。うみみたい」
まだ五つになり三節しか経ってない女児の目は、はつらつと輝いている。好物を前にした時と同じ調子で煌めく若草の瞳に、グレンは笑いをこぼした。
「なにが、おかしいの?」
「肉を食べる前と同じ目だなって思ってさ」
「ひどい。しんけんなのに」
しんけん、がまだ口に馴染んでいない、頬を膨らませて怒る女の子の頭を、グレンはふわりと撫でた。
イングリットは、グレンに撫でられるのが好きだった。温もりは伝わるのに、重さがない手。全身が包まれるような幸せを、その手はくれた。
「イングリットは、かわいいな」
春のように無垢な瞳が細められる。グレンは、肩のあたりで切り揃えられた黄金色の髪から、そっと手を離した。
イングリットはすっかり機嫌を直していた。さっきまで膨らませていた頬をうんと上げて笑う顔は、ちょうど色づき始めた花畑と良く似合いそうだ。
「グレンは、けんがじょうずだね」
「俺は、騎士になるからな」
「グレンは、きしになりたいの?」
騎士という言葉は、イングリットと妙に馴染んでいた。
「ああ。騎士ってかっこいいだろ? そうだ、良いもの貸してやる」
グレンは、懐から一冊の本をとりだした。いつも持ち運んでいるのだろうか。表紙の角は折れ、ぼろぼろと崩れ始めている。『キーフォンの剣』と真ん中に書かれた表紙には、滲んだ跡があった。
ぱらぱらと本をのぞいて、イングリットは唇をとがらせた。少し見ただけでも、知らない言葉が沢山あったからだ。それに、いつも読む本より文字が小さく、絵も少ない。
「難しいところは誰かに聞けば良い。読んでみるか」
内心を見透かすように、グレンは言った。イングリットは迷ってから、首を少し傾けた。
「グレンも、おしえてくれる」
「もちろんですとも。愛しの姫さま」
少し芝居がかった声が周囲の壁に反射して響く。。
「ありがとう」
それから、イングリットは胸の前で大切に本を抱え、日々を過ごすようになった。
雪の名残がすっかり消えた頃。騎士になりたいと言い出した少女に待ち受けていたのは、父の平手だった。
「馬鹿なことを言うな」
イングリットは、服の裾をぐしゃぐしゃに掴んで、父を睨むように見た。じわり、と視界が滲む。ぶたれた頬に熱がたまった。初めての痛みだった。大粒の涙がぽたり、ぽたりと地面に落ちる。それらを追うように俯くと、自然と嗚咽がこぼれた。
「お前の体は、グレン様に嫁ぐ大事な体だ。騎士になって消えない傷をつけることなど、許されない」
イングリットは、その日初めて、グレンの婚約者であることが嫌になった。大好きなグレンに対して、そう思ってしまうことも、嫌だった。
だから、泣きじゃくった。お気に入りのぬいぐるみを無くした時以上に、涙が止まらなかった。
ひどく泣くイングリットの頭を、父は困ったように撫でた。
「お前のためなんだ、わかってくれ」
グレンとは違い、ずっしりとのしかかるような手だった。父の声も、どうしてか震えていた。
それから、二年が経った。
グレンの剣は一層しなやかになっていた。流れるように押し引きを繰り返して繋がれる技から、いつも目が離せなかった。
イングリットは、すっかり騎士物語に夢中だった。叶わない夢とわかっていても、憧れは止まらない。『ルーグと風の乙女』、『ファーガス建国史』、『三日月戦争』いくつもの物語に夢中になった。
その中でも、最初に読んだ『キーフォンの剣』は特別だった。
剣は風のように唸り、敵の喉を裂く。
迫る軍勢は、瞬く間に屍の山となった
そらで言えるほど何度も読み返しては、その場面に思いを巡らせた。
もし、グレンがキーフォンならきっと、「剣は波のように唸り」と書かれるのだろう。
自分なら。思考し始めたところで、イングリットはいつも頭をふって空想を終わりにした。それ以上は考えても虚しくなるだけだ。
ファーガスの貴族にとって、海は中性的な場所だった。身近とも言い難ければ、馴染みがないわけでもない。そんな曖昧な立ち位置にあった。
いつの日か、幼馴染と海の話をした。年長者のシルヴァンは、海をろまんだと言った。王子のディミトリは、寂しい場所だと。フェリクスは、黙っていた。
