開戦
いつもと同じ朝だった。父と朝食をとり、外に出てエルカイトの世話をした。あいた時間をどうしようかと悩むような、そんな日常の延長で突然戦いは始まった。
その日、オグマは朝早くから出かけていた。治安維持のために、部下たちと国の巡回をしにいくと言っていた。
手伝いに行こうかしら。
時間をもてあましていたシーダがエルカイトに跨ろうとしたとき、港から岩を削るような荒々しい風が吹いた。なんだか、嫌な予感がする。
シーダは一度地面に立ち直した。ざわつく胸をなだめながら、じっと港の方角を見ると、視界の奥に、オグマと共に国を巡回していたはずの部下たち三人の姿があった。慌てた様子で走っている。表情は、半ば怯えているようにも見えた。
部下たちの近くにオグマの姿はなかった。途端にシーダにも緊迫感が伝わってきた。
「ねえ、オグマはどうしたの」
お腹の底から大きな声を出して訊ねた。部下たちは揃ってシーダを見た。
「隊長なら、俺たちにみんなを逃がせって言って一人で敵を引き受けちまった」
「ガルダの海賊が襲ってきたんです」
「姫様、今は早く逃げてください」
普段は陽気な男たちが、息を切らしながら口々に声をあげた。
オグマが一人で戦っている。海賊が襲ってきたというからには、結構な数だろう。次々と襲いくる海賊たちを相手に、オグマ一人で戦い抜くことができるのだろうか。
不安が一瞬で頭を埋め尽くす。それも短い時間のことで、シーダはすぐに前を向いた。
きっと大丈夫だ。この八年間、オグマとは家族のように近くで過ごしてきた。シーダはオグマの強さをよく知っている。
(だけど……)
だからといって、言われた通りにシーダ一人が逃げることはできない。シーダだって、タリスで暮らすみんなを守りたかった。
「わたしは逃げない」
ペガサスナイトになるための訓練は積んできた。本当は戦いたくない。けれど、皆を守るためなら武器をとる覚悟はできている。
ペガサスの横に結びつけてある槍に手を添えて、心の中でエルカイトに問いかけた。
(あなたも、一緒に戦ってくれる?)
エルカイトは、問いかけに応えるように高らかに嘶いた。シーダの決意を阻むものは、もはやどこにもない。
「わたしも、みんなと一緒に戦うわ」
シーダの決意に、オグマの部下たちは戸惑いがちに顔を見合わせた。声を出さずに頷き合い、すぐに年長者のバーツが進みでた。
「それなら、どうかマルス王子に連絡を。姫が行くのが一番はやい。俺たちだけじゃ人が死にすぎる」
「わかったわ。あなたたちも気をつけて」
シーダは今度こそエルカイトに跨って空へと昇った。皆の無事を祈りながら、マルスの元へ急ぐ。道中に吹く風は身を震わせるほど冷たかった。
マルスと彼の元に集う騎士たちは、勇敢に海賊を倒していった。
「シーダ、ぼくたちから離れないで」
すぐにでも城へ戻りたいシーダの気持ちを見透かしたように、マルスが釘を刺す。
救援要請を受けたマルスは迷うことなく戦いを決意してくれた。シーダの大切な場所を守ろうと、必死になってくれている。
「はい、マルス様」
シーダは城の皆が心配な気持ちを抱えながら、マルスのそばで槍を振った。
はじめての実戦。緊張で手が震える。
突き出した槍で血を流す海賊の姿を見た瞬間、シーダは意思に反して怯んでしまった。守るために振り下ろす槍の先に、生きている人がいることを、正しい意味で理解できていなかった。
怯んだ隙に弓兵が狙いを定めて矢を飛ばしてきた。かわそうとしたが、恐れに震える体ではうまく避けられない。
矢がエルカイトの真っ白な羽を貫き、傷口から赤い血が滲んだ。甲高く痛々しい嘶き。
「シーダ、——」
マルスが心配そうに叫んでいた。
大丈夫だと伝えるためにも、上空でバランスを崩したエルカイトを必死に勇気づける。だが、エルカイトもまた初めての痛みに動揺し、いつもの飛び方ができなくなっていた。
(戦いが、こんなにも恐ろしいものだったなんて……)
シーダにあったのは、皆のために命を危険にさらし、槍を振る覚悟だった。それすらも、想像の中の戦場に対するものだった。シーダが覚悟を決めた戦場に、人の悲鳴はなかった。
足が震える。弱気になってはいけないと、気を引き締め直して周囲を見渡した。
