旅立ち前の夢
1.
秋の冷たい風が、城の中にいてもごうごうと聞こえる日だった。ディアドラはセリスを抱えて、すっかり馴染んだメロディを口ずさんでいる。まろやかな日差しは、ディアドラのふわふわとした紫銀のくせっ毛を聖母のように照らし、もの寂しい午後に温もりを加えていた。
シャナンが手持ち無沙汰に外を見ると、シアルフィの公国旗を掲げた兵が、ちょうど馬を降りて城門をくぐっていた。
「ディアドラ、伝令が来たみたい」
きっとシグルドからの手紙だ。急いで教えてあげると、ディアドラはセリスを赤ちゃん用の柵付きベッドの上に優しく置いて部屋を出た。
ずっと聞こえていた音楽がなくなった部屋は、どうにも寂しくて仕方がない。
「セリスもはやく喋れるようになったらいいのに」
ぼやく声への返事はない。セリスは母から離れてもぐずつかずに、よく眠っていた。規則正しい寝息をたてるたび、小さな体がふくらんだり、しぼんだりしている。
次第に心温まる気持ちになりながら、シャナンはディアドラが口ずさんでいたメロディの続きを歌ってみた。
数分と経たずに戻ってきたディアドラは、嬉しそうに顔をほころばせていた。それから、セリスに気遣うような小声で、聞いたばかりの内容をシャナンにも教えてくれた。
「シグルド様がマディノ城を落とされたそうよ」
「よかったね、ディアドラ」
シャナンも、小さな声を弾ませて喜んだ。
戦いが落ち着いている間は、残された唯一の家族であるアイラや、仲間たちの心配をしなくてすむ。しばらくの間は、離れている皆も穏やかな時間を過ごせるはずだ。
シャナンは、ディアドラも同じ理由で喜んでいるのだろうと思った。けれど、その予想はわずかに違っていた。
落ち着いたとはいえ、外では残党による小競り合いがある。それにもかかわらず、ディアドラは着ている服を整えながら、無邪気にはしゃいだ。
「わたし、一度シグルド様にお会いしてくる」
アイラの帰還を言われたとおりに待つシャナンと違い、ディアドラはただ待ち続けることが我慢ならなかったらしい。決意を言葉にしたあとは、部屋の中を熱心に動き回り、身支度を進めていった。
シャナンは、心配になりながら動き回る姿を眺めた。
戦争に出る前、軽快に笑って肩を叩いてくれたシグルドの言葉を思い出す。
「そうだ。シャナン、お前に頼もう。私がいない間、ディアドラとセリスを守ってくれ」
皆に守られてばかりで戦う力がないことに、シャナンは歯痒さを覚えていた。シグルドはそんなシャナンに役割をくれた。
シャナンは、恩に報いることを信条とするイザークの剣士の端くれとして、二人を預かると誓った。
一度誓った約束を、破るわけにはいかない。
「ディアドラ、だめだよ。外はまだ危ないよ。それに、セリスのことはどうするの」
「だからね、セリスのことをあなたにお願いしたいの」
シャナンは引き止めるように服の袖を掴んだが、ディアドラはシグルドの元へ行きたいのだと言って聞かなかった。
「お願い、すぐに戻るから。ね、シャナン、お願いだから」
ディアドラの揺らがない瞳にシャナンは折れた。置いていかれる寂しさをよく知っていた。未熟な剣士であるシャナンと違い、ディアドラは魔法を上手に使いこなすことだってできる。無事にシグルドの元へ辿り着くための力が備わっていた。
「わかったよ、行ってきなよ」
シャナンは、仕方ないなと唇を尖らせた。その言葉に、ディアドラは淑やかに微笑んだ。
「ありがとう、シャナン」
それから、ディアドラは蝶が花にとまるように、小さなベッドで眠るセリスの頬にくちづけた。
「セリスごめんね、すぐに戻るからね」
いそいそと去る背中を、シャナンは日常の中の一幕として、深く考えずに見送った。
だが、その姿を最後にディアドラは二度と戻ってこなかった。
2.
