ソラネルの日差しは柔らかい。イルシオンのような寒さはどこにもない。
ソラネルの夜は眩しい。真っ暗な帳の中で月明かりだけが頼りの祖国と異なり、夜遅くまで篝火が揺れている。神竜が寝泊まりする城のあかりは、夜遅くまで消えない。
アイビーはそんな祖国と何もかもが異なる聖地の、静謐な裏庭で星を見ていた。
最後に父を説得したかった。
悔やんでも仕方のない感情が胸を覆う。
オルテンシアのためにも、かつての優しい父を取り戻したかった。神様が見逃してくれた命で、もう一度やり直したかった。
だが、アイビーの願いはもう叶わない。父は、心のみならず肉体すらも邪竜に奪われてしまった。
駆けつけた時には全てが手遅れだったのだ。
神竜と合流した直後、激昂する弟を嗜めるように発されたブロディア第一王子の言葉を思い出す。
「ハイアシンス王は、亡骸すら、残らなかったんだ……」
神竜を危険に晒した亡骸への執着を責めたアイビーの本心を、ディアマンドは見事に見破っていた。
亡骸なんて、たいした物ではない。
そう思わなければ、どうして全てに間に合わなかった心を納得させられようか。
アイビーは、悲しみの最中でも人を気遣う心を忘れない隣国の王子の強さを、しかと感じた。
聖地に居ても、星空はイルシオンで眺める方が綺麗だ。どれほど覚悟を決めても祖国は恋しい。暖かな夜に吹く冷たい風。
これ以上外にいても、恋しさは募るばかりだ。
アイビーは寝室へ戻ろうと歩き始めた。数歩進んだところで、背後にある林の奥から不気味な物音がした
「そこに、誰かいるの?」
問いかけても返事はない。人の気配も感じなかった。胸がざわつき始める。
「まさか、お化け……?」
イルシオンの第一王女として冷静な振る舞いを心がけているアイビーだが、どうしても苦手なものはある。
アイビーにとって、それはお化けの類だった。
幼き頃から、夜に不安を得ても頼れる人はなかった。一人で我慢しようと毛布を被るほどに、それはすぐそばまで迫っているように思えてならなかった。
お化けなんか怖くないと、そう言ってアイビーの手を取ってくれる存在がいれば、恐怖は克服できたのだろうか。
このような考えすら無意味なことだと知っている。薄汚い大人たちをアイビーは嫌というほど見てきた。
おそるおそる、林の奥を覗く。何も見えないが、不規則な音だけがカサカサと響いている。
「アイビー王女」
後方から話しかけられて、肩が跳ね上がった。振り向いた先にはディアマンドがいた。
「驚かせてすまない。だが、今王女が怯えていたのは草木の影だ」
「え、ただの草木の影?」
ディアマンドは馬鹿にした様子もなく、事実として告げてきた。それから厳格な顔の奥でわずかに微笑んだ。
「見間違えるとは、らしくないではないか」
らしくないと言われるほど二人はまだ会話したことがない。王子なりに気を遣ってくれたのだろう。
気恥ずかしさに返す言葉もない。
風が吹くたび、草木の揺れる音がした。
しばらくそのままでいると、ディアマンドが胸もとの内ポケットから大切そうに石を取り出した。親指の爪くらいの大きさの石は、月明かりを反射して透き通った水色の光を見せる。
「その様子では、しばらく恐ろしいだろう。よければこれを受け取ってくれ」
「これは……」
「ブロディア産の鉱石だ。勇敢という意味を持つ。お守りとして使われるものだ」
説明を聞き終わってから、アイビーは一つの懸念に気付いた。
国を継ぐ王女が、隣国——しかもイルシオンの民には恨みを抱いている者も多いブロディア——の施しを受けようとしている。
施しを素直に受ければ、イルシオンの外交的な立場を下げることになるかもしれない。
ディアマンドの行動にそのような意図がないことは理解しているが、危うさに気づいていながら受け取るわけにはいかなかった。
アイビーは受け取った鉱石を押し返した。
「隣国から施しを受けるわけには……」
ディアマンドもそれで考えを理解したのだろう。押し返された鉱石を、嫌な顔一つせずに受け取った。
大きな掌の上にのせられた鉱石は、ディアマンドによく似合っている。透き通った色は彼の心の高潔さのようだった。
「アイビー王女。では、これは私個人の気持ちだ。不要であれば捨てても構わない。……それなら、受け取ってくれるか?」
