※暁の女神2週目以降解放エンド前提です
物静かな昼、セリノスの森の最奥に珍しい人物が訪ねてきた。
「エルランさん、お久しぶりです」
銀の髪の乙女。かつてそう呼ばれていた少女は、長く伸ばした特徴的な髪を先端近くで束ねていた。顔は昔よりも大人びて、いまや少女というよりも女性——亡き妻オルティナの面影を感じさせる。
会うのは七十年ぶりだろうか。
思いがけない来訪に言葉を失っていると、彼女は申し訳なさそうに俯いた。
「ごめんなさい、本当はサナキと来たかったのだけれど。……先週、旅立ちました」
「……そうですか」
サナキからも、もう長くないことは聞いていた。
間近に迫った別れを覚悟はしていたが、実際に訪れると堪えるものがある。彼女は、絶望に満ちていた彼の数少ない陽だまりだった。
「今日は、このことを伝えるために訪ねてくださったのですか?」
風の音もない束の間の静寂。ミカヤは遠くの木々に向けていた視線をセフェランへ戻した。葉の緑が橙の瞳に深い影を落としている。
「それもありますが……」
そう言いながら、ミカヤは黒い布切れを取りだした。滑らかな質感には懐かしさがあった。
セフェランと共にあった青年、ゼルギウスの鎧に巻いていたマントだ。
「どうしても謝りたかったのです。サザもサナキもいなくなって、わたし、怖くなってしまったの」
可哀想に、ミカヤの声は震えていた。
なにが怖くなったのか彼女は語らなかったが、ある程度の推測はできる。
「ありがとう、ミカヤ。あなたも彼を忘れずにいてくれたのですね」
「ごめんなさい……」
「どうか落ち着いて。謝ることはありませんよ」
セフェランの声に呼応して、風の精霊が柔らかな風を吹かせた。森の木々が優しい音を奏でる。
「でも、わたしはあなたを独りに……」
セフェランは最初の推測の正しさを確信した。
ミカヤは、導きの塔でセフェランから死を遠ざけたことを悔やんでいる。
死ぬはずだった彼の命を救った時、少女は孤独を癒してくれた存在と永遠に別れる苦しみを知らなかったはずだ。
優しい彼女は、七十年経ってようやく知った苦しみを過去の記憶と重ね合わせてくれている。
「ミカヤ、私は独りではありませんよ」
自分のための言葉でもあった。
たしかにセフェランは導きの塔で大切な存在を失った。人の滅びを望み過ちを犯した彼を、主と仰ぎ慕ってくれたかけがえのない青年ゼルギウス。彼を失った心の傷はいまだにある。
ただしそこにミカヤの責任は一つもない。失ったものを想うとき、責めるべきは自分自身だった。彼をこの世から奪ったのは、同じ道を歩ませたセフェランの選択だ。
今でも考えることがある。ゼルギウスが最初に出会った理解者が別の者であったなら、今も彼は生きていたのではないだろうかと。
たとえば、もしも先に彼がミカヤと出会っていたら、彼はセフェランと同じ道を進むことはなかったはずだ。
けれど彼が出会ったのはセフェランで、セフェランを孤独から解放したのも彼だった。
そして彼は、最期の時もセフェランが独りにならないよう、大切な気持ちを残してくれた。
「今でも私の中には彼がいます」
「……騎士様とは、もう会えないわ」
「それでも、ゼルギウスの願いを果たす使命が私にはあります」
「騎士様の?」
頷きながら、彼との最期の記憶を思い出す。
導きの塔で死に近づいた時、セフェランはあの世で漆黒の鎧を着たゼルギウスと再会した。
「ゼルギウス、待たせましたね」
「セフェラン様……」
振り向いた表情は険しかった。
二人きりの時に見せてくれる笑顔を期待していたセフェランは、戸惑いを隠せなかった。
「どうかしたのですか?」
訊ねたがゼルギウスは何も言わない。表情を変えずに、重い鎧の音を立てながらセフェランへ近づいてくる。
最期に愛想を尽かされてしまったのだろうか。彼に限ってあり得ないと思いながらも、眉間に浮かぶ険しさの理由がわからない。
そんなセフェランの困惑に構う様子もなく、ゼルギウスの大きな手が腰に触れた。表情からは想像できないほど優しい手つきは、いつもの彼のものだった。
そのまま抱えあげられて足を地面が離れた時、ようやく彼の声がした。
「セフェラン様。ここは、まだ貴方が来ていい場所ではありません」
ゼルギウスは再び黙り込んでしまった。寂しげな顔のまま、彼は何かを迷っている。
空間のふちまで連れて行かれても、セフェランには彼が何を考えているのかわからなかった。
もう二十年は二人だけの道を歩んできたが、こんなことは初めてだ。
「どうするつもりですか?」
落ち着いて訊ねたつもりの声は強張ってしまった。
そのおかげか、ゼルギウスはようやく表情を和らげた。
「ご無礼をお許しください。貴方を……元の世界にお返します」
「理由を教えてくれますね」
「セフェラン様の、願いを叶えるためです」
誰よりも深くセフェランを知る、ゼルギウスの言葉だとは思えなかった。
「私の野望ならもうすぐ叶いますよ」
「野望ではなく、願いです」
「君がいない世界に願うことなど……」
「大丈夫です」
セフェランを支えていた手の温度が離れ、あの世のふちから落ちていく。
最期に見たゼルギウスは今にも泣きそうな顔をしていた。孤独に苦しみ頼ってきた時ですら見せなかった顔だった。
「私はずっとここで待っています。ですから、どうか貴方が願った世界で——」
「死のふちから目覚めた時、私は絶望の中で彼を独りにしたことを悔やみました。ですが今は、この世界を私に見せることが彼の願いだったと思えます」
話している途中、ミカヤの肩に小鳥が一羽とまった。活発な橙の羽はユンヌの髪色によく似ている。
「ミカヤ、私はこの命に感謝しています」
ミカヤは、まだ思い悩む表情を変えなかった。
「鷺の民は滅多に嘘をつきませんよ。あなたならよくご存知でしょう」
冗談めかして言い添えると、ようやく彼女は小さく笑った。
「会えない、なんてひどいことを言ってしまいました。今でもあなたは彼と共にあるんですね」
「ミカヤの中にも、きっといます」
懐かしい質感の布を撫でると、ちょうど毎夕の鷺の歌声が聞こえ始めた。小鳥が気まぐれに音の方へ去ってゆく。
歌が終わるまで耳を傾けてから、ミカヤは気恥ずかしそうに俯いた。
「わたし、あなたに甘えてしまったみたいです」
「では、せっかくなので膝枕でもしましょうか」
「いいえ、大丈夫。騎士様に嫉妬されそうだもの」
「彼はそれほど悋気深くはありませんよ」
「……エルランさんにも、わからないことはあるんですね」
意外そうに目を丸めた彼女に、セフェランは頷いた。
「そうですね。どれほど生きてもわからないことばかりです。私たちは、不完全ですから」
日が暮れる前、ミカヤは少女のように軽い足取りで帰っていった。
静かな森で一人になると、堪えていた寂しさが滲みてくる。
独りではない、そう思う感情に偽りはない。けれど、薄がりに漂う寂しさも本物だ。
叶わない願い、失ったもの。絶望の果てに犯した過ちは、今も人生に暗い影を落とす。
——ゼルギウス。君は今でも私を待ってくれていますか。
胸の内で問いかけると、ふっと、彼が笑った時の吐息に似た風が吹いた。