エンゲージ

ポタージュ

 ボネの大切は失われてしまった。
 小さな頃から憧れていた生家の厨房。いつか使ってみたかった、店主だけが握れる包丁。何十年も使われ続けて角の欠けた砥石。
 大好きな親友との時間。
 別れはあまりに唐突だった。海賊の集団に町ごと襲われ、命からがら逃げ出した。斜向かいのアクセサリー屋の店主は、賊に斬られて片目を失明したという。ボネの家族は、全員怪我一つしなかった。
 
 移り住んだ先で、両親は再び店を開いた。全てがピカピカの調理道具に寂しそうな笑顔を浮かべながら。
 寂しそうな顔をしていたのは最初だけだった。やがて客足が増えると、ピカピカだった調理器具に少しずつ傷がついて、両親は笑顔ばかり見せるようになった。
 けれど、ボネだけは違った。新しい味には深みが足りない。
 まだピカピカだった器具に傷がつき、客先のテーブルに思い出の跡ができるまでは、寂しい顔でいたかった。
 
「ボネの料理が好きだよ」
 思い出したのは、純粋な顔で美味しそうに料理を食べる顔。ボネにとっては初めての「常連」である親友も、ここにはいない。
 ボネは親友フォガートになら、なんでも打ち明けられた。
 王宮料理に憧れていること。そのためにも、家を継ぐ前に宮廷料理人になりたいこと。
 それを両親には言えずにいること。
 フォガートは何度もボネの背中を押してくれた。
 夢があるなら目指しなよ、ソルムは自由を愛する国だ、だの。ボネの両親ならきっとわかってくれるよ、だの。少し言葉尻が伸びるおおらかな話し方で勇気づけてくれた。
 フォガートはあまり自分自身のことを語りたがらなかったが、それでも構わなかった。
 フォガートといるときの、寒い夜に外で飲むポタージュのような優しい味はボネだけの特別だ。
 それから、料理を口に含む瞬間、美味しそうに目を見開く姿も、頬いっぱいに食事を詰め込む癖も、読み込んだ後の余韻に浸る表情も、全て。
 
 フォガートに会いたい。
 ソルムの熱で溶けていくシャーベットのように、感情が全身に広がっていく。
 年月は流れたが、ボネの中でフォガートに会いたい気持ちが揺らぐことはなかった。
 一度味わった美味しさは忘れられない。何よりも、フォガートの言葉はボネが目指す道に常に寄り添っていた。
 両親はフォガートの言った通り、あっさりと宮廷料理人への夢を納得して応援してくれた。
 そして、フォガートに夢を打ち明けた日から五年。宮廷料理人の募集がかかる。
 
 
 苦い味だ。不調だったわけではない。完全な敗北だった。
 栄光をつかんだのは、ボネより十は歳上の料理人だ。
 かといって、諦めたわけでもない。また五年後。その次は十年後。料理を極めるためには長い辛抱が必要だと、ボネは知っている。
 仕方がなかったのだと言い訳したくなる気持ちを堪えた。徐々に馴染み始めた家の帰路につこうとした時。
「ボネ」
 少し語尾が伸びるおおらかな声で呼ばれた。声質自体は変わっていたが、間違えるはずがなかった。
「フォガート……」
 フォガートは、記憶の中よりもずっと立派な服を纏って着飾っていた。まるで、砂漠のオアシスで一息つく王子のような。
 斜め後ろには、太陽をたっぷりと浴びたオレンジに似た、艶のある髪の青年が控えている。
「ボネ、俺の専属料理人になってよ。俺も今日の大会で審査してたんだ。ボネの料理を食べてすぐにわかった。懐かしい味がしたから」
「フォガートの?」
「そう。ボネには言ったことなかったよね。俺、ソルム王国の第一王子なんだ」
 告げられたままの内容を受け入れている自分自身に、ボネは驚きを隠せなかった。
 もしかしたら、昔から予感めいたものがあったのかもしれない。人懐こいが身の上のわからない、年齢にしては妙に外食の多い少年は、港町で明らかに浮いていた。
 だからこそ、ボネとフォガートは親友になれたのだ。
「ボネ、どうかな」
 ねだるように問われて心が揺らいだ。
 けれど、話を受けるわけにはいかなかった。優勝を逃したボネが王族の抱える料理人になることは、料理に不誠実だ。
「フォガート。すまないが、それはできない」
「ボネのことだ。友人関係に甘んじることは、料理への冒涜だとか言うつもりなんでしょ」
 フォガートは時々見せる鋭い表情で見上げてきた。それから、やわらかく目を細めた。
「でもね、誰が何を言っても、俺にとっての優勝はボネだった。俺が世界一だと思う料理人を雇いたいと思うことって、そんなに変かな」
 これは、負けだと思った。
 フォガートがボネを抱えたいと言った理由が料理にあるのなら、料理人として、その気持ちを無視することはできない。
「……フォガートの言う通りだな。ありがとう、私の料理を愛してくれて」
「こちらこそ。またボネと共に過ごして、料理まで食べられるなんて嬉しいな」
 フォガートは真剣な顔を崩し、歯を見せて笑った。
 その笑顔のかつてと変わらない味は、ボネの心に染み渡った。

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