紋章の謎

トライアングル

 暗黒皇帝

 アリティアを奪還した一行は、グラを経由して聖都パレスを目指す。
 グラの大地では帝国兵とグラ兵が進路を塞いでいた。グラの兵たちが従わさせられているだけだと気づいたマルスは、戦う意志のない兵達を殺さないように命じた。敵を生かすことは、殺すことよりも難しい。マルスはいつも理想のために困難な選択をした。
 グラを越えた後もそうだった。マルスは敵対勢力のいる他の道ではなく、中央山脈を突破する道を選んだ。無用な戦いを避けるためだ。かつての仲間とも、見知らぬアカネイアの兵とも、なるべく戦いたくないとマルスは言った。
 作戦を聞いた誰もが、細い山道では隊列が伸びきって集団の利を活かせないと理解していた。それでも軍を抜ける者はほとんどいなかった。マルスと志を共にする者たちは、敵に襲われないよう祈りながら、急いで山道を進んだ。

 軍の先頭が山道の中腹を超えた頃、隊列の横から奇襲を仕掛けられた。相手は、かつての戦争で共に戦ってきた仲間、オレルアンズの精悍な騎士たちだった。隊列の中央部を進んでいたオグマは、丁度真正面から彼らと対峙した。
 ウルフ、ザガロ、ビラク、ロシェ。
 それぞれの目に宿った苦悩がいやでも伝わってくる。ロシェは戦うことに悩む目を、ビラクは顔見知りとの戦いを受け入れながらも苦しむ目をしていた。ザガロは深い悩みの中でロシェとウルフをそれぞれに気遣っているようだった。ハーディンの右腕的存在だったウルフの目は一際痛々しい。ハーディンを誰よりも強く信じているからこそ、戦いに疑いを抱いていなかったのだろう。かつての仲間と戦うことに気づいた苦しみを抱えながらも、自らが率先して戦わねばならないという覚悟を定めた顔をしていた。
 オグマですら、ハーディンが闇に心を奪われたことを事実として認識しても、闇につけこまれる弱さがあったとは半ば信じられずにいる。ハーディンを慕っていたウルフたちは、想いの程度に差はあれど尚更ハーディンを信じたいだろう。ましてや、彼らは人の野心や欲を強め、人格を破壊するともされる闇のオーブのことを知らないはずだ。
(俺も、貴様達の立場なら最後まで主君のため剣をとる。その選択が主君のためにならないとしても、人の温かさを教えてくれた恩人に、刃を向けられるはずがない)
 同情心を抱きながらもオグマは剣を構えた。かつての仲間だからと手加減をして、シスターのいる一帯への進軍を許すわけにはいかない。オグマが最も守りたい存在も、怪我人が出た時の手当を手伝うために、今は武器を持たずに控えているはずだ。
「悪いな」
 呟いたきり男たちの苦悩は見なかったことにした。アリティア軍の精強な兵たちに混ざりオグマも戦う。騎兵の速さを生かした攻撃に、小回りの効かない弱点をついて狙いを定めた。どれほど傷ついても、オレルアンズは攻めの姿勢を崩さなかった。双方引けを取らない互角の勝負が続く。
 拮抗した勢力。兵達に疲れが滲みはじめた。オグマも最初より剣の威力が弱まっていることを自覚していた。
 そこへ、伝令の馬が駆けてきた。
「これは、オレルアン王からの勅命である。オレルアン兵は撤退せよ。繰り返す。これは、オレルアン王からの——」
 伝令が戦場を叫んで回る。潮が引くようにオレルアンの兵たちは撤退した。ウルフたちも皆、それぞれの想いを胸に抱えながら撤退する波に混ざっていた。
 戦場にいた者は、誰一人としてその後を追うような真似はしなかった。
 オグマは、離れていく背をやりきれない気持ちで眺めた。