ディアドラが消えた日から十七年。シャナンはあれから何度も何度も、同じ夢を見た。シグルドのところへ行くと言って出かけたディアドラが、二度と戻ってこない夢だ。
夢を見るたびに、シグルドの苦しげに唇を噛む顔が鮮明に思い出された。ディアドラがいなくなってしまったと、泣きじゃくりながら謝ったシャナンのことを気遣いながらも、隠しきれていなかった苦悶の表情。
後になって、親友を失ったばかりの恩人にシャナンが追い打ちをかけてしまったのだと知った時、どんな顔をすればいいのか、わからなくなった。あの時ディアドラを止められていれば、と後悔がいつまでも頭から離れなかった。
そしてシャナンは、今でも当時の気持ちを忘れられずにいる。忘れるどころか、夢にうなされるたびに後悔は少しずつ深まっていった。
「だめだよ、まって、行かないでディアドラ」
秋のもの寂しい午後の夢。離れていくディアドラの背に、必死に懇願するようにシャナンは叫んだ。夢であるとわかっていても、待ち受ける未来を知っている以上、引き留めずにはいられなかった。
しかし、何度声をかけてもディアドラの背は離れていった。シャナンの言葉は届かず、最後には去りゆく姿が霞んで見えなくなる。
せめて、夢の中でくらいは願いを叶えて欲しかった。ディアドラが家族と幸せに暮らす姿を見たかった。シグルドが戦争から戻ると、ディアドラとセリスが共に出迎える。そんな光景を、一度でいいから見たかった。
シャナンは、ディアドラが消えた道を名残惜しく見つめた。手前から奥へと、なぞるように視線を移動する。特徴のない一本道がどこまでも続いている。夢の中だからか、道の周りの景色は昼から朝になったり、城内から屋外へ出たりと、とりとめもなく移り変わった。
もう、何度引き止めることに失敗したかわからない。
塞ぎ込みそうになっていると、ディアドラが去った方角に、彼女とよく似た姿が立っていた。儚げな紫銀の髪をまっすぐにおろした、まだ若い娘だ。おそらく、ラクチェよりも僅かに歳下。ラナと同い年くらいだろう。十六か十七の、少女が一気に大人びる歳頃に見えた。
「シャナン様、私も母についていきます」
娘の姿に覚えはなかったが、なぜかシャナンの名前を知っているようだった。これも夢だからだろうか。
「母? どういうことだ」
娘は質問に答えず、ディアドラの消えた道を躊躇いなく進もうとした。遠のいていく後ろ姿を止めようと腕を伸ばす。
「待て、行くな」
しかし、伸ばした腕は届かない。娘は水面に浮かんだ泡のように、やがて跡形もなく消えてしまった。
しんと場が静まり返り、冷たい空気が押し寄せてくる。
見えていた道は消えてしまい、一面の暗闇になった。
「シャナン、私を守ってくれるんじゃなかったの。シグルド様と約束したでしょう」
「シャナン様、どうして教えてくださらなかったのですか」
ディアドラと、出会ったばかりの娘の苦しげな声が聞こえる。声は延々とシャナンを責めた。
シャナンはその場にうずくまり、耳を塞いで叱責をやり過ごそうとした。顔をあげることもできず、逃れられない後悔に犯される。逃げ場はどこにもなかった。
穏やかな季節に似合わず、寝汗がひどかった。外はまだ暗い。頭の後ろが蒸れている。拳を作ると、手のひらの感触が湿っぽいことに気づいた。
シャナンは汗ばんだ手を見つめながら、夢で出会った娘の姿を思い出そうとした。ディアドラを母と呼ぶ娘が夢に現れたのは、おそらく初めてのことだった。
今の暮らしに凶兆が迫っているということなのだろうか。あるいは、近々予定している旅への警鐘かもしれない。
考えているうちから、夢の記憶は遠い景色のように霞み、消えていく。
最後には、繰り返し見た光景と、嫌な予感だけが残った。
夕方。晴れない気持ちのまま、ティルナノグの隠れ家の近くにある小丘に立った。そこから、イード砂漠の方角をしみじみと眺めてみる。
イード砂漠には、十年以上の時をかけて探し求めていたものがある。イザーク王国の国旗にも描かれるほど重要な剣、神剣バルムンクだ。祖父の死と共に行方不明になっていた剣を取り戻すため、シャナンは数日のうちにイード砂漠へ旅立つと決めていた。
小丘からの景色では、険しい山脈に阻まれて砂漠を見ることはできなかった。代わりに山の麓はよく見えた。
荒々しい岩山の手前にある草原に、立派な角を持つ山羊が一頭、凛々しく立っている。じっと目を凝らしていると、山羊は岩山の方へ駆けていった。
あの山羊は山を越えて砂漠へ行けるのだろうか。考えながら、小さくなっていく姿を目で追っていく。
山羊の姿が見えなくなるかどうか、という時、近づいてくる足音に気づいた。力強さのある音だった。
誰だ、と思い振り返った先にはスカサハの姿があった。静かにため息をつく。
「おまえか。こんな場所で会うとは、奇遇だな」
「すみません。王子にお願いしたいことがあり、追いかけてしまいました」
スカサハの声は緊張しているのか固く、シャナンも思わず姿勢を改めた。話してみろ、と続きを促す。スカサハは唇をひきむすんで頷いた。
いつにも増して真剣な顔がシャナンを見据える。山の方から吹き下ろしてくる乾いた風が、二人の間を通り抜けた。
