紋章の謎

トライアングル

第二章 何もかもお前のせいだ

ナバール

 
 アリティア王国を奪還して騎士たちが湧き立つ中、ナバールは一際強い疎外感を抱いていた。人が近くにいる時はいつだってどうしようもない疎外感がある。ただ、我慢できるかどうか強度の差があり、アリティア奪還直後に得たものは逃げ出したくなる類だった。
 皆が城で祝宴をしている中、功労者の一人として柄にもなく讃えられていたナバールはふらりとその場を離れた。
 雲一つない満月だった。少し前まで戦争をしていたとは思えない清々しい香りがする。草原には踏みしめられた跡や血の名残が無数に残っているが、吹く風はのどかだ。
 アリティア城のある島と他の島とを繋ぐ橋の手前に、一本の大木があった。大木に突き刺さっていた矢を引き抜いて、ナバールはその場に座った。
 欠けている矢羽を弄んでぼんやりと空を眺める。アリティア軍に雇われて以来、時々自分を見失いそうだった。
 
 ずっと、恐れられるか虐げられるかの人生だった。サムスーフ山で盗賊に手を貸していた時も、別の賊に雇われていた時も、奴隷として暮らしていた時も。どこにいても、人としての居場所はなかった。誰にとっても「ナバール」は記号であり、内面に踏み込み関わろうとしてくる人はいなかった。
 ナバールも記号とされることに慣れきっていた。慣れきった結果、ナバールを人間として扱ってくれた姉を見つけたいと願いながら、それすらどうでもよくなっていた。
 いっそ、記号でいることをナバール自身が望んでいたのかもしれない。
 人間的な感情の機微を自身に見つけたくなかった。見つけてしまえば、まだ剣を握り始めたばかりの幼少の記憶が蘇り、人恋しくなる。人間であることを嫌でも自覚させられてしまう。
 記号として生きることは、人並みの人生を諦めるために必要だった。
 だが、アリティア軍に身をおいてからのナバールは間違いなく人間だった。初めてオグマを見た時の高揚感が、ナバールを人間にしてしまった。
 最初はただ、強そうな剣士だという印象を受けた。夜闇を一人で歩く姿にまったく隙がなかった。九割は仕事、残り一割はそれこそ人間的な興味で相手の行く道を塞いだ。姿だけで認めた強者は、ナバールと距離をとって立ち止まった。
「貴様、ナバールか」
 男は見た目通りのがさついた声をしていた。
「ああ」
 頷きながら剣を構えると、相手も同じように大剣をとりだした。赤と銀色の刀身がそれぞれに月明かりを反射して不穏な色を出す。
 一呼吸。先にナバールが動いた。急所を狙って斬りかかった時、妙な感覚があった。男の剣に生への執着を感じなかったのだ。
 ますます興味がわいた。目の前の男は人間らしさを捨て、記号として生きてきた同類なのだろうと思った。
 それから、こいつが相手ならば、死んでも殺しても悔いはないと感じた。
 刀身に全神経を集中させる。全身が熱を帯びた。深い交わりの中で、男の振るう生の執着を感じさせない剣が、生きるために磨かれてきた剣闘士のものだと悟った。その瞬間、大陸中で噂されている一人の剣士の名が頭をよぎった。
 どこに雇われても、一人は尋ねてくる者がいた。お前はオグマより強いのか、と。その時はほとんど気に留めていなかった言葉が、実力の拮抗する強者と剣を交わし、初めて意味を持ち始めた。
「お前、オグマか」
「……そうだ」
「やはりか」
 名を知ればそれ以上の言葉は余計だった。
 久しく覚えのなかった死の気配を感じながら剣をぶつけあう。オグマも同じように嬉々とした顔をしていた。
 短くも長い斬り合いの中で、一度オグマの意識が離れた瞬間があった。遠くからペガサスが近づいてきたのだ。
 ナバールはオグマの意識が離れたことを知りながら、斬る選択をできなかった。妙な苛立ちと意地が相手の注意を引き戻すための剣筋を選ばせていた。オグマもナバールの振った剣の意図に気付いたらしい。その後はナバールだけを見て戦い続けた。
 互いの剣がぶつかり、激しい音が鳴る。地を蹴って距離をとった。次に仕掛けた時、勝負が決まる予感があった。自然と口角があがる。オグマと二人。生と死しかない世界を久々に引き出された人間的な感性が楽しんでいた。決着をつけるのが惜しい気持ちと、早く結末を知りたい気持ちが相反する。オグマもしばらく仕掛けてこなかった。
 二人の呼吸が合い、同時に地を蹴った。
 しかし、決着はつかなかった。ペガサスの女が邪魔をしてきたからだ。
 人を助けようとする割に、望みが叶わないなら自分を斬っても構わないと言う奇妙な女だった。
 ナバールは仕方なく剣をしまった。武器を取らない者を斬る趣味はない。何より、オグマの気迫が全く別の種類に変わっていたことが憎たらしかった。剣士同士の畏敬の念が、ただの醜い男の執念へと変化していた。
 オグマは記号ではなかった。人を大切にする感情を知っている。愛することを知っている。ナバールが手放した、あるいは最初から持ち合わせていない感情を大事に抱えていた。
 オグマを自分と同じ場所へ引き戻したかった。剣を交わしていた時に得た高揚感が頭から離れない。オグマの剣がそばにあれば、更なる強さを得られる。
 入り乱れる思考の何が決め手だったのかはわからない。
 はっきりと言えることは一つ。ナバールは、オグマという男のそばにいるため、アリティア軍に手を貸すと決めた。
(そうだ。オレはあの日、今までの生き方よりもアイツを選んだのだ……)
 
