暁の女神

再び進む

 ノイスには無二の友人がいた。二十の時、その友人と貿易会社を立ち上げた。
 当時のノイスは若かった。自身の経営学の知識と、幼い頃を知る友人の人脈があれば、求める人と物を繋げ、デインをより豊かにできると、無垢に信じていた。
 ノイスたちの設立した会社は、工芸品の愛好家を中心にじわじわと評判が広がっていった。
 最初のうちは売上が伸びるたび二人で祝杯をあげた。友人が人脈を活かして珍しい工芸品を集め、ノイスの知識でそれらを欲しい人へと届ける。二人揃ったからこその成功だと、互いに思っていたはずだ。
 だが、次第に二人夢を語り合った二人の時間は減っていった。会社が成長するにつれて、友人とノイスの間には、多くの人が挟まるようになっていった。二人での祝杯の機会は減り、代わりに顔を合わせれば言い争うことが増えた。
 だが、会社は順調に成長した。ついには国外へ目を向けて、クリミアへの販売経路の進出へ乗り出そうとした時、悲劇が起こった。
 
 忘れもしない、二十五の決別。二人の別れの決め手は金だった。もう、夢を語っていた若者には目のくらむ金額が手元に集まるようになっていた。友人は変わってしまった。国外への進出に合わせて従業員への還元を訴えたノイスに、友だった存在は十数年の付き合いの中で聞いたこともないほどに声を荒げた。ごく短い、背中が汗ばむ季節のことだった。
 二人の方針が食い違ったまま、気づけば風がからからと音を立てる季節になっていた。
 その日はノイスの誕生日だった。もう長らく話していなかった存在から飲もうと声をかけられた時、ノイスは安堵のため息をついた。ようやく再び手を取り合えると思った。
 しかし、まだ夢をみる青年だった時に夢を語り合った存在は、呆気なくノイスを裏切った。知らない間に会社が背負っていた多額の負債を抱え、ノイスは貧民街の住人となった。
 それ以来、ノイスは人との交流を避けて生きるようになった。昔以上に本を読み、背表紙がくたびれるまで、何度も同じ本を読む生活を続けた。

 ノイスが路地裏生活を始めてから、まもなく十年になる。
 狂王アシュナードの代に勃発したデインとクリミアの戦争は、貧民街の様相を大きく変えた。上流階級の身なりをした少年少女の姿を見かけることが増えた。
 ノイスは、まだ借金を背負ったばかりの頃先人からしてもらったように彼らを助けた。生き抜くための気づきを与え、懐かれる前に彼らの元を去った。
 最初こそ場違いに見えていた若者たちは、時の流れに応じて街に溶けこんでいた。
 だが、すぐに新たな波乱が起こった。今度の波乱は、戦時下よりもひどかった。貧民街に、ベグニオン駐屯兵の魔の手が伸びてきたのだ。
 それからは、長年近くで暮らしていた名も知らない住民が、ある日大怪我をしたり、消えたりする日々が続くようになった。
 
「誰か、誰か助けて——」
 まだ若い子供の切迫した声。
 最近は、助けを求める声を聞く機会が増えた。持たざる者がさらに奪われようとする時の絶望の叫び。
 貧民街に暮らす多くは、その声を聞くたび、一瞬顔を上げてからじっと俯いた。顔を上げるのも心配からではなく、火の粉が身に降りかかるのを恐れてのことだった。
 何十、何百が耳にしていながら、存在を消されていく叫び。その叫びに向かって、ただ一人、ノイスだけは走っていた。
 走ったところで、勇者にはなれない。ノイスが始めた事業は国を豊かにしなかった。ただ放っておけないというだけの、理由のない正義感でノイスは何度も走ってきた。
 
 許しが欲しかったのかもしれない。
 長年の友だった存在すら金に溺れるのを救えなかった情けなさを、償いたいと願ったことが何度もあった。
 ともかくノイスは懸命に走ったが、多くの場合、たどり着いたときには、手遅れだった。駐屯兵に囲まれ、連行されていく人々の姿を見るたび、感情のやり場なくする歯軋り。