イングリットは、海が好きだった。フラルダリウスに行く時、いつも馬車の窓から波の動きを目で追っていた。その奥には、グレンの剣があった。
花の盛りが落ち着き草木が濃く色づいてきた頃。グレンとイングリットは、フェリクスも引き連れて別荘へ行くことになった。フラルダリウス領の北方、あと少しでシルヴァンの暮らすゴーティエ領となる海のすぐそばに、それはあるらしい。
最初は、二人で行くはずだった。それが、いつの間にかフェリクスも来ることになっていた。理由をたずねると、駄々をこねられたと、グレンは眉根をさげて嬉しそうに笑った。
最近、グレンの近くには、いつもフェリクスがいた。
グレンと同じ髪色の弟分が木刀を握りしめる姿を見るたび、イングリットの頬はずきすきと痛んだ。
出立の日、珍しくフラルダリウス領まで足を運んだ父は、グレンとフラルダリウス公爵のロドリグに深々とお辞儀をした。
「娘のことを、よろしくお願いいたします」
イングリットは、その横で呆然と立っていた。ロドリグが穏やかに笑っている。笑い返すと、父の手が丸々とした後頭部にのびてきた。
頭の形が丸いのは、小さい頃からいつも誰かに愛されていた証拠だと人は言う。だから、イングリットは自分の頭が好きじゃなかった。兄弟の中で、唯一くりくりと丸い後頭部は、親が兄弟に向ける愛情を否定しているように思えた。
騎士となるため日々鍛錬をする兄弟たちが愛されていないはずない。
頬が、ずきずきと痛む。父の手が離れると同時に、イングリットは顔をあげた。
騎士になりたいという夢は、頬を叩かれて以来誰にもおしえていない。
グレンすら知らない、密かな夢。
湿っぽい風が、春の輪郭を薄めている。
父の前で、グレンに手をひかれながら馬車に乗り込んだ。騎士物語のお姫様のように、婚約者と手を重ねた。騎士への憧れは、消えない。
馬車の中から見るより、幾分も荒々しい波が打ち寄せている。
隣には、グレンが立っていた。足に砂がはさまってむず痒い。
フェリクスはグレンに抱きついていた。自分から行きたがったというのに、大波を恐れているように見える。
海には、ろまんも寂しさもないと、幼馴染の姿を頭に浮かべながら思った。
そういえば、海の話をした時グレンはいなかった。
「ねえ、グレンにとっての海は、どんなところ?」
「突然どうしたんだ?」
「まえに、みんなで話したから、気になって」
グレンは顎に手を添えた。波がざーざーと押し寄せる。グレンの剣技のように、押し引きを繰り返し、大きな海になっていた。
やがて、グレンはぽつりとつぶやいた。
「全てを、許してくれる場所かな」
その瞬間、イングリットは秘密を打ち明けたくなった。今なら、騎士になりたい夢を許してもらえるかもしれない。
元々、グレンには伝えたくて仕方がなかった。それでも、騎士の魅力を話したい気持ちを我慢して、本を借りたあとはお姫様の話をした。この時ほど虚しい気持ちになる瞬間は、他になかった。
イングリットは服の裾を握りしめ、上目遣いにグレンを見た。
「いまなら、なにをいっても、ゆるしてくれる?」
「ん、いいぞ。何でも言ってみろ」
グレンは穏やかに笑った。
波が鳴る音に合わせて、イングリットは呼吸をした。磯の香りが、覚悟を全身に広げる。
「わたしね。わたし、きしになりたいの」
言い終わるなり、ぎゅっと目をつぶった。波が押しよせる。頬に衝撃はこなかった。ざーざー、ざーざー。グレンの姿が脳裏に浮かぶ。しなやかな剣技。憧憬。
頭にふわりと熱がのった。うっすらと目をあけると、夕焼けのように深い赤の瞳が、真剣にイングリットを見ていた。
「わかった、俺と一緒に稽古しよう」
「いいの?」
瞳を輝かせたイングリットの目に、涙が浮かんだ。
視界の端に、ぼんやりとフェリクスがうつる。あっ、と言うまえにフェリクスはグレンから離れ、そそくさと立ち去った。
イングリットの木刀は、フェリクスのより軽かった。
生い茂っていた草木が色褪せる季節。イングリットは、以前より頻繁にフラルダリウスを訪ねるようになっていた。グレンに剣の振り方を教わるためだ。
姿勢に気をつけるだけでも精一杯なイングリットの横で、グレンはまっすぐに剣を振り下ろす。
