シャナ←ラク感情あり。修羅場ではないです。
「ラクチェって、シャナン王子のことが好きらしいぞ」
楽しげなレスターに、またか、とため息をつきたくなった。
スカサハは最近の幼馴染たちが、誰が誰を好きだの、恋人が欲しいだの言うようになったことに、どうにも馴染めずにいる。
昔は無邪気に笑っていれば、それだけでよかったのに。
「好きって、そりゃ好きだろう」
スカサハにとっても、妹のラクチェにとっても、シャナンは特別な存在だ。シャナンは、両親がそばにいない二人を守ってくれた恩人であり、剣を教えてくれた師であり、間違えた時は叱ってくれる義父のような、そんな人だった。
ただでさえ色恋の話題を疎ましく感じているスカサハにとって、大切な家族に向けた愛情までもが色恋の話題として消費されることは、どうにも耐え難い。
厳しい目を向けたスカサハに気づくことなく、レスターは続けた。
「そういう好きじゃなくってさ」
わかるだろ、と言いたげな声に大きなため息をついた。
「それで、レスターを無視してるんだ」
目の前の青髪が風になびいてさらさらと揺れる。春の穏やかな陽射しを浴びながら、セリスは呑気に微笑んでいた。
「面白がっていますか?」
「だって、スカサハが誰かと喧嘩するなんて珍しいから」
「セリス様ほどでは。それに、俺だって喧嘩したいわけじゃないんです。ただ、あいつが急に変なこと言い出すから……」
レスターのせいだと思いたいが、言葉尻がすぼんでしまう。
先に無視した負い目を感じていると、セリスは急に真面目な顔をした。
「私もレスターの言ってることは本当だと思うよ。って言ったら、スカサハはどうする?」
まだ、かすかに冷たさの残る風がびゅっと二人の間を吹き抜ける。スカサハは、早めに袖を通した半袖に少し後悔しながら腕をさすった。シャナンが十一の歳に着ていた服を、十三になってようやく着れることに浮かれていたのだ。
「スカサハも、わかっているんでしょ?」
静かな念の押し方は、不思議と波打っていた心を宥めた。
「ええ……」
本当は気づいていた。最近の妹が、王子と会う前に毎回髪を整えていることにも、会った時の頬が少し赤らんでいることにも、それでも王子に近づこうと少し踵を浮かせていることにも。
妹に鈍臭いとよく言われるスカサハだが、家族の変化に無関心でいるほど鈍くはない。
ただ、認めたくなかった。
何気ない日常にふと訪れた変化は、大切な家族の均衡を崩してしまうものだったから。
物心ついた時には、シャナンに憧れていた。
シャナンは奔放なラクチェに手を焼かされ気遣うことが多かったが、おさがりはいつもスカサハのものだった。シャナンとスカサハの間には同性の気やすさもあった。
そうして辛うじて保たれていた均衡が、ゆるやかに、くずれていく感覚。その感覚が、どうにも耐えがたかった。
「俺は、ただ昔のままでいたいんです」
「……私もだよ」
セリスの丸い瞳は寂しげだった。雨が降るすこし前の空の色。
「なんてね。言ってみただけ」
笑い飛ばすセリスに反して、スカサハは俯いた。セリスに言うべきではないことを言ってしまった。
友人の距離を保ちながらも、二人の間には成長と共に築かれた遠慮が隔たっている。それは、スカサハが築いてしまったものだった。
「ごめん、困らせてしまったね」
「謝らないでください。おかげで俺も気づけました。レスターに謝ってきます」
「うん」
セリスの瞳には、まだ寂しさが残っていた。
季節が巡り訪れた夏。妹の変化により崩れた均衡は、形を変えてゆるやかに戻りつつあった。スカサハは、妹の恋路を応援し、からかうことで新たな均衡を見出すようになっていた。
そうして気づいたのは、感じていた耐えがたさの正体が、憧れの人のそばから居場所を失うかもしれない恐れだということだった。
「おまえ、数ヶ月前は俺を無視するくらい怒ってたのにな」
スカサハがラクチェをからかった後、レスターはそう言って不満げに唇をつきだした。
「仕方ないだろう。だいたい俺だって、妹の恋事情なんか知りたくなかったんだ」
「スカサハくんはまだまだ多感だな」
「たかだか一歳差で年上ぶるなよ。……そういえば、おまえが好きな」
「待て待て、悪かったよ」
スカサハの抱く色恋の話題への苦手意識はいまだに消えないが、気にしていないそぶりで口にすることもできるようになっていた。