シーダに気を取られているマルスの近くに、忍び寄る敵の姿がある。
「マルス様、危ない!」
叫び声にマルスが振り向くより早く、ジェイガンが敵を薙ぎ払った。
「シーダ姫、どうか後方へお下がりください。ここは我らで抑えます」
ジェイガンの目は鋭く恐ろしかった。覚悟を定めた武人の瞳。マルスを守るためなら誰が相手でも槍で貫くと、瞳の鋭さが物語っている。
シーダにはその覚悟がない。これ以上意地を張っても周囲を危険に晒すだけだ。
(オグマは、こんな恐ろしい場所で部下を逃して一人で……。わたしには、とても真似できないわ……)
味方の弓兵ゴードンがいる場所まで後退しながら、シーダはほんの欠片だけ、オグマの抱えている孤独の理由がわかった気がした。
タリス城の近くまでたどり着いたときには、海賊たちのほとんどがオグマによって追い払われていた。まだ戦いの痕跡が残るタリス城の庭に、戦地で感じた恐れが蘇る。いつまでも怯えているわけにはいかないと気を強く保ち、シーダはアリティア軍の皆を謁見の間まで案内した。
謁見の間には、シーダとマルスとジェイガンだけが入った。
マルスとシーダが先を進み、ジェイガンはその一、二歩後ろを続いた。モスティン王の前で礼儀正しく頭を下げたマルスに倣って、シーダも形ばかりの礼をする。
シーダの父モスティンは、怪我ひとつなく玉座に腰掛けていた。その傍にはオグマもいた。片膝をついて恭しく控えている。激しい戦いだったに違いない。体についた返り血こそ拭われていたが、簡素な革鎧にはまだ血の跡がいくつも残っていた。
「マルス王子、よく無事にここまで。お礼を申し上げますぞ」
モスティンはおおらかな態度でそう言った。シーダの隣にいるマルスは、その言葉を受けて心温まる優しい笑みを浮かべた。
「モスティン様、礼を言うのはこちらです。二年前、アリティアから落ち延びてきた私たちを王が迎え入れてくれたからこそ、今の私たちがいるのです」
モスティンも満足気に頷いて笑みを浮かべた。戦いの後とは思えない穏やかな空気があたりを包む。
しばらく続いた穏やかさは、モスティンの試すような視線と共に一転した。
「ところで、この後はどうされるつもりかな?」
妙な緊張感が謁見の間に広がる。シーダは、父がマルス王子を信じて質問を投げかけたことを理解していたが、それは家族だからだ。
父の思いが伝わっているのか不安になりながらマルスの横顔を窺うと、意外にも、堂々とした君主の態度があった。そして、マルスは怯むことなく、確固たる意志をもつ声で告げた。
「私たちはオレルアンへ向かいます」
そこは、アリティアの民が守るべき、宗主国アカネイアの王女がいるとされる国だ。
マルスの言葉にモスティンは穏やかさを取り戻した。それから、一瞬だけオグマに視線をやった。
「ならばわしからも、わずかだが兵をお出ししよう。オグマ、頼まれてくれるか」
「はい」
王の傍らに控えたまま、オグマが短く静かな返事をした。
「シーダ、どうせおまえも行くつもりなのだろう」
今度は父としての言葉だった。シーダは迷わずに頷いた。
「はい、行きます」
戦いの恐怖はまだ身に染みていた。けれど、マルスとオグマが戦いの道を進むときに、シーダだけが臆して逃げることは、どうしても考えられなかった。
平穏な時間も束の間。旅支度を整えると、マルス率いるアリティア解放軍——軍と呼ぶにはまだ小規模だが、アカネイア王女の救援に向かう覚悟と、アリティア騎士の誇りのために皆そう呼んでいる——は船に乗ってタリス対岸にあるガルダの港に降り立った。
シーダがオグマと出会った頃は平和な港街だったガルダも、今は海賊たちが我が物顔でのさばっている。さらに、アリティア解放軍の旗揚げが大陸に伝わっているのか、わずかながらグルニアの騎士たちの姿もあった。
「嫌な予感がします」
呟いたのはアベルだ。間をおかずカインが同意した。
「そうだな」
迫り来る戦いの空気に、味方の緊張が高まっていく。その中で老将ジェイガンだけは冷静だった。
「王子。北と、……それから西にも敵の気配があります。早く橋を押さえなければ囲まれるかもしれません」
「わかった。では兵をわけよう。まずは……」
