紋章の謎

トライアングル

 トライアングル

 大陸を再び巻き込んだ戦乱は、地竜王の討伐で終わりを迎えた。全てが治まった後、マルスの元に集った英雄たちは次の人生へと戻っていった。多くはアリティア城へと戻る。オグマもその一人だった。終戦後すぐに離れるつもりだったが、別れを告げるタイミングがなかったのだ。
 アリティア城に戻った周囲が祝宴の準備に駆け回る中、オグマはシーダの活発で清楚な姿を探した。これ以上別れを引き伸ばすわけにはいかない。
 人の気配が薄い廊下を歩いていると一つだけ薄く開いている扉があった。覗き込んだ先にあったのは探していた姿だ。シーダはバルコニーで一人佇んでいた。
 様子を窺いながら静かに扉をあける。木製の扉は、意外にも何一つ音を立てずに開いた。おかげで声をかけるタイミングを見失ってしまう。
 オグマは、そよぐ海色の髪をしばらくの間眺めた。いつまで眺めても話しかける勇気が湧きそうにない。これが最後の会話だと思うと、どのような顔をするべきなのかがわからなかった。
 オグマが声をかけるよりも先にシーダが振り向いた。ふわりと舞った髪を耳にかける、細い指先。伏せられていた目がすぐにオグマを捉えた。出会った頃から変わらない、芯のある優しい眼差しだ。
「オグマ、どうかしたの?」
「シーダ様……」
 オグマは言葉に詰まって息を呑んだ。決意ばかりで何一つ言葉にできない情けなさ。
 シーダは静かにオグマの方へ近づいてきた。
 三歩分の距離をあけて二人は見つめあった。
「私には話せないこと?」
 きっと、シーダはオグマの伝えたいことに気づいているのだろう。
 それきり先を急かさずオグマを見上げていた。鼻の先は寒さで少し赤くなっていた。開け放された窓から冷たい風が吹き込む。今の時期には咲いていないはずの、花の香りがした。
「香水ですか」
「良い香りがするでしょ」
「ええ、とても」
 初めてシーダに救われた時から、随分と時が過ぎた。その間シーダはずっとオグマの人生の中心にいた。
 もう、観念するしかない。黙ったところで決意が変わることはない。シーダを目の前にすれば、嫌になる程感情を自覚させられてしまう。
 オグマはシーダから目を逸らさないよう、気を振り絞って声を出した。
「シーダ様。俺はこの場所を離れます」
「理由を聞いてもいい?」
 シーダは最初から用を察していたように落ち着いていた。
 もしかしたら、一人で佇んでいたことすら、シーダからの気遣いだったのかもしれない。
「……自由になる決心が、ようやくついたからです」
「それは、オグマのために決めたことなの」
 オグマは黙り込んだ。自分自身のためだと頷くには、消極的すぎる選択の結果だった。最後の会話で嘘を口にしたくはない。
「あなたが自分のために選んだ道ならわたしは止めない。でも、もしあなたがどこにもない罪のためにその道を選ぶのなら、わたしはオグマを探しに行ってしまう」
 その言葉だけで、シーダが何もかもを見通しているのだとわかる。
「シーダ様はアリティアの王妃になるんですよ」
「わかっているわ。でも、それでもわたしは……」
 その先の言葉は聞きたくなかった。
「大丈夫です。俺は俺の人生を生き続けます。だから、どうか幸せになってください。あなたに悲しい顔をさせるのは、本意ではありません」
「わたしはあなたにも幸せになってほしいのよ。わたしや、わたしの大事な人をいつも救ってくれたあなただから、幸せになってほしいの。……それだけなのに、どうしてもダメなのね」
「俺は既に一生分の幸せを得ているのです。人の優しさを知ったことで、俺の人生は動き始めました。すべてシーダ様のおかげです」
「そう……。あなたの気持ちは理解したわ」
 シーダは寂しげな笑みを浮かべた。
「ねえ、オグマ。最後に一つだけお願いしてもいい?」
 声を出さず静かに頷く。口をひらけば余計なことまで話してしまいそうだった。
「決して一人にはならないで。ナバールでも、サムトーでも、誰でもいいから。あなたと共にいてくれる人を見つけて欲しいの」
「承知いたしました」
 ナバールと旅をするつもりだとは、あえて伝えなかった。けれど、オグマの返事にシーダは納得したらしい。
 覚悟を決めるように唇をぎゅっと結んでオグマを見上げていた。
「ありがとう。それならば私はあなたを送り出します。傭兵団のこともお父様に伝えておくわ」
 それから、夜に人知れず咲く花のように、控えめに微笑んだ。
「オグマ、これだけは忘れないで。オグマはいつでもここに戻ってきていいんですからね」
 シーダは去ると決意したオグマよりもずっと未来まで見つめている。
 オグマは形だけでも前を向いて最後の会話を終わらせようと思った。
「はい。……行って参ります、シーダ様」
「いってらっしゃい、オグマ」
 アリティアに降り注ぐ日差しは暖かかった。
 心の真ん中に空いた穴を和らげるように、送り出してくれたシーダの顔を思い出す。
 アリティア城から遠く離れ輪郭すらも見えなくなってから、オグマは空を見上げて一筋の涙をこぼした。
 
