「シャナン様、大変です」
ろくにノックもせず部屋の扉があいたのは、日が沈みはじめたばかりの時間だった。
誰かと思えば、スカサハだった。日頃から礼儀正しい彼の表情に、明らかな動揺がある。嫌な予感がした。シャナンが緊張した面持ちで次の言葉を待っている。オイフェも同じ気持ちだった。もはや祈りに近い緊張に、手が震えた。
「ラクチェが、火があがってて、それで……死んじゃう」
まとまってはいないが、要点は伝わる訴え。今朝、ラクチェは隣村に遊びに行くと言っていた。そこから火があがっているのだろう。
状況を伝えようと懸命な声は、今にも泣き出しそうなほど不安定だった。その訴えをかき消すほどの勢いで烏が鳴く。赤く染め上がった室内。不吉な予感が拭えない。
わずかな静寂の後、シャナンが我先にと部屋を飛び出した。
慌ててオイフェも後を追った。そのすぐ後ろを、成長期前の幼さの残る姿が追いかけようとした。スカサハは、シレジアでシグルドたちと別れを告げた時のシャナンと、ちょうど同じ歳だった。
シャナンが足を止めないことを確認してから、オイフェは振り返った。
「大丈夫だから、シャナンが連れて帰ってくれるから。だから、ここで待っていてね」
スカサハは縋るようにオイフェの服を掴んだ。
「でも、ラクチェの居場所を伝えられなかったから……」
「隣村だよね?」
「はい。友達の家です。たしか、東門の近くに……」
「それがわかれば十分だよ。ありがとう、スカサハ」
オイフェは、最初の認識から相違ないことを確認して、心の奥で安堵した。細かな状況も聞かずに飛び出したのは迂闊だった。シャナンはまだしも、軍師であるオイフェは仔細を確認すべきだった。
安堵している間にスカサハの手がはなれていた。不安そうに俯く姿をもう一度元気づけてから、シャナンの後を追いかける。
シャナンに追いついたのは、村の北側だった。薄暗さも手伝って、シャナンは馬をつなぐのに手間取っている様子だった。手元に焦りがみえる。
「預かるよ。東門の手前だって」
それだけを伝えて、シャナンの馬を預かる。ラクチェは、シャナンにとって大事な叔母上から預かった子供だ。オイフェが先を行くよりも、シャナンに急がせる方がよいだろうと思った。
「すまない」
人の流れに逆らうようにシャナンは村の奥へと消えていった。
そのまま東へ目を向ける。幸い、火の手は薄い。どうやら火は、背後に崖が切りたつ村の西側からあがっているようだった。
しかし、安堵はできなかった。絶え間ない略奪の音があった。悲痛な叫び。武器の音。逃げまどう市民を追いたてる声。
おそらく帝国兵が間近にいるのだろう。そして、火で追いやった村人を襲っているに違いない。それが、噂に聞く帝国のやり口だった。
馬を手頃な林の奥につなぐと、オイフェもシャナンが消えた門へ駆けようとした。けれど数歩離れたところで思いとどまった。今離れれば、馬が盗まれてしまうかもしれない。はやる気持ちはあったが、帝国兵が間近にいる以上、いざとなった時の逃げ足の確保は重要だった。
オイフェは、追いかけたい気持ちを堪えて村を観察した。村から飛び出した村人たちは、皆走っていた。すぐに林へそれる者もいれば、オイフェ達が来た、整備されている道をひたすら駆けていく者もいた。その一部を、帝国兵が追いかけ、斬った。
オイフェは、シャナン達が飛び出してきた時に助けられるよう、門の近くへ少し近づいた。時折そばを村人が通り過ぎたが、馬に目をつける気配はなかった。平時ならば金になるが、急いでいる場面では重荷にしかならないのだろう。一般的な市民に乗馬の技術はない。
これならば、もう少し馬から離れても平気だろうと、オイフェはさらに門へと近づいた。近づくほどに焦げ臭さがして顔をしかめた。消火が遅れているらしく、オイフェが到着した直後よりも火の手は確実に広がっていた。
門はすでに見上げるほど近くにあった。逃げまどう人々の必死な息遣いが伝わってくる。帝国兵達が剣を振りかざす、剣の音もする。
オイフェは居ても立ってもいられなくなった。シャナンがラクチェを救うまで木陰に隠れて堪えているつもりだったが、逃げ惑う者たちをただ見捨てることはできない。
(シグルド様なら、きっと助けに入るはずだ)
オイフェはなるべく火元を視界に入れないようにしながら、剣を手にとり、村人たちを追いかけていた兵を斬った。
赤い血が顔にかかる。まだわずかに残っていた熱が、オイフェに触れた途端に消えていく。
オイフェはたまらず感傷に浸った。視界の奥で揺れる炎が、一層虚しさを掻き立てる。先刻から、わずかなきっかけで、失ったオイフェの主君シグルドを思い出してしまう。
戦場で純白の衣服を真っ赤に染めて戻ってくるたび、シグルドは毎回寂しげな顔をしていた。
特に、親友の率いるクロスナイツと戦った後の落ち込みようはひどかった。単騎で飛び出す勇敢な強さを持っていながら、シグルドはどこまでも戦に向かない人だとオイフェは思っていた。そして、だからこそ皆が彼を慕った。
シグルドは揺れる炎とは対照的な、全てを受け入れる穏やかな海のような人だった。
そんな人がどうして、とオイフェは拳を握りしめた。
シグルドは、炎に焼かれて死んだという。人づてにその噂を聞いて以来、オイフェにとって、炎はシグルドとの別れを意味づけるものとなってしまった。
(帰ってくると、約束したのに……)
