その日、フランツは一年ぶりに両親の墓を訪ねていた。途中までは兄と二人で向かっていたが、兄は忘れ物をしたと言って引き返したため一人だった。
「後で追いつくから、墓で待っててくれ」
「それなら僕も戻ります」
「いいから、いいから」
墓参りに一体何を忘れるのかと思ったが、兄は一人でそそくさと離れていった。
墓地は、最後に訪ねた時と違い、野草が伸びっぱなしになっていた。だが、幸い魔物や山賊による墓荒らしの形跡は全くない。
フランツは墓が無事であることに安堵の息を吐きながら、膝のあたりまで伸びた草をかき分け進んだ。
一年ぶりということもあり、白かった墓には薄灰の汚れが溜まっていた。
フランツは太陽の眩しさに目を細めながら、表面の汚れを丁寧に拭った。じんわりとした暑さに、ひたいが汗ばむのを感じる。
墓がすっかり白く戻ると、フランツは姿勢を正して一礼した。それからまぶたを閉じて、脳内で二人に話しかけた。
「父上、母上、お久しぶりです」
フランツには両親との思い出がほとんどなかったが、年に二、三回は兄と墓参りをする習慣があった。今回、一年も間隔が空いたのは、ルネスが先日までグラドの統治下にあったためだ。
最初に兄が遅れてくることを伝えた後、フランツは思い出すまま、とりとめのない報告をした。尊敬するゼト将軍がフランツの成長に期待してくれていること、エフラム王子が国王に即位すること。兄はそんな王子からの信頼を戦時下でますます強固にしたこと。
それから二、三個、兄の近況話を続けてから、フランツは目をあけた。
「兄さん、遅いなあ……」
せっかちなつもりはないが、墓地で待つにもこれ以上はすることがない。退屈を持て余していると、風がびゅっと吹いた。
草の揺れる音と共に、青い香りが湿った空気にむわりと広がる。長年親しんできたルネスの空気だ。ジャハナとの国境にそびえる山の影響で、ルネス王都は雨が多く、空気も湿りやすい。
草の音は風が止んでも続いていた。それもそのはずだ。後方に人の気配がある。状況からして、兄が追いついてきたのだろう。
「もう、兄さん。遅かったですね」
言いながら振り返った先には、思いがけない姿があった。
「フランツ、君も来ていたのか」
高すぎず、低すぎず、耳馴染みの良い声。フランツが憧れてやまない将軍の声だ。
将軍は、戦場でみかける鎧姿ではなく、黒いシャツと明るい色の細身のズボンをかっこよく着こなしていた。
「ぜ、ゼト将軍。どうしてここに」
「毎年この月は、将軍——君の父上を訪ねているからな」
父の忌月。
ゼト将軍がフランツの父に憧れていたと知ったのは二週間前。いよいよルネスを取り戻すべく進軍を開始した直後だった。だが、まさか毎年墓参りをしてくれていたとは知らなかった。
フランツと兄以外にも、父を気にかけ訪ねてくれる人がいたことに、心が暖かくなる。それが憧れてやまない将軍ともなれば、尚更だ。
「ありがとうございます。将軍に気にかけてもらえて、きっと父も喜んでいます」
「私が、勝手に慕っているだけだよ」
「ですが、将軍も僕が話しかけてくれるのは嬉しいと……」
「ははは、よく覚えているな」
将軍は眩しそうに目を細めた。ちょうどフランツを挟んで奥には太陽がある。
「将軍との思い出はすべて宝物ですから。それに、こうしてお話しできるだけでも嬉しいのに、ご迷惑になるどころか将軍にも喜んでいただけていたなんて、この上なく幸せです」
「……フランツ、大げさだぞ」
呆れられてしまった。
これで何度目だろうか。
物心ついた時から頼れる両親の存在がなく、年の離れた兄と二人で生活してきたフランツは、本来しっかり者と評されることも多い性格をしている。
けれど、将軍を前にした時だけは、そういうわけにはいかなかった。褒められれば嬉しさのあまり本当かと問いただし、話しかけられれば過剰に喜び、憧れを伝えようとすれば話しすぎる。そして、その落ち着きのなさを幾度となく将軍に指摘され、大げさだの、しつこいだのと呆れられてきた。
呆れられるたびに、フランツは少し落ち込み、それから少し嬉しくなった。将軍は、フランツの落ち着きのない姿を目にしてなお、その奥に父の魂を見つけ、成長に期待してくれている。ルネス復興に向けて、将軍のそばで共に頑張りたいと伝えたときも、共にルネスのために尽くそうと言ってくれた。フランツにはそれが嬉しかった。だから、ついつい懲りずに舞い上がってしまう。