最近——イングリットが剣の稽古をするようになって少しした頃から——、フェリクスをあまり見かけなくなった。シルヴァンにべったりなんだよ、とグレンは少し寂しそうだった。
「けんか、したの?」
小首を傾げて訪ねると、グレンはどこか自分に対して言い聞かせるように目を細めた。
「してないさ。ただ、アイツにも思うところがあったんだろうな」
グレンの言いたいことがわからず、イングリットはますます首を傾げた。
風が吹き、落ちた枯れ葉がからからと転がった。
「グレン、剣を、振ってみて」
「え、ああ。これでいいか」
「あのね、グレンが剣を振ると、海ができるの。海は、全てをゆるしてくれるんでしょ。だから、だいじょうぶだよ」
にっ、と口角を上げて笑いかけると、グレンは頭を撫でてきた
冬が深まり、グレンと会えない日々が続いていた。いつにも増して質素な食事が続いている。作物があまりとれないらしい。
グレンに会えない間、イングリットは槍の練習に励んだ。
冬が始まってから、思い切って父に稽古のこと、それから、騎士への憧れを打ち明けた。本当は隠したかったが、そうすることをグレンに勧められたのだ。
「お父さん、わたしね。やっぱり、きしになりたいの。グレンもいいって言ってくれたわ」
かつての痛みを思い出し、イングリットは力一杯服の裾を握って目を瞑った。
平手は、いつまでも降ってこなかった。
恐る恐る顔を上げると、父は険しい顔をしていた。気まずい沈黙。
イングリットは父の顔を見ながら「ごめんない」と付けたした。それが決め手となったのか、険しかったはずの表情が、今にも泣きそうな調子に崩れた。
「イングリット、私が間違えていた。すまなかった……」
震えた声で父は言った。そのまま、膝たちになってイングリットを抱きしめた。
父の力は強く、少し苦しかった。けれど、嫌な気持ちはしなかった。すまなかった、と繰り返す父の気が済むまで、イングリットは抱きしめられた。
それから父は、イングリットに槍の稽古をつけてくれるようになった。稽古の間、お前には槍の方が似合うと、何度も口にしていた。
随分と後になって、それは家宝を扱えるようにするためだったのだと知った。
誕生日に一節以上遅れて、グレンから手紙が届いた。今年は積雪も多く、まだまだ直接会えるようになるまでには時間がかかりそうだ。
手紙には、誕生日を祝う言葉のほかに、フェリクスとのことが書いてあった。
イングリットとグレンの逢瀬を阻む雪の上で、二人は剣を交わしたらしい。グレンの圧勝だったと、手紙にはあった。
雪の上でぶつかる剣と剣は、美しく幻想的だったに違いない。イングリットは本を読んだ時のように空想した。
波のごとくしなやかに唸る剣。そこに立ち向かう勇敢な弟。最初はどうにか剣を交わし合うが、フェリクスは雪に足を取られ体制を崩す。兄は心配して手を差し伸べるが、弟はそんな兄の気持ちを理解できない。同じ土俵にすら立てない悔しさで枕を濡らし、一層鍛錬に打ち込むのだ。
考えて、少しだけフェリクスが羨ましくなった。イングリットだって、毎日グレンに会って同じ時を過ごしたい。
フェリクスは幼馴染に会えず寂しそうにしているらしい。グレンも、イングリットに会えず寂しいと思ってくれているのだろうか。
日に日に食事の量が減っている。
いつもなら木々から瑞々しい緑が覗き始める頃だというのに、雪はまだ高く積もっていた。フラルダリウスまで行くのは、もう少し先になりそうだ。
春の訪れが遅れるのに合わせて、父の食は細くなっていった。健康そうに丸まっていた頬の肉が消え、顎が尖っている。
兄弟も少し痩せたが、父ほどではない。父の食べるはずだった分が、兄弟やイングリットにわけられていた。
それでも、一日に食べられない日もあった。空腹を誤魔化すため、イングリットは読書ばかりして過ごした。稽古は続けていたが、その時間は短くした。そうでないと、お腹が空いて仕方がなかった。
雪が溶け始めた頃、赤子を抱えた夫婦が城を訪ねてきた。使用人は、困ったように眉根をしかめた。
「いかがされましたか」
「息子の熱が引かないのです。町医者も不在で。どうか診てはいただけないでしょうか」