心苛まれながらも、オイフェは着実に村人を助けた。シャナンは中々戻ってこない。嫌な予感が頭をよぎる。一人で行かせるべきではなかったかもしれない。
二人の身元が知られれば、たちまち兵が集まることは、想像に難くなかった。シャナンはイザーク解放軍の首謀者として既に名が広まっていた。その従兄妹であるスカサハとラクチェの存在も度々噂になっていた。
どうか、兵達に気づかれず、元気な姿を見せて欲しい。
祈りながら剣を奮っているうちに、敵兵が集まっていた。
「あ……」
気づいた時には、オイフェは帝国兵に囲まれていた。とりこぼした兵が援軍を呼んできたのだろう。
シャナン達を助けるつもりが、これでは逆効果だ。迂闊だった。オイフェは無力だ。主を救うこともできなければ、主の志を引き継ぐこともできない。
八年前よりも強くなれたと思い込み、今度は自分自身までもを失うのかもしれない。炎ごときでくだらない感傷に浸ってしまったから。そして、いつまでも過去を見ているから。
諦めと共に剣をおろしかけた時、兵達の奥から聞きなれた声がした。
「そこにいるのか」
途端に冷静さが戻ってくる。今、声の主を失うわけには行かなかった。オイフェだけならまだいい。だが、シャナンと共に倒れては、残してきた子供たちを助ける存在がいなくなる。
「来ては駄目だ!」
「あいつからお前まで奪うわけにはいかないさ」
鋭い剣さばきが三人の兵をたちまち切り裂き、道を開いた。光の限られた暗い景色の中で、その剣筋は流れ星のように速く、淡い緑に光って見えた。
シャナンの鋭い目は、苛立ちを隠さずにオイフェを見ていた。そばにラクチェの姿はない。
「彼女は?」
「無事だ」
「……どうして来たんだ」
「今は目の前に集中しろ」
「そうだね」
暗にオイフェらしくないと諭されて剣を構える。シャナンと背中を合わせ、敵に備えた。思わぬ抵抗に兵たちも狼狽えているのか、中々仕掛けてこない。
「行くぞ」
先にシャナンが足を踏み出した。突破口を切り拓いてくれると信じて、オイフェもあとに続いた。
期待通り、シャナンの剣は瞬く間に道をつくり、二人は林へ駆け込んだ。抵抗する間も与えられなかった反撃に驚いてか、兵達は追いかけてこなかった。元より掠奪をしに来ただけの存在だ。戦うつもりも、あまりなかったのだろう。
「ありがとう」
「礼には及ばぬ」
「けど、」
「それともお前は、私一人であいつらの面倒を見ろというのか」
「……君一人では無理だ」
本当に無理だと思ったわけではなかった。村から離れるまで油断できないという思いと、強がっているとわかるシャナンの表情に、そう言うしかなかった。
シャナンは歩速を緩めることなく言い放った。
「ならば話は終わりだな。ラクチェに馬を渡してしまった。相乗りだが許せよ」
シャナンは手慣れた手つきで馬を繋いでいた紐をほどき、またがった。シャナンの体に腕を回すようにして、オイフェも後ろに乗る。
「ごめん、重いだろうけど」
「後で労ればわかってくれるさ。まずはラクチェに追いつくのが先だ」
「先に行かせるのは怖くなかったの?」
「……お前のおかげで村は手薄になっていた。それに、村の外にあまり兵がいないことは、来る時に確認した」
それから、シャナンはさりげなく言い足した。
「お前でも同じ事をするだろう?」
問いかけにどきりとする。一連の出来事に、オイフェはすっかり自信を失っていた。
「できるといいんだけど……」
「できるさ。私にとっては戦術の師だからな。できねば困る」
シャナンの言葉が力強くオイフェを励ます。最後はすこし揶揄っている口調だった。
「ごめん、忘れて」
「忘れるまでもない」
「意地悪だ」
シャナンが手綱をわずかに緩め、馬の速度が増した。増したといっても、一人で乗っている時よりは幾分か緩やかに進んでいく。
馬に乗ってからというもの、オイフェは定期的にうしろを振り返った。最初のうちは奥で炎が揺れていたが、五分も経てば暗闇ばかりになった。
「シャナン、僕は歩いて戻るよ」
「ならば私も歩こう」
「先に行ってよ。子供たちのこともあるから」
「ラクチェに、エーディンを呼ぶよう言いつけてある。それに、あいつらも自分たちでどうにかできる年だ」
シグルドたちと過ごした日々を懐かしんでか、静かに息を吐き出す音がした。吸い込んだ空気に焦げ臭さはない。
「シャナンも、立派になったね」
「……いいから降りるぞ」
シャナンが手綱を強く引き、馬の動きが止まった。先にオイフェが馬から離れ、遅れてシャナンも馬から降りた。手綱はシャナンが握ったまま、左右に木々が生い茂る道を歩足にあわせて進んでいく。
「ラクチェのこと、世話をかけたな」
「よしてよ。彼女は僕にとっても大事な家族だよ。いつだって支え合ってきただろう」
「私はお前に頼ってばかりだったさ。どれほど自立したつもりでも子供だった。歳を経るごとにお前の凄さに気付かされるんだ」
「そんなことは……今日はむしろ」
「わかっている」
シャナンは前を向いて歩き続けていた。オイフェは時折振り向いて、灯りがない事を確認した。飛び出した村人すら寄ってくる気配がない、暗い道。村のそばでは道をまっすぐに走った村人も、帝国兵の追跡を恐れて横道に逸れたのかもしれない。あるいは、オイフェが戦った事で、他の門から逃げ出したのだろうか。
オイフェは村人たちの無事を祈った。
祈ってからもう一度シャナンを見た。表情には迷いがあったが、それでも彼は前を向き続けていた。