将軍は、仕方なさそうな顔のまま、ゆっくりと瞬きをした。
「そろそろ、君の父上に挨拶をしてもよいだろうか」
指摘されて初めて、墓前を塞いでいたことに気がついた。
「す、すみません」
あわてて横にずれると、将軍はフランツが立っていた場所より少し下がった位置で目を閉じた。
顔立ちの印象に反して長いまつ毛が、太陽の光にきらきらと艶めいている。将軍のひたいにはじわりと汗が浮かんでいた。
形の整った鼻や、じっと閉じられた色の薄い唇。将軍の横顔から目を離せないまま時間が過ぎていく。
静謐な墓地の空気。
その静けさを崩さずに、将軍の唇がゆっくり動いた。
「あなたの代わりに、私が二人を守ります」
ゼト将軍の、落ち着いた赤の瞳がまっすぐにフランツを映す。
「君に、父の記憶がほとんどないと聞いた時から考えていた。迷惑でなければ、これからは私を第二の父と思って欲しい」
「将軍、どうして……」
「私も、まだ見習い騎士にもなる前に父を失っているんだ。だが、ファード王が我が子同然に目をかけてくださってな。私はそれに救われた。君はもう騎士とはいえ、やはり父として頼れる存在がいないのは寂しいだろう」
将軍の顔は今までに見たどの表情よりも優しかった。心からフランツを気遣う顔。騎士としての成長を期待するだけでなく、それ以上の存在としてフランツを気にかけてくれる心は、本当に温かかった。
(それなのに、どうしてだろう……)
フランツは将軍の言葉を素直に喜べずにいる。それどころか、憧れの将軍が遠ざかったような気持ちにすらなっていた。
どうにもすっきりとしない感情に気づかれたのか、将軍はわずかに肩を落とした。
「すまない。無理を言ってしまったな」
そんな顔をさせたかったわけではなかった。
二人の間を、ぬるい風が吹きぬける。
「あの、兄さんにこのことは……」
「フォルデは、君の答えに従うよ」
「聞いたんですか?」
「今日、この時間に墓参りに行くと教えてくれたのは、彼だからな」
訳がわからなかった。
兄は、とぼけた調子で皆を支えることはしても、フランツに余計な気をまわすような性格ではないはずだ。
「だが、そうだな。君を困らせるのであれば、この話はなかったことにしよう」
「嫌なわけではないんです! 僕は、僕は本当に将軍に憧れていて……」
「そう慌てるな、フランツ。わかっているよ」
わかっていない、と憧れに反発するような感情を抱いたことに驚いた。
(僕、いったいどうしちゃったんだろう)
わからない。将軍と家族になれるなんて、この上なく嬉しいことのはずなのに。どうして将軍を遠くに感じるのか。兄はなぜフランツに気をつかうようなことをしたのか。
ぐるぐると考えて、フランツは口を開いていた。
「そうではなくて、僕、将軍が好きなんです」
自覚よりも先に飛び出た言葉が、遅れて熱を帯びて、頭を抱えたくなる。
どうしていつもこうなのか。
将軍を前にすると、考えるよりも先に言葉が出て、そそっかしくて、かっこ悪い。
(こんなの、将軍に意識してもらえなくて当然だ……)
そう思いながらも、わずかな期待を捨てられず視線をあげた。
将軍は何故か口をあけて笑っていた。
「君は本当に大げさだな。私相手だから誤解もないが、そういう言葉は本当に大事な人のためにとっておくものだよ」
胸がずんと重くなった。
このまま引き下がれば、将軍はフランツが勢い余って伝えてしまった言葉をいつもの大げさな表現だと思い、前と変わらずに接してくれるだろう。
けれど、フランツは初めて感じる痛みにどうしても耐えられる気がしなかった。
だって、もう、気づいてしまった。気づいたらもう、止まれない。恋心という初めての感情を、見なかったことにする手段も、諦める手段も、フランツは知らなかった。
「将軍のおっしゃる、本当に大切な人はどんな人ですか?」
「そう問われると難しいな。共に暮らし、将来を共に歩みたいと思う人……だろうか」
「でしたら、僕にとっては将軍です」
「ふ、フランツ?」
「将軍だって、形は違いますが僕の第二の父になろうとしてくださったではありませんか。一体何が違うのですか」
「フランツ、少し落ち着け」
「無理です。僕、気づいてしまったんです。将軍に父だと思ってほしいと言われて、将軍を遠くに感じて、それで……」
