アグストリア王家に仕えるノディオンの一人息子エルトシャンは、生まれながらにして生粋の騎士だった。
聖戦士の血が王としての素質を兼ねるユグドラル大陸では、代々その直系の証をもつ子孫が国を治める傾向にある。大陸の中心に位置するグランベル王国にいたっては、国を構成する七公国の長すべてが聖戦士の直系という徹底ぶりだ。
だが、聖戦士の血が残された国のうち、アグストリア諸侯連合だけは例外だった。アグストリアでは、諸侯連合を束ねる王家ではなく、その中の一国であるノディオンに聖戦士へズル直系の血が受け継がれている。エルトシャンの祖父の時代、ノディオン王家に嫁いだ末の姫に直系の聖痕が現れて以来、アグストリア王家の子孫に聖痕が出ることはなくなった。直系の血筋を失ったアグストリア王家は、王家への絶対的な忠誠を条件に、聖戦士のみが扱える国宝、魔剣ミストルティンをノディオンに譲り渡した。
「君のお祖父様の願いに応えるためにも、騎士として何があっても王家をお守りせねばならない。わかっているね、エルトシャン」
父の口癖だった。父が語るノディオン王家の在り方を、エルトシャンは幼少の頃から好ましく感じていた。成長するにつれて、その理由がわかるようになった。
エルトシャンは、何よりも民を考え、互いを尊重しあった両家の関係に誇りを感じていた。もしも、どちらか一方でも民を無碍にする野心があれば、取り決めは交わされずに無用の血が流れていたはずだ。
諸国を束ねる王家として、責務を果たしノディオンを重用し続けるアグストリア王家と、直系の血を引きながらも祖先の思いを汲み、一途にアグストリア王へ忠誠を誓うノディオンの在り方は、エルトシャンの誇りだった。
父が急死し、若くして王に即位することが決まった時、エルトシャンは初めて親友に父との思い出を話した。そして、父がよく語って聞かせてくれたアグストリアとノディオンの昔話を彼に伝えた。
エルトシャンの話を最後まで聞いた親友は、信頼できるまっすぐな瞳を向けて言った。
「さすがきみの愛する騎士の国だね。繋がれた想いを守り、主への揺るがない忠誠を持つきみを尊敬するよ。エルトは、良き王になる」
夕暮れ時の薄暗く静かなバーハラ士官学校の寄宿舎で、シグルドは父を失ったエルトシャンを慰めるでもなく、憐れむでもなく、尊敬してみせた。
話は変わるが、エルトシャンは母国ではなく隣国グランベルの士官学校に通っていた。
百余年の年月で平和に慣れた士官学校には、アグストリア以外の国からも多数の留学生が来ていた。レンスターの王子、ヴェルダンの有力者。
留学生の多さゆえか、士官学校の教えでは、国同士の対立は全くと言っていいほど想定されていなかった。
「グランベルはのんびりとした国だな」
在学中、レンスターの王子キュアンは何度か同じ感想をこぼしていた。
圧倒的な国力で周辺諸国と不戦協定を結んでいるグランベルや、騎士の国と謳われるが戦争と縁のないアグストリアと異なり、レンスターは隣国との対立による緊張に常々さらされている国だった。ハイエナと悪名高いトラキアが、レンスターの潤沢な資源を求めてその国土を常々狙っているのは有名な話だった。
「のんびりするのも仕方ないさ。実際、グランベルは内紛にでもならない限り、戦いの危険からは縁遠いだろう。国力が圧倒的だからな」
「だよなあ。外敵の脅威は、隙を見せなければ案外凌げるものだ。攻めは守りよりも体力を使う。……それよりも、私はエルトの国が心配だ」
キュアンは、手元のフォークでミルフィーユを突き刺した。
皿に残ったミルフィーユは、一部を食べられたことでその均衡を崩し、横倒れになっている。
「アグストリアが?」
「私の国は隣国がアレだから用心しているし、グランベルは王都バーハラが束ねることで各公国の均衡が取れているだろう。歪なのはアグストリアだけだ」
不躾な物言いにエルトシャンが怒りをあらわにする前に、シグルドが驚きをみせた。
「まさか、アグストリアとノディオンのことを言っているのかい? エルトほどの忠義を持つ男が野心を抱くはずがないだろう!」
「私もエルトを疑うわけではない。だが、アグストリア王が野心を起こせばどうなる? たちどころに均衡が崩れてしまう」