 
 
 マケドニアの風は、湿っぽいがざらついていて痛かった。その痛さが今のオグマには心地よい。
 オグマは港の近くをしばらく歩いた。手頃な飲み屋に入り酒を頼む。
「なあ、黒髪の剣士の噂はないか?」
「さあ。聞いたことがないな」
 飲み屋を渡り歩くうちに、ナバールが酒を嫌っていたことを思い出した。
 時期に暗くなり宿を探した。
 翌日は朝早くから海辺を散歩して回った。切り立った海岸線に佇む静けさを探す。
 その背を一目見ただけでナバールだと分かった。風に揺れる長い髪。一瞬、シーダに別れを告げた時のことを思い出して、すぐに数回瞬きをした。
 立ち姿に滲む孤独の気配は、まさにナバールのものだ。
「来たぞ」
 声をかけると、端正な顔がじっとオグマを見た。
「随分と早かったな」
「気のせいだろう」
 ナバールはそれ以上何も聞かずに港の方へ歩き出した。マルスとシーダの結婚式がまだ執り行われていないことなど、とうに承知のことだろうに、ナバールは触れてこない。
 興味がないのか、気を遣っているのか。
 考えてから、ナバールが気遣っている姿は想像できないと思った。
(あいつにとっては、俺が約束を果たしにきたという事実だけがあるのだろう)
 オグマにもその方が都合がいい。
 ナバールの後に続いて、オグマは船に乗った。タリスよりも磯臭い風が強く吹き、瞬く間にアカネイアを遠ざけていった。
 