まだ指揮に不慣れなマルスが戸惑っていると、それを察したらしいオグマがきっぱりと声を上げた。
「マルス王子、北の敵は俺が一人でなんとかします。どうか、王子たちは先へお進みください」
その姿に分厚い壁を感じ、途端に嫌な予感が背筋を駆け上る。
(タリスの時はオグマを信じられたのに……)
シーダは嫌な予感に駆られたまま立ちすくんで動けなかった。マルスも、オグマの申し出の危険性に気づいたらしい。示された道を安易に受け入れることなく、物腰柔らかに提案を拒んだ。
「オグマ、それは危険だよ。タリス王からきみを預かった立場として許可できない」
「俺はタリス城が襲われた時も、城へ続く橋を一人で守りぬきました」
オグマは、だから大丈夫だとは言わなかった。それが余計にシーダを不安にさせる。オグマは嘘をつけないけれど、相手を安心させる物言いはできる人だ。
シーダは縋るようにマルスを見た。マルスの純朴な瞳と視線が交わる。マルスは眉根を下げていた。わずかな申し訳なさを感じている時の顔だった。
「きみの部下を連れていくなら」
「……わかりました」
オグマは簡素に頷き、部下を連れて敵の気配がする北へと走っていった。一刻も早く島へ続く橋を押さえたいのだろう。
わかってはいるけれど。
「シーダ、気になるのかい」
「はい……」
「オグマなら大丈夫だよ。彼は己の力を知っているから」
マルスはそれだけ言うと、軍を率いる者の顔になった。
「オグマたちが敵を押さえてくれている間に進もう。騎兵はオグマたちの背後をとらせないよう、先行して橋を押さえてくれ。ドーガ、きみには敵部隊の引きつけ役を——」
淀みなく指揮を飛ばしていくマルスの姿。最後にシーダの名が呼ばれた。
「シーダ。きみは空から全体の戦況を見てほしい。何かあれば伝えてくれ。弓兵には気をつけて」
返事をしながら、気を遣わせてしまったと思った。
(マルス様は、わたしが戦いを怖れていることに気づいているのね)
皆を守りたい気持ちも、オグマの孤独を埋めたいという気持ちも、何一つ変わっていない。変わってしまったのは周りだ。
冷たい戦争の空気に皆が馴染んでいる中、シーダだけがタリスの平和な空から離れられずにいる。戦いを恐れ、成したいことのために動けずにいる。
マルスの指揮に従って兵が進み、シーダも上空へと昇った。
オグマは部下三人を後方に下がらせ、結局一人で橋を押さえていた。嫌になるほどオグマの強さが伝わってくる光景だ。アベルとカインも、二人並んで敵を相手どり立派に役目を果たしていた。シーダと年の近いマルスですら、戸惑いながらも英雄アンリの血を引く子孫として立派に役目をこなそうとしている。
シーダも変わらなければならない。
(行くと決めたのは、わたしよ)
槍を握る手に力をこめて、仲間を守るため上空を見下ろす。
注意深く戦場を観察していると、遠くに知り合いの姿を見つけた。
戦場への恐怖を抱えながら弓を射る青髪の平凡な青年、カシム。カシムは解放軍に弓を引いていた。けれど、その姿は戦いに染まりきっていない。
かつてシーダが出会った時、彼は争いを嫌う優しい心を持っていた。きっと何か事情があるのだろう。
シーダは矢が途切れたタイミングを見計らって、カシムの前に降り立った。
「カシム、どうして?」
問いかけると、カシムは家族のために仕方がなかったのだと事情を話してくれた。病気の母を助けるためにお金が欲しかったのだという。
「それなら、これを持ってお母様のもとに帰っておあげなさい」
シーダが金の入った布袋を差し出すと、カシムは恐縮したように身をすくませた。何度もシーダに礼を述べて戦地から離れていく。
シーダは再び空高くを飛びながら、多くの血が流れる戦場で一人を助けられたことに安堵していた。同時に、この先どれほど過酷な戦いが待ち受けたとしても、この感情を忘れたくないと願った。
「苦しんでいる人がいたら助けてあげなさい。そうすればきっと、シーダも皆も幸せに過ごせます」
母の言葉をぽつりと呟く。
戦いは依然として恐ろしいままだ。けれども、シーダだから助けられる人がきっといる。
槍を握る手に、もう一度力をこめた。戦場に染まらずに戦いぬくことは、きっと簡単ではない。そのためにも強くなるのだと、シーダは自分自身の心に誓った。