「キュアン、俺の国と主を侮辱する気か?」
「そんなつもりはないが、アグストリアの王子が心配でな。私が耳にするアグストリアの噂話は、ノディオン家とイムカ王のものばかりだ」
要するに友人は、シャガール王子とエルトシャンの関係を心配してくれているのだろう。王家を蔑ろにした言い方は気に食わないが、その心が伝わらないほど愚かでもない。
「安心しろ。シャガール王子は武にも魔導にも優れた優秀なお方だ。今に頭角を現すさ」
それから、少し悩んでエルトシャンは言い足した。
「……それに、もしも国王が道を誤ったのなら、その時は俺がお諌めするだけだ」
若かりし日の、己の言葉が棘となって胸に刺さる。かつてのキュアンの心配は正しかった。イムカ王が何者かの手にかかり、シャガール王子が王となったその日から、アグストリアに戦争の影が見え隠れするようになった。
諸侯が野心を抱いても頑なに他国への侵略を認めなかったアグストリア王家が、その役目を失ったためだ。
シャガール陛下がヴェルダンへの侵攻を命じたと聞いたとき、エルトシャンは妹の静止を押しのけて迷わず陛下を諌めに向かった。
だが、既にアグストリア王家とノディオンの関係は壊れてしまっていた。
「今まで、わしをコケにしてきた礼は、たっぷりとさせてもらう。誰か、こやつを地下牢にぶちこめ!」
地下牢で孤独に過ごす間、エルトシャンは怯えた陛下の顔を何度も思い出した。
(噂話はノディオン家とイムカ王のものばかりか……)
エルトシャンがシャガール陛下をコケにしたことなど、ただの一度もないはずだった。エルトシャンの中には常に、騎士として何があっても王家をお守りせねばならないという父の教えが存在していた。
長年、その教え通りアグストリア王家に尽くしてきた。友にも認められた忠誠を大事に抱え、ノディオンの跡取りとして恥じない己であり続けたはずだ。
だが、陛下はエルトシャンの進言に聞く耳をもたず、あろうことかアグストリアとノディオンの間にあった信頼すら壊してしまわれた。
「シャガール王は、ご自分のお父上すら手にかけたお方。そんな方に、何を言ってもムダです。それどころか、兄上の身すら危険です」
エルトシャンが陛下を諌めに行こうとした時、妹のラケシスが訴えた言葉が、すべてだった。陛下がイムカ王を手にかけたかはともかく、ラケシスの恐れた通りになってしまった。
肌寒さを感じる牢の中で、自分自身に問いかける。
(俺は愚者だろうか)
陛下に裏切られてなお、エルトシャンはアグストリア王家への忠義を捨てられない心に気づいていた。エルトシャンの忠誠は、シャガール王ではなく、アグストリアの王家に対して捧げていた。
(ならば、アグストリアのためにも、今は王家の正統な後継者であるシャガール陛下をお守りすることが俺の騎士道だ)
戦争が始まったのだろう。エルトシャンが投獄された直後から、城の中はどんどんと慌ただしさが増していた。
そうして二、三週間が経った頃、見張りの兵が嘆く声を聞いた。
「もう、アグストリアは終わりだ……」
よく見ると、見張りの兵はイムカ王からよく信頼され、玉座の間で王のそばに控えることすら許されていた騎士だった。通常であれば、囚人の見張りを任されるような立場ではないはずだが、シャガール王が追いやったに違いない。
「上では何が起こっている」
話しかけると、騎士は待っていたと言わんばかりにエルトシャンに近寄った。
「シアルフィの公子が、アグストリアの各地を制圧しております」
「どういうことだ? 俺にはシグルドがそんなことをするとは思えない」
「噂によると、シグルド様はラケシス姫を救うために進軍されたとか……」
「まさか、陛下は俺を投獄しただけでなく、ノディオンへの進軍までお認めになられたというのか……」
「認めるどころじゃありません。陛下のご命令です」
「それで、妹はどうなった」
一瞬、エルトシャンの騎士道が揺らぎかけた。
「ご無事でございます。間もなく、シグルド様と共にこの城にも参られるかと」
だが、揺らぎかけた騎士道は、妹の無事と共に元の鞘におさまった。
「つまり、このままでは陛下の命が危ないというわけだな。すまないが、陛下に言伝を頼みたい。牢から解放さえしてくだされば、私の騎士道に誓ってお助けすると」