よく見れば、赤子は真っ赤になってうなされている。年齢の割に手足もしゅっと細く痩せているようだった。
「主人に確認して参ります」
言うなり黒い燕尾服をまとった背中が歩き始めた。偶然居合わせたイングリットは、その後ろをついていった。
話を聞いた父は自ら腰を上げて夫婦のもとへ向かった。道中で、お抱え医師に声をかけた。
夫婦が赤子を見せている間、父は料理人に離乳食を作らせた。診察が終わり、頭を何度も下げながら帰ろうとする夫婦に、まだ熱のこもった食事を持たせて見送った。
その日、父の食事はいつも以上に少なかった。イングリットは、父にそっと自分の食事をわけた。父は穏やかに微笑んでそれを受け取った。
雪が溶け、ようやくファーガスに春が戻ってきた。
イングリットはグレンに手紙を書いた。返事が届く前から、フラルダリウス訪問の準備を進めた。
雪が溶けたというのに、食事は少ないままだった。父はもはや削げる肉もないくらいに細くなってしまった。
「わたし、おなかいっぱい」
「ぼく、きょうはごはんいいや」
兄弟で、代わる代わる嘘をついて父に食事を渡そうとした。
しかし、頑なに拒まれた。かつて赤子の来た日は、受け取ってくれたのに。
もしかしたら、父は本当にお腹が空かなくなったのかもしれない。
イングリットの心に不安ばかりが募った。
久々に会ったグレンは、見違えるほど背が高くなっていた。そして、少し痩せていた。
「イングリット、お前ちゃんと食べてるか?」
グレンは姿を見るなり両頬を手のひらで挟んで聞いてきた。
「食べているわ」
「量が少ないだろう。家から支援できないか、かけあってみるよ」
「……ありがとう」
その日は一緒に稽古はせず、会えなかった分までたくさん話をした。フェリクスの姿はどこにもなかった。雪が解けるとすぐにシルヴァンのところへ向かったらしい。イングリットがグレンに会いたかったように、フェリクスもシルヴァンが恋しかったのだろうか。
久々に見たグレンの剣は、手足が伸びた分迫力が増していた。フラルダリウスに向かう途中の穏やかな海より、かつて別荘で眺めたものに近い、荒々しさがあった。
翌晩の食事は、いつもより少しだけ量が多かった。久々に食べたお肉は、思わず涙がこぼれる美味しさだった。父もいつもより多く食べている。イングリットは密かに安堵した。
不作も落ち着き、父の尖った顎が元の丸みを取り戻した。
何度目だろうか。シルヴァンが公爵家の令嬢に迷惑をかけたらしい。
飢饉で苦しんでいた頃まではそうでもなかったのに、イングリットが十歳を超えた頃から、シルヴァンの女癖が悪化した (正確には、まだ子供だからという免罪符が消え、問題が表面化するようになった)。
おかげで、イングリットは愛馬に跨って問題児の面倒を見に行くのに忙しかった。グレンとの時間が減った分、シルヴァンやフェリクスと過ごす日が増えていたこともある。
シルヴァンの女癖が悪化したのは、丁度、グレンが王子のディミトリと時間を共にすることが増えてきた頃だった。
フェリクスの時は気にならなかったのに、グレンとディミトリの間に入ることはできなかった。イングリットは、王子を幼馴染としてだけでなく、仕えるべき主君として尊敬している。だから、どうにも気後れしてしまった。
グレンは、来年士官学校に入り、あと二年で本物の騎士になる。フラルダリウスの嫡男は、代々王族の側近になることが決まっているらしい。
その話を聞いた時、イングリットは『キーフォンの剣』を思いだした。
キーフォンがグレンの祖先であると知ったのは、空腹で苦しかった日のことだった。フラルダリウスの公爵が王の側近であることはずっと前から理解していた。けれども、獅子王ルーグとその盟友キーフォンから続く関係だとは知らなかったのだ。
物語の中で信頼を寄せ合う二人を知っていれば、グレンとディミトリの関係も当然のものとして目に映った。獅子王に仕えるキーフォンの姿のように、未来のグレンもディミトリの側でその剣となるのだろう。
平和な治世では、他国の侵略でもない限り剣も抜かれないだろうけれど。そうであって欲しいと願った。