 追い風のおかげか、船は二日とかからずに目的地へと辿り着いた。道中、ナバールとオグマはほとんど言葉を交わさなかった。
「あんたら、本当に一緒に旅をしているのかい?」
 船長が訊ねてくるほどに二人はよそよそしく、それでいて付かず離れずの距離だけは保っていた。
 オグマが船長に運んでくれた礼を述べている間に、ナバールはほとんどない荷物をまとめて歩きだしていた。
 海路を進んできた鼻では、ナバールが前に言っていた磯臭さは全然わからない。温い風の温度はよくわかった。
 オグマは無言で進む背の数歩後ろを歩いた。
 夕陽が差す時間、ナバールは風景とよく溶け込む。見失わない程度に距離を縮めて歩いていると、いつの間にか立ち止まった姿が不機嫌そうに見上げていた。
「今日はここで休む」
 久々にナバールの声を聞いた。
 休むと言われても、周囲には建物ひとつ見当たらない。近くに森と平坦な道とがあるだけの草原だ。
「野宿か」
「嫌か」
「別に構わん。それよりも後どのくらい歩くんだ」
「あの山の手前までだ」
 ナバールはなだらかな山を指で指していた。日が沈み切れば闇にかき消されそうなほど薄い輪郭に、道のりの長さを突きつけられる。
「三日はかかりそうだな。途中に川はないのか」
「あるが汽水だ」
「湖は」
「娘みたいなことを聞くな」
 ナバールが柔らかく笑った。珍しい表情を思わず凝視する。しばらく見てしまってから、オグマは取り繕うように聞いた。
「貴様こそ、その手入れしている髪が傷んでも良いのか」
「構わぬ。もうすぐ必要なくなるものだ」
 ナバールはいつの間にか集めていた枝に火をつけた。しけった木の煙は目に染みる。ごほごほと咳をしながら、風上に座るナバールの隣へと腰をおろした。
「恨みだけでこうも綺麗に伸ばせるんだな」
「すべて仕方のないことだったのだ。……お前こそ。その顔の傷は自分でつけたのだろう」
「どうだかな」
 ナバールは焚き火をじっと見ていた。感情の薄い、何を考えているのかもよくわからない顔で、火を絶やさぬよう面倒を見ている。
「先に寝ていろ」
 そう言われて、ナバールの寝顔は想像がつかないと思った。船の中でも、ナバールは眠った姿を見せていない。細く鋭い目の下の隈は前からあるものだっただろうか。
「貴様は寝ないのか」
「俺はまだいい」
「ならば、俺も起きていよう」
 オグマは旅の終わりを考えていた。
 およそ三日後、すべてを終えたとき、ナバールとオグマが共にいる理由は消える。そうすればナバールは姿を消すだろう。暗黒戦争の終わりの時がそうであったように。
(……だが、シーダ様の願いを果たすならば、そういう訳にもいくまい)
 結局、離れたところで淡い気持ちも誓った忠誠も消えずに残っている。
 だからせめて、今後もナバールと共にいるための努力だけはしたかった。無言で進む旅ではなく、少しでもナバールを知り風の吹く先がわかるようになりたいと思った。
 木々の燃える音が静けさの中でぱちぱちと響く。
 無表情に見える顔でナバールは何を考えているのだろうか。表情の奥にある感情は読み取れない。その感情が読み取れるようになった時、オグマは連れとしてナバールの横を歩こうと決めた。
 
 結局ナバールは火の番を交代する時に起こすと言って、オグマを先に寝かせた。
 そして目覚めた時には空の端が明るく白んでいた。
「起こすのではなかったのか」
 火を守る背中に呼びかける。
「お前が起きなかったのだ」
 オグマは眠りの浅い方であるが起こされた覚えはなかった。とはいえ、不機嫌そうな声を聞くからに、ナバールも嘘はついていないのだろう。
「……悪かった」
 ナバールは返事をせず朝食をとりはじめた。オグマもそれに倣って干し肉を取りだして齧る。
 食事が終わるとナバールはすぐに立ち上がった。オグマは食べかけの干し肉を手に、先を進む姿の斜め後ろを歩く。
 互いにぽつぽつと言葉を交わしながら、奥へ奥へと道沿いに進んだ。
 