 ようやく辿り着いた聖都パレスは、不思議なほど静かな時間の中にあった。聞くところによれば、ミディアをはじめとする現アカネイア政権への敵対勢力が軒並み捕えられてしまったらしい。
 反発する者も消え、アリティアの倍もある勢力を抱えるアカネイア帝国。さらに、相手は国の存亡もかかっていることから全勢力を注ぎ込んでくるはずだ。誰もが困難な戦いとなる予感を得ていた。
 だが、蓋を開けてみればアカネイア兵達はその場しのぎの寄せ集めにすぎなかった。信念をもった強者を多数率いるアリティアの敵ではない。
 山道での戦いよりもずっと楽だった。寄せ集めの兵達は少し傷つけば戦意を失う。ハーディンを慕い、最後まで戦い抜く意地を示していたオレルアンズとは闘志が違った。
 今や解放軍と呼ばれているマルス達の勢力は一日とかけずに聖都パレスを制圧した。
 オグマを含むマルス軍の精鋭は、先行して城の偵察に入った。
 タリス城の何倍も広く立派なホール。正面の階段には、傷ついた姿のボア司祭が座っていた。
 傷を心配したマルスが駆け寄ると、司祭は弱々しい声で話しはじめた。
「マルス殿、お待ちしておりました」
 それからボアは、ハーディンの身に起こった変化の原因を語った。オグマも薄々は気づいていながら目を逸らしていた悲劇の真実を。
 ハーディンは、ニーナへの敵わぬ恋心に漬け込まれたことで、闇に心を奪われてしまったのだという。
 彼はニーナを愛していた。それは、婚姻が決まった時に、彼女から選ばれたことを一人の男として喜ぶほどの純粋な愛だった。けれど、ニーナの心はずっと、グルニアの将軍カミュにあった。事実に気づいたハーディンは苦しみ、殻の中へと閉じこもった。
 もはや死人だと思われたカミュへの嫉妬や憎しみを抱えながら、ハーディンは行き場を失った感情の昇華先を必死に探していたのだろう。
 だが、そこをガーネフに漬け込まれてしまった。闇のオーブはハーディンの人格をたちまち変化させ、今回の悲劇をもたらした。
 
 ボアの話を聞きながら、オグマはこの場にシリウスが居合わせずに済んだことに安堵した。表舞台から姿を消した男にこれ以上の苦しみは不要だ。
 聡い男のことだ。闇のオーブの存在を知った時には真相に気づいていた可能性もあるが、それでも今この場でボアの語る真実を聞かずに済んだことは幸いだと言うべきだった。感覚的な気づきと第三者の口で語られる事実は似て非なるものだ。後者の方がずっと残酷で、容赦がない。
 次いで嫌でも考えざるを得なかったのは、オグマ個人が抱えている、シーダへの感情の行き場だった。
 元より、伝えるつもりもなく存在してしまっただけの、主君の純粋な愛情を裏切る恋慕。
 シーダはかつて、オグマはいつでも自由になって良いのだと言った。けれど。
(違うのです、シーダ様。あなたの剣となり生きていけるのならば、俺には自由なんかいらなかった)
 オグマは望んでタリスに縛られていた。シーダのそばで大切な存在を守るために力を使うことこそが、全てに勝る望みだった。
(俺はあなたを慕い、愛してしまったのです。マルス王子との婚姻を祝福し、己の感情は叶えるつもりがないものだと言い訳を重ねながら、一方であなたの全てを望む獰猛な獣を心の奥底に飼ってしまっている……)
 オグマは無意識のうちに拳を握りしめていた。
 ハーディンのような立派な人物ですら恋心を制御できずに漬け込まれてしまうというのなら、オグマは抱える感情を捨て去る他なかった。ハーディンの変貌が闇のオーブによるものであったとしても関係ない。オグマの抱える感情が純粋な愛情の裏切りに留まらず、大切な存在を傷つけ、苦しませる可能性が問題だった。
(だからもう、これ以上はお傍にいられません。俺には、あなたのために力を使う資格すら、もはやない)
 決して顔には出さないが、心は痛くて仕方がなかった。
 どれほど痛くとも一度抱えてしまった感情は消せない。
 オグマは、シーダの望んだ形とは違うと理解しながら、自由な道を選ぶと決意した。自由な道とは、即ちタリスから——シーダのそばから離れることだ。
 戦いが終わったら暇を告げてすぐにマケドニアへ向かおう。そしてナバールとの約束を果たす。
 その後のことは何も考えられなかった。
 約束が果たされれば、ナバールはきっとオグマの前から消える。オグマには何も残らない。残せない。
 元より空っぽだった存在に、シーダが命を吹き込んでくれたのだ。吹き込まれた命が抜き取られれば、残るのは罪深い獣の側面だけだった。