グレンが士官学校を卒業してすぐの、まだ新芽が瑞々しい季節。グレンと二人きりでフラルダリウスの別荘を訪ねた。
イングリットは、かつて夢を打ち明けた砂浜に、グレンと二人きりで立った。
「ねえグレン。七年前のこと、覚えてる?」
「ああ。ここに来た時のことか」
イングリットは静かに頷いた。グレンの瞳が真っ直ぐに向けられている。
「覚えてるよ。唐突に質問してきたよな。グレンにとっての海はどんなところってさ」
「もしかして、あの時からグレンは気づいていたの。私が騎士になりたがっていること」
「さあ、なんのことだか」
グレンは、わざとらしく手を広げてとぼけた。
「……ありがとう、グレン」
つま先立ちになって、触れるだけの口づけをした。グレンの唇は少し冷たかった。海の底に沈んでしまいそうな恐ろしさが、途端に心から湧き上がった。
騎士になるということは、命のやりとりをすることでもある。イングリットには、グレンを信じることしかできない。
「グレン、死なないでね」
「急にどうしたんだ」
グレンの頬は唇の温度にあわずうっすらと赤く染まっていた。夕焼けが始まったばかりの、水平線の色だ。
「騎士になったら、戦場に出る機会も増えるでしょう」
「ああ。まあ、気をつけるよ。でも、死んじまっても恨むなよ」
「約束してくれなきゃ、嫌よ」
呑気に笑ってみせる姿を、きりきりとした目で見た。
「そんな睨むなって。大丈夫だ。おまえを置いてどこかに行くなんて、できないからさ」
波の音がする。きっと大丈夫だ。大きな体に抱きついて瞳を閉じると、瞼の裏にもグレンがいた。
別荘からフラルダリウスに戻って間も無く、グレンは王都へと旅立った。騎士としての忠誠を誓いにいくのだという。グレンを見送ってから、イングリットは帰路についた。
最後に見たグレンの背中は、大きくて堂々としていた。これから、グレンはたくさん活躍するに違いない。
グレンは、強くて、カッコよくて、イングリットの憧れの騎士になった。
そんな喜びも、束の間のことだった。
グレンの死は、あまりにも唐突だった。時を同じくして、王も、面識があったフラルダリウスの騎士も死んだ。
騎士の命は、砂上の楼閣なのかもしれない。誇りと人々の羨望を手に、自らを生贄にする職業。憧れが消えたわけではなかった。むしろ、死んでなお讃えられる騎士の生き様は、悔しいほど憧れた姿そのものだった。
グレンは、ディミトリを守って命を絶ったらしい。波のように唸る剣技は、グレンを守ってくれなかった。
葬儀の場で、ロドリグは目を充血させながら息子をほめた。騎士物語でもよく見る名誉ある死。そういってしまえば、たしかにその通りだった。
でも、グレンは生きていた。確かにこの世にいたのだ。イングリットの目が、腕が、唇が、グレンを覚えている。どうして、死ななければいけなかったのだろう。
やりきれない想いに俯いていると、ディミトリに声をかけられた。青い瞳に涙を溜めながら、「すまなかった」とただ一言だけ告げられた。
おかげで、イングリットは泣けなかった。ディミトリの優しさを知っていた。グレンとの絆の強さも知っていた。ましてや、ディミトリはグレンと、親と、他の信頼を築いてきた家臣までもを失ったのだ。イングリットの何倍も、目の前の王子は傷ついているに違いなかった。
葬儀が終わり家に帰ると、イングリットはそのまま床に崩れた。何もかもが自分から剥がれ落ちていく感覚がして、落ちたものを無くさないよう、部屋に閉じこもった。あんなに苦しかった空腹の記憶も失われて、何日も食事をとらなかった。そうしていると、涙がでた。一度涙がこぼれると次から次へと溢れて、悲しみで濡れたスカートは暗く染めあがった。
「グレンの、嘘つき……」
力まかせに床を叩いた。
もう、今が何日なのかもわからなくなるほど、ずっとこもっていた。一度涙が出てからは、泣いてばかりいた。イングリットの海はもうないのに。そうだ、海をしばらくみていない。グレンがいなければフラルダリウスの途中でみかける海もどんどんと遠くなる。
グレンが恋しくなるほど、海を見たくなった。
——全てを、許してくれる場所かな。
幼いイングリットを救った言葉が頭に響く。イングリットは大粒の涙をこぼしながら笑った。