「ええ、それなら」
武人らしい骨ばった大きな手から鉱石を受け取った。先ほどと変わらないはずの鉱石が心なしか温かく感じる。
「ありがとう、ディアマンド王子」
微笑みかけるとディアマンドも優しく目を細めた。
「では、失礼する」
去る背中は広い。
ブロディアでこのように綺麗な鉱石が採れることを、アイビーは初めて知った。
受け取った鉱石を夜空にかざす。それは星のように輝きを放って見えた。
ソラネルの夜は眩し過ぎる。アイビーは父を殺した魔導書を胸に抱えてうずくまっていた。
一度は死んだと思っていた父だ。それがもう一度居なくなっただけだというのに、どうして悲しみが尽きないのだろうか。
水の中に沈んでいるような息苦しさがある。油断すると全身を重く満たす水に呑まれて、自分を失ってしまいそうだった。
「さすがに、今は勇気をくれないのね」
アイビーは胸元にいつも忍ばせている薄水色の鉱石を新月に翳した。
前は星のように綺麗だった光がどこにもない。
アイビーが父を殺した時、父は笑っていた。異形兵とは思えないほど、それは昔の優しい父の表情だった。
オルテンシアごめんなさい。
お父様、今までありがとう。
父に魔法を放った時、覚悟は決めたはずだった。
それなのに、どうしてこんなに苦しいの。
風が吹いて梢が鳴る。お化けではないともう知っている不気味な音。
流石に薄着すぎた。肌寒さが気になり始める。両腕に鳥肌が立っていた。
戻らなければ、そう思うほどに体は重く動かない。連日の不眠の影響か次第に意識が沈み始める。背後から近づいてきた足音に振り向く余裕もなく意識を手放した。
外はまだ暗い。アイビーの肩には赤いマントがかけられていた。
「ああ、目覚めたか」
声はすぐ隣から聞こえた。
「ディアマンド王子……どうしてここに」
「二人だけの秘密にすると誓ってくれるか」
ディアマンドの目はいつになく寂しい色をしていた。落ちゆく木々の葉に似た燻んだ赤。
頷くと、ディアマンドは静かに話し始めた。
「眠れない夜は、いつもここに来るんだ。……異形兵になった父上をこの手で殺めた、その時から」
アイビーにとって、それは衝撃的な言葉だった。神竜と合流を果たした時のディアマンドには、人を気にかける余裕があるように見えていた。少なくとも、肉親を自らの手で殺めた悲痛さは感じなかった。
「周囲には強がって見せていたが、父上の首を刎ねた時の感覚は消えず、今でも剣を握ると思い出す。眠れない夜には、ここで陽が昇るのを待つくらいしかやり過ごす方法がなかった。ソラネルでは、静かな夜を過ごせる場所は限られているからな」
ディアマンドの言葉は、細かな状況こそ異なるが、アイビーの感情そのものだった。けれど、ディアマンドは決して、アイビーの心を語りはしなかった。
「父と戦う覚悟は決めたはずだった。だが、異形兵となった父の最後の瞬間。その瞬間だけは、確かに生前の意識があった。俺が斬ったのは、異形兵ではなく、父だった……」
高潔さの奥にある弱さが、今は包み隠さず明かされている。
アイビーは右手に握ったままとなっていた鉱石の質感を確かめるように拳を握った。
あの日、何気なく差し出された石が必要なのは、ディアマンドも同じだったのだ。
鉱石を取り出すときの、丁寧な手つきを思い出す。大切なものを扱うときの手だった。
「すまない。つまらない話をしたな」
呟く顔には、先ほどまで晒してくれた弱さは残っていなかった。
アイビーだけが隠された弱さを知り、理解できる。対立してきた二国を継ぐ者は、同じ傷を背負っている。
同時に、それは心を支える糸となった。アイビーは差し出された糸に縋りたかった。
「そんなことないわ。私は、あなたに感謝しているの」
「個人として、か」
「ええ」
でもいつか、イルシオンの王女としてあなたに感謝できる日が来てほしいと願っている。とは、声に出さなかった。
イルシオンの民の理解を得ることはきっと難しい。けれど、この戦いが終わり女王となったその時には、何度も自分を助けてくれた王が治める国との和解を果たしたいと心から願っていた。
そのためにできることを考える、ディアマンドが分け与えてくれた勇気を握りしめながら。