 だが、ある日、とうとうノイスは間に合った。
 声の元に辿り着くと、二人の少年と一人の駐屯兵が何やら言い争いをしていた。少年の背に隠れるように、一人の男の子が震えている。
「穏やかじゃないな」
 ノイスは、きわめて落ち着いた歩調で駐屯兵と少年の間に入り込んだ。初めて助けが間に合いそうな安堵と、緊張で足が震えた。
 駐屯兵が、警戒するように鋭い視線を向けてきた。
「おい、ぼうずたち。一体何を楯突いているんだ」
 ノイスは、あえて少年たちに厳しい声をかけた。正しい状況把握ができなければ、助けられるものも助けられなくなる。まずは駐屯兵に味方だと思われる方が好都合だった。
「なんだよ、おっさん。助ける気がないなら引っ込んでろ」
 赤い服を着た少年は、強気な性質らしい。一回り以上年上のノイスに、怯むことなく言葉をぶつけてきた。その横で、青い服をまとった色白の少年は思案顔を浮かべていた。背後の少年は泣きじゃくっている。
「年上への口のきき方がなってないな」
 駐屯兵に背を向けて、ノイスは赤服の少年を責めた。敵ではないと伝えるべく、言い終えてから少し微笑んでみせた。青服の少年だけが、ノイスの態度に気付いたらしい。思案顔を振り払って、赤服の少年を宥めはじめた。
 そこへ、駐屯兵が口を挟んだ
「おい、いい加減退いてくれないか。そこの子供が悪さをしたんで、説教しなきゃなんねえんだよ」
「……ぼく、なにも、わるいこと……してない……」
 男の子は泣きじゃくりながらも反論をした。ノイスは、赤服の少年が吠えようとするのを遮り、兵に話しかけた。
「ああ。それはすみません。一体どんな悪さだったんですか?」
 駐屯兵は一瞬怯んでから、得意げに鎧を指さした。
「ほら、鎧を壊されたんだよ」
 駐屯兵の示した場所には、年季の入った古傷しかない。だが指摘しても意味ないことだ。
「それは大変でしたね。よければ腕のいい防具屋を紹介しますよ。知人が経営しているもので」
 ノイスは駐屯兵の体をやんわりと押した。親切心を信じさせようと、思ってもない日頃の感謝を述べてみせる。
 少なくとも、この辺りにいる駐屯兵は承認に飢えている。その証拠に、被害を受けた住民の大半は、アシュナードの時代に兵士の道を志していた者たちだった。
 ただ己が優位に立ちたいだけの者を宥めるならば造作もない。腰を下げて持ち上げ続ける限り、ノイスに敵意は向けられないだろう。
 兵を防具屋に連れていく後ろで、少年たちの駆け出す気配があった。兵は最後まで気づかなかった。
 
 数日後。拠点に座っていつもながら本を読んでいると、よく通る少年の声がした。
「おれが、この状況をどうにかするんだよ」
 それは、初めて助けが間に合った日に出会った赤い服の少年の声にそっくりだった。
「どうにかって、どうするの?」
 ノイスは、無意識のうちに本を閉じて歩いていた。
「こう、剣でシュババババーってさ」
「エディは、捕まりたいの?」
「困ってる人を放ってはおけないだろ」
「そっか……。エディって、貧民街の住人っぽくないよね」
「なんだよ、それ」
「大丈夫、褒めてる」
 友人らしき二人の会話は、噛み合っているようで噛み合っていない。
「なあ、ぼうずたち」
 後ろから近づいて話しかけると、少年二人は驚いた顔で振りむいた。
「あ、おっさん」
 赤い服の少年が、以前からの知り合いだとでも言いたげに笑った。
「おっさんはよしてくれ。俺にはノイスっていう名前があるんだ」
「よろしくな、ノイス、さん。それから、この前は助かった。おれはエディっていうんだ。こいつは親友のレオナルド」
 今にも手を掴んで握手してきそうなエディと、その横で行儀良く綺麗なお辞儀をするレオナルド。
「その……先日は、助けてくれてありがとうございました」
「礼なら要らないさ。ぼうずたちが駐屯兵を足止めしていたから間に合ったんだ」
「ノイス、さん、いい人だな」
「言いづらければノイスでいい」
「じゃあ、ノイス。おれたちの仲間になってよ」
 レオナルドは隣で慌てていたが、ノイスの表情を確認してから安心した様子でため息をついた。
「僕たち……といっても、僕とエディだけだけど、二人で義賊をしているんです」
「暁の団っていうんだ!」
「それで、仲間を探していて……」
「ノイスなら、やってくれるだろ!」
「え、エディ。ノイスさんが困ってるから……」
 レオナルドはエディを嗜めながらも、少し楽しそうな顔をしている。
 夢を語る少年二人の瞳に、ノイスは昔を思い出した。
——なあ、ノイス。俺とデインを豊かな国にしよう。
 語り合った夢は叶わなかったが、あの時見た瞳の煌めきだけは、今でも本物だったと信じている。
「その話、俺の拠点で詳しく聞かせてくれないか?」
 もう二度と、他人と親密に関わるつもりはなかった。だがノイスは、この二人をどうにも他人だとは思えなくなっていた。

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