 階段に座っていたボアは、安らかな表情で目を閉じている。最期に発された言葉は、他のどの言葉よりも切実で穏やかだった。
 アカネイアは滅んでも構わないが、ニーナ様には幸せになってほしい。
 幸せが愛する者との生活を示すのであれば、ボアの願いはもはや果たされぬものだ。シリウスがカミュとして生きることは二度とないだろう。
 けれど、オグマはボアの願いが叶うことを祈った。そのためにできることは何もないが、叶わなかった恋の果てに待つ生活が、悲しみと苦しみの日々だけだとは思いたくなかった。
(それではニーナ様があまりにも浮かばれない)
 かつてシーダが言っていた。困っている人を助けていれば自分にも幸せが訪れるのだと。ならば、アカネイアの民を憂いて行動したニーナは幸せになれるはずなのだ。そしてニーナを救ったハーディンもまた、報われねばならない。
(いや、これは言い訳だ)
 誰よりも幸せを望んでいるのはオグマだった。
 シーダのそばを離れても、むしろ離れるからこそ、救われた命を大切にしなければならない。もう二度と剣を下ろすことは許されなかった。いかに己の弱さを正面からぶつけられても生きるしかないのだ。
 シーダに救われて以降、オグマは一度だけ生きる道を諦めた。ワーレンで、ナバールの冷ややかな声を聞いた時だった。
 その日、オグマは初めて、抱え続けてきたちぐはぐを面と向かって指摘された。
 オグマはシーダから受けた恩を大事に抱えながら、主君のためという大義名分で命を散らせるのなら、それが一番の望みだとも思っていた。それをシーダが喜ばないと理解しながら、望んでいるのは主君を守り抜いて死ぬ最期だった。
 そんなオグマの思考を、ナバールは的確に見透かしていた。
 シーダがオグマの弱さになると言われた時、感情が制御できなくなった。オグマの存在が主君を貶す言葉に繋がったことが許せなかった。自分への怒りを認められず、ナバールへの怒りへと転嫁した。
 オグマはただの醜い獣に戻って剣を振りかざした。猛攻をナバールはくだらないと言いたげな顔で避けた。
「シーダ様は、仲間内の争いも嫌うお方ではなかったのか」
 その声の冷たさは今でも耳を離れない。抱える矛盾を真っ向から指摘された瞬間、生きる気力を失ってしまった。どれだけ悲しませまいと努めたところで、オグマはいつかどこかでシーダを悲しませてしまう。裏切ってしまう。
 ならば、今この瞬間を生きている理由はあるのだろうか。
 救われた命も、はじめて知った人の温かさも大切にしたかった。それと同じくらい、罪と後悔を抱えて生きることは苦しかった。
 オグマが剣をおろすと、ナバールは死神のように薄い気配で近づいてきた。背筋がぞっとするほど綺麗な紅い剣が感情もなく頭上へかざされた。目を瞑る。ナバールの剣でなら気持ちよく去れそうだ。
 けれど、ナバールはオグマを殺さなかった。
(いや、違うな)
 今ならばわかる。殺せなかったのだろう。剣を下ろし放心する姿は、そういう顔をしていた。
 ナバールはオグマに何かしらの共感を抱き、同情していた。
(だからこそ、俺は奴を知り、知られることが怖かったのかもしれんな)
 オグマは安らかに目を閉じたボアをみて哀悼の意を表した。
 
「……みんな、行こう」
 ボアの死を悼みながらも、マルスは既にホールの階段を数段のぼっていた。傍にはアリティアの騎士も控えている。ナバールはまだ一段目に足をのせたところだった。
 皆が、息を引き取ったボアの言葉を引きずりながら、決して振り返らずに、覚悟と光のオーブを手に前へ進む。
 戦争の終わりは近かった。
 オグマも周囲に続いて最後の決戦へと向かった。

 光のオーブの加護を受け、黄金に煌めくマルスの剣がハーディンの胸を貫いた。
 ハーディンは、死にゆく者とは思えないほど穏やかな顔をした。
「マルス王子、許せ……私は弱すぎた」
 穏やかな目の奥にある強い後悔を、オグマはたしかに見つけた。
 ハーディンの最後は立派だった。己の弱さを自覚して、マルスに討たれる覚悟を正しく持っていた。
 同時に、弱さとなった存在を最後まで愛しぬく覚悟もまた備えていた。
「私は、あなたを、最後まで愛していた……」
 ニーナのいない場所でハーディンが最期に選んだ言葉はオグマの胸に深く刺さった。
 だがいくら最後が立派であろうと、ハーディンの弱さが生んだ災いを、オグマはその身で十分すぎるほど知っている。グルニアでの戦いからずっと、大陸に戦禍が広がる様を見てきた。
 戦禍は、ハーディンの弱さがもたらしたものでもあれば、ボアの言葉が生んだ悲劇かもしれなかった。あるいは、オグマがカミュを川に落とした時から、全ては歯車のように連なった出来事として決まっていたのかもしれない。
 それらのどれが最大の決め手であったとしても、シーダの元を離れるという決意を変えるつもりはなかった。