続きをうまく言えずに言葉が詰まる。引き下がれば伝わらないのに、抱える想いをどうにも形にできなくて苦しい。
「それで、それで……」
「すまなかった」
すっとした声だった。その声を聞いた瞬間、視界がじわりと滲んで将軍がますます遠くなった。
顔を見せたくなくて俯くと、大きな手が戸惑いながら頭を撫でた。
「君の想いは伝わったよ。誤解ではないと言いたいのだろう。そうとは知らずに、私は君を傷つけてしまった」
「将軍は悪くありません。僕が勝手に言っていることなんです。いつもいつも、将軍を困らせていることには気づいてるのに、それでも、ゼト将軍を前にすると、僕、気持ちが溢れて止まらなくて……」
「わかっているさ。フォルデや他の仲間たちと話している時の君は、本当にしっかりしている」
「見てくださっていたんですか?」
「君に期待しているからな」
顔を上げようとしたのに、将軍の手が頭を押さえたまま離してくれない。
「フランツ、少しだけ私に時間をくれないか。君の気持ちに今すぐ応えることはできないが、前向きに考えてみよう」
「ほ、本当に、本当ですか?」
鼻筋の通った顔が、呆れたようにフランツを見る。平時と変わらないまっさらな顔色にフランツは少し落胆したが、それ以上に、感情を拒否せず受け止めてもらえたことが嬉しくて気持ちが落ち着かない。
「ああ、本当だとも。……それとも、私がこんな大事なことで嘘をつく人間に見えるか」
「す、すみません。そういうわけではないんです。ただ、嬉しくて」
「ははは、わかっているさ。だからフランツ、決して無理はするなよ。まずは互いに生き抜かなければ、今の約束も、共にルネス再興を果たす約束も叶わないからな」
帰り道、将軍の温もりを手で感じながら二人はルネス城へ向かっていた。将軍はまだ気持ちに応えると決めてくれたわけではないらしいが、フランツが差し出した手を拒まなかった。
「兄さん、結局来ませんでしたね」
将軍との大事な話の後、フランツの我儘で兄を十五分ほど待ったが、さっぱり来る気配がなかった。
「気をつかったのだろう」
「それでも、兄さんだって父や母と話したかったはずなのに、と思ってしまって……」
「それなら今から声をかけにいけばいいさ。私も付き合うよ」
「いいんですか?」
「彼が遠慮したのは私のせいでもあるからな」
将軍は、半分困った顔で繋がれた手に視線をやった。
兄に声をかける時、今の二人の関係をどう伝えるべきか考えているのかもしれない。将軍は、落ち着いた顔でいつも多くを考えている。
多くを考えるのは兄も同じだった。正確には、兄の場合は考えるのではなく、感じている方がより近い。兄はいつも自由人の顔をしながら、周囲の風をよく見ていた。気楽な性分であることに偽りはないが、その気楽さは状況を敏感に察知する勘の良さあってのものだ。
そうして兄の性質を考えた時、フランツは兄らしくない気遣いの理由に答えを見つけた。
「きっと、兄さんは初めからこうなることが、わかっていたんですね」
兄は余計な気をまわしたのではなく、フランツの背中を押してくれたのだろう。
将軍から第二の父だと思って欲しいと言われた時、もしも兄がそばにいれば、フランツはおそらく兄の顔色をうかがった。自分の中に答えがあったとしても、兄の意見を聞くまで、決してその答えを通すことはしなかったと思う。
将軍に正直な想いを伝えられたのは、兄がそばにいなかったからだ。
フランツより先に兄が将軍への好意に気づいていたことは気恥ずかしくてならないが、フランツに気づかれないように背中を押す姿はなんとも兄らしい。
「だから、ゼトさんは何も心配しないでください」
「まったく気が早いな、フランツは」
「将軍が考えてくださると言ったんですよ。僕、頷いてもらえるまで絶対に諦めません!」
「……フランツ、声が大きいぞ」
指摘されてようやく、人々が二人を見ていることに気がついた。既に城の手前まで来ていたらしく、周囲は復興への活気に満ちている。
将軍と繋いでいた手が離れ、汗ばんだ手の熱が冷えていく。「すみません、僕……」
「そう沈んだ顔をするな。フォルデのところへ行くんだろう」
「……はい!」
将軍の態度一つで、心が沈んだり喜んだりして落ち着かない。自覚したばかりのフランツの恋は、もう決して、気づく前には戻れないところまで進んでいた。