紋章の謎

とある猫の話

 マルス率いる解放軍に子猫が迷い込んできたのは、とある静かな朝だった。猫は脚を怪我していた。マルス王子に拾われた猫はマリーシアの治療を受けることになった。
 その日の昼、周囲が薄暗い雲に覆われた。最終的に雲は記録的な豪雨へ転じた。その雨を喜んだのは、カダインの乾きを知る者たちと、一部の変わり者だけだった。他の兵はため息をつきながら、上裸のまま替えの服を求めうろついたり、濡れた体のまま火を奪い合ったりしていた。

 そんな中ゴードンは、はたと子猫の存在を思い出した。
 彼は偶然にも、雨の時は野営地から離れた小丘にいた。その丘には雨風を凌げる古屋があった。全く濡れずにいる彼の姿は、軍から妙に浮いていた。
 それ以上に人目を奪っていたのは彼の隣にいる男だった。ゴードンが猫を思い出したのも、隣の男が、慌てふためく皆を横目に立ち寝を始めたからだ。
「ナバールさん、子猫のところへ行きませんか?」
 珍しい取り合わせには訳がある。
 
 
 元々、ゴードンが小丘へ向かったのはジョルジュに誘われたからだった。ジョルジュは、アストリアの世話をすると言っていた。ものぐさな師匠は意外と面倒見がいい。本人に伝えれば嫌がられるのだろうと思いつつ、ゴードンは師の誘いを快く受け入れた。

 小丘に着くと、なぜかオグマとナバールが喧嘩していた。暗黒戦争でタリスを離れたときから長らくオグマの世話になってきたが、彼がここまで感情を荒げる相手をゴードンは他に知らない。
「ジョルジュさん、どうしますか?」
 出直すかどうか訊ねると、ジョルジュは少し待っていろ、と言ってアストリアと共に二人のそばへ近づいていった。不思議なことに、ジョルジュが話しかけた途端、二人の喧嘩はぴたりと止んだ。正確にはオグマが荒々しい態度を改めた。
「ゴードンもいるのか」
 だいぶ離れた場所で待っていたはずだが、さすがの洞察力だ。皆のいる場所へ小走りで近づく。
 和に混ざると、オグマは頬の傷をかきながら挨拶をくれた。いつもの物腰柔らかな、部下達に慕われる姿だ。
 一方、ナバールは無言で輪から離れていた。ゴードンが混ざった時には、すでに遠ざかる後ろ姿があった。
 周囲は、離れていくナバールを無視して歓談に興じていた。
「オグマ、ずいぶんと荒れていたな」
「いや、まあ……情けないところを見せた」
「人間らしくていいと思うが。お前はいつも腹の奥が読めないからな」
「……その言い方は家の悪い癖か?」
「悪かった。これ以上は言いっこなしだ。それに、今日はただの付き添いだ」
 ジョルジュがオグマと軽口を叩く間も、ゴードンはどこか既視感を覚えながら、小さくなるナバールの背を見ていた。
 そのうちに緊張でいつも以上に大きな声をしたアストリアがオグマに手合わせを求めた。小丘では傾斜が不都合だろうと、三人は野営地に近い平地へ向かおうとしていた。
「ゴードン、行くぞ」
 けれど、ゴードンには気掛かりがあった。
「あの、オグマさん」
「なんだ」
「喧嘩の原因って、ナバールさんの怪我ですか?」
 オグマは一瞬苦い顔をした。
「さすが弓兵だな。よく見ている」
「ジョルジュさんのご指導のたまものです。……あの、ぼくは別行動でもいいですか?」
 普段のゴードンであれば、ジョルジュに付いていったかもしれない。だが、その日のゴードンは妙にナバールの姿が気になっていた。
「ゴードンからなら、奴も受け取るかもな」
 ジョルジュが言うと、オグマは渋い顔をしながらゴードンに傷薬を託した。
「渡してくれるか?」
「はい、喜んで」
 