「ずるい人……」
その時、扉越しに声をかけられた。
「イングリット。兄上からの預かり物を届けに来た」
イングリット、と呼ぶ声がグレンにそっくりで、心臓がどきりと跳ねた。
イングリットは、扉の隙間から手紙を受け取った。薄茶色のさっぱりとした封筒に、グレンの角張った字で「イングリット」と書いてある。それだけで、温かな感情と救いようのない気持ちが押し合うように蠢いた。イングリットは少し躊躇ってから手紙を開けた。
お前がこれを読んでいるってことは、俺は死んだのか。身内への手紙なんて何を書いたらいいんだろうな。最期くらい、気恥ずかしくて普段伝えられなかったことを書くことにする。
お前の世話焼きなところが好きだよ。イングリットが笑うと、どんなに辛い時でもそこに春の花畑が見えた。飢饉を乗り越えてから、好物の前で一際輝くようになった瞳も大好きだ。一日もかかさず毛並みを整えてると豪語していた馬は元気か。俺が一時期アイツに嫉妬していたって伝えたら、お前はどんな顔するんだろうな。
俺は、お前と許嫁でいられて幸せだったよ。日に日に美人に成長する姿を最期まで終えないのが、心残りだ。
それから、騎士も悪いことばかりじゃない。お前がどう思うかわからないが、俺の死を理由に憧れを捨てないでくれ。イングリットの夢を大切にしてほしい。
ああ、そうだ。大事なことを書かないと。嘘ついてごめんな。前に置いていかないって言ったのに、無理だったみたいだ。俺のことを忘れてもいい。恨んでもいい。だから、幸せになれよ。
俺のかわいいイングリット。ずっと、愛している。
途中からは滲んだ文字を必死になって追いかけた。そこにあるのは、どうしようもなくグレンの言葉だった。強くて優しくて、時々冗談を言うグレン。照れ屋で素直じゃないけれど、必要な時にはまっすぐな言葉をくれた愛しの人。
「……グレン」
体中で愛しの人を思い出した。ふわりと頭をなでる大きな手の感触。イングリットの食べる姿を見て微笑む顔。温かな手と冷たい唇。低すぎないキッチリした声。香るかどうかの淡くさっぱりとした匂い。剣を振るときのしなやかな肢体。
ひとつ思い出すたびに、胸が苦しくなった。手紙を抱きしめて、震える手で封筒に戻した。
イングリットは立ち上がった。
グレンは世話焼きなところを好きだと言ってくれた。問題ばかり起こす幼馴染を放って閉じこもる姿を、グレンはきっと喜ばない。
馬の世話だってしなければ。毛並みの美しさは、取り戻すのに時間がかかる。
扉は、鉛のように重かった。柔らかな日差しが部屋に差し込む。
扉の先には、まだフェリクスがいた。
「イングリット、おまえ……」
「心配、かけたわね」
「……ああ」
そのまま背中を向けて去ろうとする姿に、イングリットは呼びかけた。
「フェリクス、今度、海まで付き合ってもらえないかしら」
フェリクスは、振り返らずに頷いた。
穏やかな波は、悔しくなるほど最後に見た時と変わらなかった。グレンがいなくなっても、世界は壊れることなく回っている。
まだ、グレンが生きていた時、二人きりで眺めた景色。グレンのいた場所には、その弟がいる。
「変わらないのね」
ざーざーと波の音が響いた。グレンに夢を打ち明けた時と同じ音だった。死なないでと伝えた時にも、この音がしていた。
体が震えた。苦しかった。今にも崩れそうなイングリットの手を、フェリクスは控えめに握った。記憶の中のグレンと同じ温度だった。
「場所なら、貸してやる」
フェリクスは手を掴んだままイングリットと向き合った。吸い込まれるように、フェリクスの胸に顔を埋めた。フェリクスも少し震えていた。
嗚咽をこぼして泣くイングリットの背中を、フェリクスは重すぎず軽すぎない手つきで撫でてくれた。グレンが頭を撫でる時にそっくりの触り方だった。
ざーざー。ざーざー。
波が、何度も寄せては引いてを繰り返した。
しばらく、二人はそうしていた。ようやく落ち着いて離れると、フェリクスの目も薄く充血していた。
「目が、赤いわよ」
「夕日で、そうみえるだけだ」
「そういうことにしといてあげる」
白波が、赤く色づいている。それは、グレンの瞳の色だった。