 ここだ、とナバールが言った場所は数軒の家があるだけの小さな村だった。
 ナバールは迷わぬ足取りで進み、平たい土の前で足を止めた。
「遅かったか」
 その言葉だけで全てがわかった。ナバールが関係の精算を望んだ人物はもういないのだ。
 排他的な村らしく、二人を見た住民の目は冷ややかだった。ひそひそと聞こえる声にナバールを引っ張ってこの場を離れたくなる。
 そこへ一人の爺さんが声をかけてきた。
「珍しいね。旅の人かい?」
「ええ、そんなところです。すみませんが、そこに住んでいた方は……」
「ああ、たしか二年前に亡くなられたよ。ご家族三人、まとめて病にかかってね。あそこの丘に墓ならあるが……、あんた親戚かい?」
「遠縁だと聞き訪ねて参りました」
「そう、残念だったね」
 爺さんは悔やむように目を伏せてから、オグマの奥に目を留めた。
「あれは、あの黒髪はおまえの連れか?」
 先ほどまでの親切から一転して、恐れるような顔をしている。
「そんなところで——」
「今すぐ去れ!」
 突然豹変した爺さんの怒声にオグマの肩が跳ね上がった。
 ナバールは諦めた顔で爺さんを見ていた。様子を知ろうと一瞥しただけのオグマの視線に気づき、長い足でさっさと丘の方へ歩いていく。
 叫ぶ爺さんを宥めようとしてオグマは諦めた。村人全員の目が凍てついていた。同情すらない、悪を排除したがる者の目だ。
「すまなかった、邪魔をしたな」
 剣を抜かない代わりに村人たちを睨みつける。容貌ひとつだけで人を追い詰める愚かさが、どうしても許せなかった。
 奴隷剣闘士だったと言うだけで、理不尽な処刑を受けた過去。逃げたなら仕方ないという目で大衆に囲まれただけでも堪えるものがあった。
 それが、ナバールの場合は生まれつき備わったものだったのだろう。黒髪に生まれたのなら仕方ないと、村人の迫害に耐えて奴は生きてきたのだろうか。
 オグマはやり場のない怒りを抱えながら、ナバールの歩いた道を駆けた。
 
 墓地に辿り着くと、ナバールは一つの墓の前で立ち尽くしていた。
 その心にぽっくりとあいた穴がみえる。今やこの男を生かす存在は自分しかいないのではないかと思いたくなるほど、ナバールには何も残っていなかった。
「あいつらを斬れば、少しは気持ちが晴れるのだろうか……」
 相変わらずの仏頂面のままナバールは呟いた。オグマにはその奥にある痛みが手に取るようにわかった。
 かつてオグマも同じことを考えた。
 過去の全てを自分の手で斬り捨てれば、苦しみからも解放されるのだろうか、と。そして考えを否定し、ナバールに手を下してもらう道を選んだ。
 斬ったあとに救いがなければ、今度こそ己の心を助ける手立てを失ってしまう。何よりも、命を奪う行為は罪としてその身に跳ね返ってくるとオグマは知っていた。
「きっと変わらんさ。それくらいで気持ちが晴れるなら、俺はとうの昔に過去を捨てている」
「そうか。お前が言うのなら、そうなのだろうな」
 ナバールは確かめるように腰の剣に触れて、すぐに力なく手を下げた。
 オグマは今にも消えそうな男をどうにかして繋ぎ止めたかった。空っぽになった男の心を埋めて救ってやりたかった。ナバールのためだけではない。オグマ自身のためにも、そうする必要があった。
 オグマには、互いが互いを必要としていることが痛いほどよくわかっていた。
(コイツも、今ならば俺がそばに居続けることを受け入れるだろう)
 オグマに必要な事実はそれだけだった。
 オグマは墓の前で立ち尽くすナバールの体を優しく抱きしめ、その細さに目を見開いた。
(こんなに痩せた体でこいつは戦っていたのか)
 抱きしめたきり、言葉が出てこない。ナバールの気を晴らす方法を必死に考えたが、この場にそぐわないものしか思い当たらなかった。
「ナバール、……その、俺と戦いたいか」
 口にしてから、自分に呆れた。
 ナバールはしばらく動かなかった。抱き締める腕に力をこめる。
 やがて温かな風が吹き、一個分下にある頭が横に振られた。
「まだ、白髪になっていない」
「そうだったな」
 吹いた風からは甘い香りがしていた。
 オグマがこの世で一番忘れられない花の香りだ。
「いつだか、お前の大事な姫と話した時に同じ匂いがした。……不思議な気分だ」
 ナバールはするりと腕から抜け出して、先の見えない道を進んだ。
 オグマはナバールが風に攫われ消えぬように、その背を追いかけた。

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