「エルトシャン様……」
その決断が、己の人生を終わりへと向かわせる予感は当時からあった。
それでも、生まれながらに生粋の騎士であったエルトシャンは、己の騎士道を貫く生き方しか選べなかった。
そんな、ただの騎士としてしか生きられない男が、まさか人々に伝承される存在になるとは夢にも思わなかった。あるいは、実体のように思えるこの世界の存在が、夢なのかもしれない。
だが、エルトシャンは、アスク王国と呼ばれる不思議な地に、確かに立っている実感があった。
まだ状況を掴めずにいる時、紋章士と呼ばれる存在はエルトシャンに告げた。
「今、きみがここにいるのは、きみの人生が人々に語り継がれたからだ。きみの中にある幾つもの記憶全てが、きみの歩んだ道だということを忘れないでほしい」
その紋章士の言葉通り、アグストリアの地下牢を過ぎてからの記憶はいくつかの異なる道を辿っていた。
共通しているのは、アグストリア王都で再会した友シグルドの約束を信じた点と、それから一年と経たずに敵として対峙する未来だった。
エルトシャンは、友を殺し、殺された。妹の説得で再度陛下の元に舞い戻り、そのまま主君に殺されることもあった。
そして不思議なことに、それらの記憶全てが本物だった。
友の剣によって心臓を貫かれた苦しみも、騎士として主への忠を全うすべく説得に戻った先で、裏切り者と謗られ首を斬られた屈辱も、誰よりも心を許した友をこの手で貫いた痛みも、全てが昨日の出来事のように鮮明に思い出せる。
(俺の選んだ道は、こうも救いがなかったか)
エルトシャンが、己の騎士道を貫くと決意した時点で、彼の道は終わっていた。
そんな、救いのない選択しかできなかった愚かな男を、一体誰が伝えたのだろうか。友か、家族か、あるいは民か。
静かに思考に耽っていると、懐かしい友の声がした。
「ああ、エルトシャン。きみもやはり来たんだな」
友は、エルトシャンが知るよりも、随分と豪勢な衣装をまとっていた。心なしか、顔つきから若さも消えていた。
エルトシャンと同じく伝承された存在だと、その佇まいからすぐに察っした。
「やはり、とはどういうことだ、シグルド」
「アグストリアの民は、きみのことが好きだったから」
言葉の柔らかさとは対照的に、シグルドの笑顔には月の雨のような薄暗さがあった。
「ならば俺を伝えてくれたのはアグストリアの民か。俺の愚かな人生にも、少しは意味があったのかもしれないな」
「きみの人生に意味がなければ、私もここにはいないさ。私も結局は愚かだった。信じていた国に追われ、汚名を晴らすこともできずに死んでいったんだ」
「お前が国に追われる姿は想像ができない」
「私だって、まさか国に殺されるとは思っていなかった」
「だが、民がお前の人柄を信じ伝えた理由はわかる気がする」
「きみも同じだよ、エルトシャン」
信じた主君に見捨てられ、民に裏切られなかったことを言いたいのだろうか。汚名を被せられたシグルドと違い、エルトシャンは己の不器用さでその道を選んだというのに、お人好しなシグルドらしい発想だ。
「シグルド、もしも再びあの時に戻ったら、お前はどうする」
エルトシャンは、彼と剣を向け合った時間のことを思っていた。
だが、シグルドはそれよりも前のことだと思ったらしい。困ったように眉根を下げて彼は言いきった。
「ラケシスときみ、そして巻き込まれた民を助けるため、アグストリアへ進軍するよ」
エルトシャンのことを、慰めるでも憐れむでもない視線は、学生時代に彼が見せた尊敬とも異なる色を覗かせていた。
「ならば、俺もまたお前の敵になろう。愚かな選択だと知っても、俺は、俺の生き方を変えられない」
「ははは……。あんな経験は、もうしたくないな」
「……同感だ」
道の終わりを悟れども、愚者は己の信念を曲げられない。
「シグルド、それでもお前はアグストリアへ兵を向けるのか」
「あの時、アグストリアで泣いていた民を救えたのは私だけだからね。だけど、今度はもう少し強くアグストリアの解放を陛下に求めるよ。そうしたらきみと敵対しなくて済む」
「それは名案だな」
同じ愚者と友になれた喜びを心密かに感じながら、エルトシャンはシグルドの顔を見つめた。