 雲ひとつない空に浮かぶ満月をじっと見つめる。
 アリティアを取り戻した以上、いつかはドルーアの軍勢を倒すためマケドニアへ向かうはずだ。苦い記憶のある、故郷とも言いたくない出生の地。
 各地を転々としていた時ですら無意識に避けていた場所が、今は恐ろしいものに思えて仕方なかった。
 オグマとノルダで交わした約束が嫌でも意識される。
(軍を離れるならば、今しかないだろう)
 指先でいじっていた矢羽はちりちりになっていた。矢を中心から折り曲げる。断面を指で撫でると、ささくれがささった。
(だが、逃げた先にアイツはいない)
 もう一度月を見ようと顔を上げると、大きな影に邪魔された。その瞬間だけは一番会いたくなかった男——オグマの影だ。
 ナバールは気配にすら気づいていなかった。不覚だった。驚きを残したまま目を交わす。しばしの停滞。
 やがて、オグマは丁度いま出会ったのだと言いたげに声をかけてきた。
「貴様もいたのか」
「いたら悪いか」
「いや、俺も同じだ。どうにも功労者のように扱われるのは居心地が悪くてな」
 オグマは断りもせず隣に座り、持ってきたらしい酒瓶をちまちまと煽った。
 アルコールの特徴的な香りが鼻につく。
 ナバールは横顔に抗議の視線を送った。オグマは気づかない。いつだって、オグマはナバールを見ていない。話しかけてくるようになったのも、大事にしている主君の指示があるからだと知っていた。
 だから、交わした約束もきっと覚えていない。まだパレスを奪還する前、ノルダでオグマの過去を潰すときに交わした口約束。
 忘れているのならば、それでも構わなかった。いっそ滲ませてしまった過去ごと忘れて欲しいとすら思う。
(オレの古巣を潰すときには付き合ってもらう、か。我ながら女々しい。あんな約束、するのではなかった)
 ナバールの後悔もオグマは知らない。伝えるつもりもない。
 オグマは月明かりでもわかるほど赤く頬を染めていた。大して楽しくもなさそうに酒を煽っている。
 いつまで経ってもオグマは視線に気づかなかった。仕方なく話のネタを探した。周囲にも、ナバール自身にも何もない。諦めて無言を貫こうにも、苦手なにおいを我慢するだけというのは気に食わない。
 結局、嫌いな酒しか話題にできなかった。
「そんなものが美味いのか」
「気になるなら貴様も飲めばいい」
 口をつけたばかりの瓶が差し出され、一層強いにおいが鼻をついた。
 オグマはナバールの視線に気づかないが、出会ったばかりの無碍な扱いもしてくれなくなった。
「酒に頼るのは、弱い人間のすることだ」
「そうかもな」
 わざと怒らせようと憎まれ口を叩いても、ちっとも見限ろうとしない。
「俺は結局、貴様のように己が力のみで立ち、世界を渡り歩く生き方はできないのだろう」
 オグマはそう言って酒を煽った。
 ナバールは、どうやってオグマと関わるべきかわからなかった。心の中にある欠落の跡を埋めるために求めるべきものが、剣であるのか、人であるのかすらも。
 最近は人恋しさと無縁ではいられなくなってしまった。目を背け続けてきた心の空洞を、ひどく寂しく感じるようになってしまった。
 理由もわからないままオグマを怒らせていた頃に戻りたかった。記号と人間の狭間を漂っていたあの頃ならば、まだ昔の人生に戻れたかもしれない。執着心を忘れ、全てを諦めて生きられたはずだ。
