白昼の一幕
昼下がり、名も知らぬ街の宿で、オグマはナバールから鋏を手渡された。ナバールの生い立ちを知ってから、既に数週間が経過していた。
意図をつかめずに、オグマはじっと渡されたものを見た。しばらくそうしていると、ナバールはぶっきらぼうな顔のまま、ただの世間話のようにさりげなく頼んできた。
「髪を切ってくれないか」
オグマは思わず、正面からまじまじとナバールの端正な顔立ちを見つめた。綺麗に伸ばされた黒髪はナバールによく似合っている。
もったいない。
正直な感想が脳裏を掠める。しかし、それを素直に伝えることはどうにも癪に触り、オグマは無言で鋏を置いた。
「どうした。鋏では切れぬというのなら、おまえの剣でも構わない」
ナバールは大したことではないと言いたげに、木製の椅子に腰掛けている。椅子の背もたれにかかった髪は、窓から差し込む光を反射して艶めいていた。
「そうではない、なぜ俺に頼む。一人で勝手に切ればいいだろう」
言い訳も思いつかないまま言い返すと、ナバールは表情を変えずにぼやいた。
「オレが切っては意味がない」
「なぜ」
「オレの手では、終われぬのだ」
その言葉に、はっとさせられた。
復讐を遂げられないと知ったナバールの姿を思い出す。心の支えにしていたものを失ったことによる空虚が滲む姿。
オグマはその姿を見た時、初めて、心からナバールを理解してやれた気がした。自由人で何を考えているかもわからないナバールが、あの瞬間は間違いなく人の子だった。
滲む空虚が己のものと重なった時、オグマはナバールを抱きしめていた。
そして、腕から抜け出した姿に追いついた時には、ナバールの振る舞いはいつも通りに戻っていた。
来た道を戻り船に乗った時も、新たな島に足を踏み入れた時も、過去を受け入れたかのように、ナバールは平然としていた。
平気なはずがないというのに。
「ノルダの借りか」
ナバールは無言のまま、頷くこともなく背中をむけ続けていた。
鋏を右手に持ちながら、もう片方の手でナバールの髪に触れる。さらさらとした髪は、掬ったそばから指の隙間を抜けて流れおちていった。
「切った後は、もう伸ばさないのか」
髪がなびく後ろ姿を思い出しながら、気づいた時には訊ねていた。
「考えていなかった」
「切る前に決めておけ」
ただオグマが知りたかっただけの言葉に、ナバールは疑問を持つ様子もなく唸った。
「……お前は、今でもオレの髪を綺麗だと思うか」
想定外の質問に、どう答えるべきか詰まってしまう。くだらないことを聞くなと一蹴することが惜しまれる程度には、長髪はナバールに似合っていた。無言で口を引き結び、考えているふりをしながら目の前の髪を弄ぶ。髪は何度でも指先から流れ落ちた。やがて、小さな笑い声がした。ナバールの声だ。こんなにも優しい声で笑えるのかと、意外に思うのは二回目だった。
「決めた。また髪を伸ばす」
オグマはそうか、と呟いて髪に鋏をあてた。指に力をこめると、鋏の動きと共に長い髪の束が川のように流れ落ちた。同じ動作を繰り返し、髪の一束一束を、ちょうど首の中心くらいの長さだけ残して地面へと落としていく。
「できたぞ」
不揃いな毛先に申し訳なさを抱きながら、宿に備え付けてあるらしい質素な手鏡を渡した。露骨に眉間へ皺を寄せるナバールの姿が鏡越しに見えた。
「汚い……」
「お前が頼んだのだろう」
「こんなに不器用だとは知らなかった。お前の剣筋の正確さはどこへ消えた」
「鋏と剣は違う」
「剣でも構わぬと言った」
「仕方ないだろう、人の髪など切ったことがない」
それもそうか、と頷いた後も、ナバールは唇をわずかに尖らせていた。あまり表情を変えない男が子供のように不貞腐れる姿がなんだか可笑しく、じんわりと笑いが込み上げてくる。
笑いを堪えていると、鏡越しに見えるナバールが、ふいに表情を和らげた。
「珍しい顔だな。今回は許してやる」
「は?」
「……何でもない。少し、風にあたりにいく」
ナバールは体にひっかかる髪を手で払い落としながら立ち上がった。オグマが呆然としているうちに、部屋を出ていってしまう。
オグマは、散らばった髪を拾い集めた。切り落とされてなお艶が残る黒髪を手元で見つめる。
(一体、なんだったのだ)
短くなった髪の隙間から見えた、薄桃に色づいた耳の色。
オグマはそれきり深く考えようとはせず、ナバールが座っていた椅子に腰かけて、気まぐれな男の帰りを待った。