「シャナン王子、俺を旅に連れて行ってください」
スカサハの申し出は、正直すこし意外だった。妹のラクチェからならば想定していたが、スカサハが自ら旅の供をしたがることは想定外だった。
どのみち聞けない頼みではあるが、まずは覚悟を問おうと、まっすぐ向けられている目を見つめ返す。
シャナンにとって、スカサハはいまだに庇護すべき対象だった。既に元服を終えていることは理解していても、生まれた時から見守ってきた期間をなかったことにはできない。
もしも生半可な気持ちで危険へ飛び込もうとしているのならば、それを止めることが、子供を預かった者として果たすべき責任だ。
唇を引きむすんで淀みなく見つめ返してくる顔にあるのは、覚悟の定まった眼差しだった。白と黒の境界が柔らかい穏やかな目に、確かな芯がある。
シャナンの視線に動じることなく、スカサハは続けた。
「一人旅で御身に何かあれば、みんなが心配します。シャナン王子はイザーク王国にとって必要なお方です」
言い分まで尤もだった。
イザーク王国の正当な後継者——神剣バルムンクの力を引き出せる聖戦士オード直系の子孫——は、今や世界にシャナンしか残されていない。シャナンは、祖父や父、叔母、イザーク王国を愛するあらゆる存在から国の未来を託され、生かされてきた。そして、傍系ながらオードの血を引くスカサハがシャナンの身を案じることは、国の未来を憂う立場としても当然だった。
スカサハは熟慮の末にここへ来たのだろう。覚悟は理解した。
理解したところで、望みは叶えてやれない。
シャナンには、先祖たちから託されてきた感情に一時だけ目を瞑ってでも、果たすべき使命があった。恩人シグルドとディアドラの子であるセリスを守ることだ。
国を離れることへの気がかりは、自身の安全よりもむしろ、残していく子供達——既に元服を終えているため世間的には大人の一員である——にあった。
シャナンが旅に出れば、セリスを守る存在がいなくなってしまう。厳密には共に子供達を見守り育ててきたオイフェがいるが、彼は帝国の動向を偵察するために城をあけることも少なくない。
できることなら、普段から城にいるスカサハやラクチェに、セリスを託して出発したいと願っていた。同時に、託して良いものか悩んでいた。
言葉の力は重い。シャナンが十七年経っても過去の夢にうなされているように、スカサハに消えない後悔を抱えさせることになるかもしれなかった。シャナンは、それが怖かった。
だが、今のスカサハには危険を冒す覚悟がある。シャナンのことを考えて供を願い出てくれたスカサハならば、もしもの備えを託しても許されるかもしれない。
「スカサハ、剣を振ってみろ」
突然の言葉にスカサハは首を傾げた。それから、浅く一回だけ頷いた。
(私の選択はスカサハを傷つけるかもしれない)
スカサハは優しい子だ。
イザークの民らしい勇敢さを持ちながらも、向こう見ずな妹や家族を守ろうと磨かれた、周囲をよく見る思慮深さがある。
スカサハはてつの大剣を背中の鞘から抜いて振ってみせた。低く重い風切り音が剣の力強さを伝えてくる。まだ若さゆえの荒さや未熟さは残るが、訓練の段階としては申し分のない域まで辿り着いている剣だ。
その剣がシャナンを決断させた。
スカサハには他者を守護するための力が備わっている。おそらく無いだろうと信じたいが、一朝有事の際も正しくセリスや皆を守り抜いてくれるだろう。
「やはり、おまえを連れていくことはできない」
「俺では力不足ですか」
スカサハは悲観する様子もなく、ただ事実を確認するだけの平たい声で質問してきた。
実力を認めながら、エゴで願いを聞き届けない罪悪感が胸を焼く。
返事の仕方を迷っている間に、スカサハはまだ人を斬ったことのない手で握っていた剣を、背中に戻した。
日暮れ近くの冷たい風が唸るような音を立てて吹き抜ける。最近はだいぶ気温も高くなり一年の中でも過ごしやすい季節となってきた。けれども遅い時間はまだ冷える。スカサハが寒そうに剥き出しの腕をさすった。
「そうではない。おまえには、ここでセリスを守ってほしいのだ。ラクチェと他の皆のことも。おまえになら、安心して任せられる」
頭半個ほど高い位置にあるスカサハの顔をしっかりと見た。視線の先にある表情は、真剣に口を引き結んだまま、ほとんど変わらなかった。
「少し、考えさせてください」
シャナンは頷いた。身体を翻して帰路につく。スカサハも半歩後ろをついてきた。並び歩いても文句を言う人は誰もいないが、いつからか、スカサハは隣を歩いてくれなくなった。
数分、無言が続いた。自然の音と、二人分の足音だけが聞こえてくる。
帰路を半分ほど進んだところでスカサハの足音が止まった。何事かと振り向く前に、迷いのない声が返ってきた。
「先ほどの話ですが、そうすることでシャナン王子が安心して旅立てるのなら、喜んでお受けします」
控えめながら決意を感じる声に、ほっと胸を撫でおろす。ため息をつきかけて、断られることを恐れていたのだと気づいた。そんな自分自身に呆れてしまう。
「頼んだぞ」
シャナンは振り返らなかった。スカサハの足音が遠ざからないことを確認しながら前へ進む。
吹く風の冷たさに、紺色の袖ごと腕をさすった。