とはいえあまり長く話したいことでもない。そろそろ話題を戻そうと適当な内容を考えていると、レスターがあんぐりと口をあけた。
幼い頃から親しんできた気品ある香りが鼻腔をくすぐる。
「なんだ、レスターもついに好きな相手ができたか」
落ち着きながらもわずかな無邪気さを残す声。振り向くと、予想通りの人がいた。
「しゃ、シャナン様、いつからお聞きに……」
妹のことまで聞かれた可能性を考え慌てたスカサハの態度に、シャナンは不服そうに眉根を寄せた。
「別に、盗み聞きはしてないぞ」
「こいつ、自分の話まで聞かれたんじゃないかと冷や冷やしているだけですよ」
「スカサハもか。そういう年頃になったのだな……」
シャナンはしみじみと呟いた。
レスターの良いとも悪いとも言いがたい機転に、スカサハはしかたなく従った。慌てて否定したところで照れ隠しと思われるだけだろう。
「聞いてしまって、すまなかった」
申し訳なさそうに細められた黒目と視線が交わる。どうやら体を動かした後らしく、額に汗が滲んでいた。
シャナンの腰には、いつもの剣と、スカサハとラクチェに剣を教える時のための木刀があった。
長年親しんできた姿だが、なぜか胸がじくじくと痛い。
「スカサハ、どうした?」
「いえ、なんでもありません」
「すこし顔が赤いな。暑さでのぼせたのか。涼しい場所まで運んでやろう」
遠慮する間もなく背負われたスカサハは、やはり理由のわからない痛みを感じていた。
シャナンがスカサハをおろしたのは、木々が生い茂る森の中だった。小さな池がすぐ近くにあり、昔はよく、みんなで釣りをして遊んでいた場所だ。
「おまえもずいぶん成長したんだな」
「え?」
「昔はどれほど運んでも平気だったのに、すこし疲れてしまった」
「すみません……」
「言い方が悪かった。嬉しいんだよ」
そう言いながら、シャナンは中身の減っている革の水筒をスカサハの手に握らせてくれた。
「だが、調子が悪い時くらいは甘えてくれ」
甘えるも何も、スカサハは調子が悪い自覚すらなかった。ただただ胸が痛むだけだ。
けれど、このまま頼らずに落ち込むシャナンの姿を思うと、些細なことでも言ってしまった方がいいのかもしれない。
「……すこし前から胸が痛いんです」
直後、シャナンは大慌てでスカサハの胸に耳をあてた。喋ることも許されない緊張感。艶やかな長髪が腕に触れて、若干くすぐったい。いつの間にか、シャナンの腰に提げられていた木刀はなくなっていた。レスターに預けたのだろうか。
「少し早いが動いてはいるな」
数秒か、数十秒か。じっと心臓の音を聞いていたシャナンが、安心した様子で息を吐いた。
それがなんだかおかしくて、スカサハは我慢できずに笑ってしまった。
「なんだか、痛みも治ったかもしれません」
「本当だな?」
「多分」
「多分では困る。どう痛かったんだ? 悪化しては困るからな。とにかく医者には診てもらうぞ」
その時、気のぬけた音がスカサハの腹からなった。今度は二人同時に笑ってしまった。
「お水、いただきます」
「まったく人騒がせな」
朝食は食べたはずだが、一度感じた空腹はなかなかおさまらない。水に口をつける前に、再び腹がなった。
「次からは間違えないでくれ」
どうやら、シャナンは胸の痛みの正体を空腹と結論づけたらしい。
さすがに空腹と痛みを間違えたわけではなかったが、実際、痛みはおさまったのだから、わざわざ訂正する必要もないだろう。
一瞬ためらってから水筒に口をつける。その間に、シャナンが干し葡萄を渡してくれた。
「ありがとうございます」
もらった干し葡萄も遠慮なく平らげて立ちあがる。立ちあがる時、木に勢いよく頭をぶつけた。
「まったく、気をつけてくれ。これでは私の心臓が幾つあっても足りないな」
シャナンが呆れた顔で笑う。
結局、帰りも心配を断りきれず、広い背中で揺られることになった。
「疲れたら、言ってくださいね」
「大丈夫だよ。鍛えているからな」
一体、何が悪かったのか。すっかり治まった痛みを思い出しながら胸の内に問いかける。考えても、理由はよくわからなかった。こういうところが、ラクチェに鈍臭いと言われる理由なのだろう。
今のスカサハにわかることは、この人が好きで大切なのだという、幼い頃から続く当然の感情だけだった。