紋章の謎

紅に染まる

※ナバールを貴族の嫡子(姉がいる)として捏造しています

 マケドニア人のシスターを逃がそうとした青年は、盗賊団を相手に一人で立ち向かおうとした。ナバールは、物陰から眺めていた姿をどうしても静観できなかった。
「俺が殺る」
 四人の山賊を抑えて、青年の前に立った。青年は、まだ血に染まっていないだろう綺麗な手で、無謀にもナバールに挑んできた。
 昔を思い出す。姉を失った弱き頃の自分の姿。それが、目の前の青年とつい重なる。
 青年は、覚悟を決めた目で攻撃を仕掛けてきた。動きは遅く、剣筋も丸わかりだ。ナバールは造作もなく剣を避けて、青年が進んだ方へ振り向いた。青年の腕ががたがたと震えている。恐怖と戦っているのだろう。それでも目だけは闘志を消さず、軽蔑するようにナバールをにらみあげていた。
 ナバールがまだナバールになる前、守るべき姉を失った日も、きっと同じ目をしていた。
 
 
 小雨が絶え間なく降っていた。湿った土の匂いが妙にカビ臭く、鼻の奥に残る日だった。悪天にしては朝から城の外が妙に騒がしく、少年は姉と二人、共に部屋にこもり、何事もないことを祈りながら過ごしていた。命を狙われることは初めてではなかった。貴族の醜い権力争いで、特に姉は、何度も殺されかけてきた。
 男系が王位を継いでいく国では、女貴族の命が狙われる。王や王子に見合う娘が姿を消せば、自然と自家の娘を王族に嫁がせられるからだ。少年の姉は見目の美しさも相まって、何かと目をつけられることが多かった。
 昼過ぎ、ようやく周囲が静かになり一息ついたところで、突然部屋の扉が蹴破られた。扉の先には、賊にしては上質な鎧を着込んだ男が三人、武器を構えて立っていた。
「観念しな」
 姉の姿を品のない目で舐め回しながら、男の一人が口角を上げた。少年は男たちに気づかれないように、体の向きを変えずにゆっくりと壁——かつて国王の右腕であった父の形見の剣が飾られている——へ近づいた。
「——、やめなさい」
 勘づいた姉の静止を聞かずに、少年は壁から剣をとった。小柄な体躯で、大きく足を踏み出し、男たちに切り掛かる。動きに気づいた男たちは、剣を軽々と避けた。うち、一人が槍を突き出してきた。危機一髪のところで避けたが、少年の服の裾は破けた。一対三。背後には姉の姿。不利な戦いであることは理解していた。短く切り揃えた髪が、冷や汗で湿って、額やこめかみや頸に張りつく。
「姉さんは、オレが守る」
 震える足を動かした。少年の剣は何度も敵の鎧にあたり弾かれたが、やがて、なんとか一人の脇腹を捉えた。手に沈み込むような感覚に背筋が凍る。立ち竦んだ少年の姿を、男二人は見逃さなかった。
「——!」
 姉に名前を呼ばれ、次の瞬間には、敵と自分自身の間に姉が立ち塞がっていた。
「姉さん!」
 姉の胸から血が溢れる。どくどくと止まらずに、カーペットに染み込んでいく。やがて吸いきれなくなった血液が血溜まりを作った。
 その後の記憶は曖昧だ。気付いた時には、男たちは消え、姉の姿もなかった。少年の腹からも血が出ていたが、意識は何故かはっきりとしている。
 握っていたはずの剣は、既に乾き果てた血の上に転がっていた。部屋には少年が初めて命を奪った、一人分の死体だけが残されていた。
 
 残されていた唯一の家族を失い、少年は孤独になった。
 数日後、傷も癒えた新月の晩。使用人の目を盗んで生まれ育った城を離れた。耳に姉のピアスで貫き、腰に父の形見を差し、何も見えない暗闇を歩く。
 真夜中を選んだのは、そうしなければ進めなかったからだ。振り向いた時に城が見えれば、既にいない家族の元へ帰りたくなってしまう。けれど、城ではそこかしこから姉の血の臭いがして、もはや牢獄に囚われている心地だった。結果、闇夜に紛れることでしか、少年は前へ進めなかった。
 父と死別して以来、三年以上に渡り、頼れる者のいない城で姉と二人、支え合って生きてきた。
「お前たちは、二人とも母さんに似て美人だな」
 父は生前、少年には記憶すらない母の面影に目を細めながら、口癖のように言っていた。父の逞しい腕に憧れていた身としては、不満にも思う言葉だった。けれど、姉を失った後は、その言葉こそが何よりの拠り所だった。少年は髪を伸ばし始めた。

 食べたこともない虫や草で空腹を紛らわしながら家出を続けた。ようやくたどり着いた街で、仕事を探す。このまま一人で生きていくためには、とにかく金が必要だった。
 少年はもう二度と城へ戻らないと決意し、傭兵を募集している教会を訪ねた。
 出迎えたのは、熊のように大きな男だった。
「坊ちゃん小さいな。名前は」
 訊ねられ、しばし考える。ここらではまだ身元を知られる恐れがあった。本名は名乗れない。
「……ナバールだ」
 全てを失った後も願いと共にあるために、少年はこの先の人生を共にする名を決めた。バナル、陳腐、ありきたり。貴族としての人生より、ありふれた、家族との平凡な日々だけが欲しかった。そのままを口にするのが憚かれて名乗ったのが、ナバールの始まりだった。

 名乗った頃の思いに反して、人の命を奪うたび、ナバールの名は死神の象徴として広まった。平凡な日々を得る資格も消えていった。叶わぬ願いだけを身に宿して剣を振る存在。願いだけがその身に残り、他の全てを失った。生まれた時からの名前すらももはや思い出せない、人殺しの手。染み込んだ血は、皮膚から滲みて、もはや雪げない。これではもはや、死んだ後も家族には会えないだろう。
 
 
 ナバールは、シスターを囲む山賊の一人を剣で裂いた。山賊の目に驚きの色が宿る。残る三人が慌てて襲い掛かってきたが、弱き者が何人来ようと変わらない。ナバールは、忘れたい臭いを浴びながら、造作もなく山賊を捌ききった。
 ナバールが助けた青年は、気が抜けた顔でその様子を眺めていた。
「早く消えろ」
 返り血を拭いながら伝えると、青年はおぼつかない態度で例を述べて、シスターの手を引きながら走り出した。
 消えていく青年の後ろ姿を眺めながら、男は願う。
 青年が無事にシスターを守り抜けるように、と。願った後に苦笑した。神が、罪深い人殺しの願いを聞くはずがない。

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