 いっそ、今からでも間に合うだろうか。何もかもを忘れられたら、この感情も変わるのだろうか。
 オグマの手元の酒が、どぷりと揺れた気がした。
 ナバールは半ば衝動的に酒瓶を奪いとって仰いだ。
 酒は苦かった。まずくて、どうしようもなく、内心で笑いがこみあげてくる。
「こんなもの、犬でも飲まない」
「苦手なら飲むな。それに犬が飲むわけないだろう。こういうのは、人だから美味いと感じるんだ」
「ならば、俺は人ではないのか」
「貴様、人のつもりだったのか」
「……今は」
 オグマがナバールを見た。暗闇の中で表情を読もうと目を凝らす間があった。
 やがてオグマは俯き、戦時以外でも身につけたままの鎧の傷を撫でた。
 かつてナバールがつけた傷だ。
「……悪かった。少し無神経すぎた」
 オグマの声はナバール以上に傷ついていた。シーダの影響なのか元々の気質なのか、オグマは見かけの印象とバランスの取れない繊細さを見せる時がある。
 ナバールはオグマを揶揄うべきかどうか考え、やめた。
 人のつもりだったのかと聞かれた時、答えに悩んでいたのだ。下手に傷ついたふりをして気遣われては互いに気まずい。
「謝るくらいならオレと戦え。でなければ、今度こそ斬る」
 オグマは傷ついた顔のまま、ため息をついた。
「俺はシーダ様が悲しむことはしないと決めている」
「そうか。ならば斬られろ」
「……貴様には、二度も見逃されたからな」
 オグマは鎧を外してナバールに体を差し出してきた。
「それも、お前の言うシーダ様の悲しむことではないのか」
「だろうな」
 オグマは脱いだばかりの鎧を手慣れた調子で身につけていく。この男が何をしたいのかよくわからなかった。
(いや、意味などないのだろう)
 酒を飲んだ人間の行動はこの世で最も信用ならない。オグマの中には、行き場のない感情が区別できずに混ざっているのだ。忠誠と、明かせない恋慕と、生の苦しみと。ナバールが己の執着の先を定めかねているように、オグマも混ざった感情の中から選ぶべき言葉を見つけられずにいる。
「ならば、斬らない」
「どっちなんだ」
「斬ったら戦えないだろう」
「そりゃそうだ」
「その気になるまで待つ」
「白髪の爺さんになるまで待ってもらうことになるぞ」
 妙な感慨深さを抱いた。意識的かはわからないが、オグマが見据える人生の中にナバールとの関係を含めても構わないと言われた心地だった。同時に、オグマがそこまで気を許してくれていたことを意外に思う。
(だが、白髪の爺さんになるまで生きている姿は想像できん)
 約束を交わすには、いくらなんでも遠すぎる。
「そんなには待てない」
「なら諦めてくれ」
「……仕方ない。待ってやる」
「さっきからどっちなんだ」
「待つといえば待つ」
 らしくないことをしている自覚はあった。これではただの面倒な酔っ払いだ。頭の奥底では理解している。それでも言葉は止まらなかった。
(やはり、あんなもの飲まなければよかった)
 オグマと出会ってから悔やむことばかりだ。
 結局、アリティアから離れるかどうかもまともに考えられないまま、ナバールは軍にとどまる道を選んだ。

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