 ナバールが去った方角をしばらく進むと、古屋が一棟ぽつりと建っていた。すでに暮らす人もいないらしい。庭らしき場所には、枯れた葦らしき植物の残骸が残るばかりだった。
「ナバールさん、どこですか」
 大きな声で呼びかけたが返事はない。さらに遠くへ行ってしまったのだろうか。どこまで探そうかと周囲を見渡すと、雨がぽつり、ぽつりと降り落ちてきた。
 仕方ないか、と軋む扉をあけた時、一人の男を見つけた。
 特徴的な黒い長髪、赤い服。探していたナバールだ
「お、お邪魔しました」
 思わぬ場所での遭遇に、ゴードンは目的も忘れて立ち去ろうとした。
 意外にも、ナバールはそんな彼に気遣いを見せた。
「オレの家ではない」
 言い方はぶっきらぼうだが、普段ある孤高の空気が随分と和らいでいる。外では轟々と雷が落ち、歩いて数分の木々の影もおぼつかないほどの雨が降っていた。
「……お邪魔します」
 ゴードンは二人分の距離をあけて廊下の奥に座った。
「あの、ナバールさん」
 返事はない。
「これ、使ってください」
 オグマから預かった傷薬を、おそるおそると差し出した。
「あいつに頼まれたか」
「いえ、ぼくの意思です」
 数回瞬きをする間をおいて、ナバールは傷薬を受け取った。
「……いい目になったな」
「え?」
「暗黒戦争の時、お前はすぐに死ぬと思っていた」
 紅の死神の異名をもつ男に言われると、どことなく寒気がする。それと同じくらい、ゴードンは目の前の男が前の戦争の時から彼を認識していたことに驚いた。
「どうして……」
「手本がなかっただろう」
「手本?」
「目指す姿だ」
「それが、生きるために必要なんですか?」
「経験上は」
「それなら、ナバールさんにも手本がいるんですね」
「今はいない。だが、剣を交わしたい相手ならいる」
 意識しなければ気づかないほど僅かに上がった口角に、ゴードンは心当たりを知る。声にすれば、またぶっきらぼうな表情に戻ってしまうだろうか。
「……オグマさん、ですか?」
 されど好奇心は鎮まらず聞くと、ナバールはそれを無視して靴と靴下を脱ぎ捨てた。歩くのも苦しそうなほど足首が腫れて変色している。
 ナバールは顔をしかめながら傷薬を腫れている場所に塗った。
「戻ったらユミナ姫に治療してもらいましょう」
「世話焼きだな」
「ジョルジュさんにもよく言われます」
 ゴードンが笑いかけると、ナバールはまた少しだけ口角を上げた。

 雨上がり、野営地までの道中、ナバールは決してゴードンの肩を借りようとしなかった。すました表情には怪我の気配もない。
 最初は手を貸そうとしたゴードンも、数度やりとりを重ねるうちに滲む不機嫌に気づき、それ以降は声をかけなかった。
 野営地に帰り着くと、皆がびしょ濡れになっていた。なんでも場所が悪かったらしい。ぬかるんだ土壌に、雨風を凌ぐための天幕が軒並み被害を受けていた。天幕から出るしかなかった皆は濡れそぼって大慌てだった。

 さて、ゴードンが猫を思い出した時、彼は日中の既視感に気づいた。やけにナバールが気にかかると思えば、なるほど理由も納得できる。
 迷い込んできた子猫もナバールも、同じ脚を怪我していた。その偶然の一致がゴードンの中で妙なほど同期していたのだ。
「ナバールさん、子猫のところへ行きませんか?」
 立ち寝する男に声をかけると、彼は眠そうにあくびをした。目を覚ましたのでとりあえず歩きだせば、彼は仕方なさそうに後ろをついてくる。
 なんだか、出会ったばかりの師匠に似ているなあ。
 
 ゴードンがジョルジュの弟子になりたいと頼んだ時、ジョルジュはそれを断った。それでいて、ゴードンが弓の練習を始めると、仕方なさそうな顔で様子を見てくれた。
「おまえは教えを受けてどうなりたい」
「マルス王子の役に立ちたいです」
「そうではなく、目指す弓の形を聞いている。お前はなぜ弓を選ぶ。主の役に立つ武器なら他にあるだろう」
 思えば、あの時のジョルジュの問いかけこそが、ナバールの言う、目指す姿を見つけたきっかけだった。
 ゴードンはそれまで、ただ成り行きで弓を手にしていた。マルス王子のそばにいる騎士たちは弓を扱えないものばかりだった。騎士になった時は前線で戦う姿に憧れていたゴードンが弓を手にしたのは、消極的な理由からだった。
 初めて弓を引くジョルジュの姿を見た時、ゴードンは弓兵の美しさを知った。あの瞬間、弓に魅せられたのだ。

「着きました」
 不幸中の幸いにも、猫がいるはずの天幕は無事だった。
「ユミナ姫、治癒をお願いしてもいいですか?」
 マリーシアの治癒を受けた猫は、ユミナが引き取っていた。回復するまで様子を見てもらおうとしたのを、マリーシアが嫌がったのだ。
「ゴードン、また怪我したのね?」
 億劫そうに姿を見せたユミナは、ナバールの姿を見つけるなり、目を輝かせて彼に近づいた。
「もしかして、ナバールさんですか? 私、一度あなたにお礼を言いたかったの」
「何の話だ」
「オグマさんが珍しく怪我の治療に来た時、あなたがうっとうしかったからだって言ってたのよ」
「どの口が……」
 これには思わずゴードンも吹き出した。昼の小丘ではオグマがやたらとナバールの怪我を心配していたはずだ。
「ユミナ姫、彼の怪我を見てもらえませんか?」
「いいわよ、入って」
 ナバールは何やらもの言いたげな顔をしていたが、腕を掴むユミナを拒むつもりはないらしい。引きずられるまま天幕の中に入った。
 
 天幕に入るなり、にゃー、と子猫の呑気な鳴き声がした。リライブによる癒しのおかげか、怪我した脚がどれかもわからないほど元気に歩いている。
「ひどい腫れ方。ゴードン、こんな人を歩かせてきたの?」
「……肩を貸すのは嫌がられたので」
「もう、まるでオグマね。あなた達、人の頼り方を知らないんだわ。少しはこの子を見習いなさい」
 ユミナは短く猫に視線をやってから、ナバールの足首に杖をかざした。
「なんだ、傷薬は使っているのね。これならすぐによくなるわ」
 優しい光がナバールの腫れた足首を照らす。赤紫色に変色していた肌が、きめ細やかな白へと戻っていった。
「もう大丈夫よ」
 ナバールは擦り寄ってきた猫の喉下を数回撫でてから立ち上がった。
「世話になった」
 立ち去る姿にユミナと二人で笑った。
「ナバールさんも、礼は知っているのね」

 ゴードンが、ナバールに少し遅れて野営地の中心へ戻ると、まだ上裸のままうろつく者の姿が散見された。もはや着替えるのも諦めてやけ酒に走っているらしい。
 どんちゃん騒ぐ兵に混ざり、涼しい顔で酒を飲む師匠の姿があった。
「ジョルジュさん、戻られたんですね」
 昼と服が変わっているあたり、彼も雨に降られたようだ。
「アストリアさんは?」
「濡れたまま鍛錬している」
「負けたんですね」
「放っといてやれ。それよりも、向こうで面白いことが起こっているぞ」
 師匠の瞳は好奇心を隠そうともしていなかった。言われるままに整った指の先を見ると、オグマとナバールが喧嘩していた。というよりは、オグマが一方的に絡まれていた。
「酒を飲んだらあのザマだ」
「今度は何があったんですか?」
「アストリアも、なかなか奮闘したってことさ」
 良く見ると、オグマの左腕にわずかな不和がある。アストリアとの手合わせで負傷したのだろう。
「左腕ですね」
「お前、本当に目が良くなったな」
「ありがとうございます」
 昼の喧嘩と違い、ナバールはオグマの怪我を心配しているわけではないらしかった。
「オレとも剣を交わせ」
「今は危ないだろう」
「関係ない」
「俺には関係ある」
「剣をとれ、オグマ」
 思えば、ゴードンの前では口数少なく落ち着き払っていたナバールが、このように無茶を言う相手もオグマだけだ。
「なんだかんだ、仲がいいですよね」
「剣士同士、気が合うんじゃないか?」
 ジョルジュが眠そうにあくびをした。
「確かに、そうかもしれませんね」
 しみじみと昼のナバールの言葉を思い出した。
 剣を交わしたい相手、か。
 師匠の背中が近づけば、ゴードンも同じように思う日が来るのだろうか。考えてから、そんな日は来ないのだろうと思う。ジョルジュの背中はいつまでも追い続けたいものだ。
 だが、オグマとナバールの存在を剣が結んだように、弓が繋いでくれた師匠との関係が得難いものであることに変わりはない。
「ぼく、弓兵で良かったです」
「唐突だな」
「ふと言いたくなって」
「……俺も、弓で良かったと思うよ」
 師匠の視線がオグマとナバールへと向けられた。
「酔っているとはいえ、猫のじゃれあいに巻き込まれたくない。可愛い弟子をからかう方が、有意義だろう」

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