聖魔の光石

無題

 闇の樹海を進むとき、前を向いていた者は一人もいなかったように思う。軍をまとめるエフラムも、その妹のエイリークも、その二人を常に支えていた将軍も、心の奥では後ろを向いていた。
 ノールも、当然前向きな気持ちになれるはずがなかった。
 これから戦いに向かう相手は、ノールが唯一、心から大切に思っている人だった。

 リオンとの思い出は、数えきれないほどある。ノールが十五の歳に彼と出会ってから、ノールの人生は常にリオンと共にあった。リオンは、ノールたち闇魔道士の境遇に胸を痛め、共に地位を向上させようとしてくれる、そんな優しさを持つ自慢の主人だった。
 元々希薄な人間関係の中で魔道だけを拠り所としていたノールが、リオンに心を開くまでそう時間はかからなかった。リオンは勉強熱心で、闇魔道に心から興味を持っていた。教わった内容を理解できた時に見せてくれる、桜の花のようにふわりとしたリオンの笑顔がノールは好きだった。
 気づけば、ノールが魔道研究に頭を悩ませていた夜は、リオンへの教え方を考える時間になっていた。
 出会って一年も経たないうちに、ノールは漠然と、この先の人生はリオンと共にあるのだろうと思っていた。だが、いよいよ自分の意思で、生涯をリオンのそばで過ごすと決めたのは、出会いから六年が経ち、リオンが十二を迎えて間もない頃だった。
 その日、リオンの誕生日祝いが端に積まれたままの部屋で、リオンはノールに笑いかけた。
「ねえ、ノール。僕が闇魔道士の地位を変えるよ」
「突然どうされたのですか」
 リオンが意見を話すときは、いつも自信なさげに「どう思う?」と添えられることを知っているノールは、思わず紅茶を注ぐ手を止めてリオンを見た。視線の先にいつものおどおどとした様子がないことに、ノールは内心驚いた。
「ずっと考えていたんだ。人の役に立つことで、魔物の力と恐れられる闇魔道の印象を変えられないか」
「印象を、変えられるのですか……?」
「うん。これを見て」
 リオンが差し出した紙には、十二になって間もない少年が書き上げたとは思えないほど複雑な魔術理論への考察がまとめられていた。それは、古代魔道の仕組みの仮説だった。
「いつの間にこのようなものを」
「おかしなところ、あったかな?」
「いえ、大変よくできてます」
「よかった。それでね、この仮説が正しければ、闇魔道で未来予知も可能だと思うんだけど……ノールはどう思う?」
「私も同意見です。そのためにも、まずは、ここに書かれている事象を再現できるか確認するところから——。リオン様、どうかされたのですか?」
「こんなに生き生きとしているノールを見るのは初めてだなと思って」
「……失礼いたしました」
 ノールは昂った感情を落ち着けようと、一度テーブルに置いてしまったティーポットを手にとった。カップに紅茶を注ぎ入れると、茶葉の豊かな香りがふわりと広がる。紅茶の湯気の先で、主人は穏やかな笑みを浮かべていた。
「ふふ、嬉しいな。ぼくはずっと、そうやって笑う君が見たかった」
 ノールは思わず自分の口の端に手を添えた。
「私は、笑っていましたか」
「うん、笑っていたよ」
 その日から、リオンはノールの人生になった。
 
 だが皮肉にも、ノールとリオンを引き離したのもまた、あの日の仮説の延長にあった。

 まだ十二の主人が考えた仮説は、それから三年と少しで形になった。
「……ノール! 成功したよ。これで、これできっと、みんなを助けられる」
 珍しく闇魔道士たちの研究所まで駆け込んできたリオンは、興奮を抑えきれていない瞳をノールへ向けた。その姿に、ノールは静かに涙した。嬉しかったのだ。あの日の王子の気持ちも、それを成し遂げた主人の強さも、研究の成果を、真っ先にノールへ伝えにきてくれたことも。
「ノール、どうしたの? 嬉しくなかった?」
「いえ、違うのです、リオン様。……ありがとうございます」
「おかしなノール。まだ満足したらだめだよ。僕もはしゃいでしまったけど、改善点は多くあるんだ。まずは予知の時期をもう少し絞れるように……」
「それについてはこの文献の記述が役立つかと」
「うん、ノールはそうでないと」
 そして喜びも束の間、二人はグラドを襲う災いを知ってしまった。
「……そんな、どうしよう。こんなに大きな災害、どうすれば」
「落ち着いてくださいリオン様。何かの誤りかもしれません。まずはもう一度確認して、それから陛下にお伝えしましょう」
「うん、そうだよね。きっと何かの誤りだ」
 だが、何度試しても結果は変わらなかった。そればかりか、ちょうどその頃から、陛下が体調を崩される日が増えていった。
 
 状況は思わしくなかったが、王子は後ろばかりを向いているわけではなかった。
 特に、ルネスから留学に来た王子王女と交流をした後は、元気な姿を見せてくれることが多かった。
「エフラムとエイリークならきっと、僕が困った時には助けてくれる。だから僕も、二人を助けられるように強くなるんだ」
 二人と出会ってからの主人は、口癖のようにそう繰り返して、今まで以上に研究熱心になった。

 時の流れは残酷なもので、グラドの災いは反転の兆しを見せないまま、滝の水が落ちるように悪化の一途を辿っていた。
 陛下の病状も思わしくなく、治癒を担当する司祭からは、もって一ヶ月だろうと余命をくだされた。
 リオンを慕う闇魔道士たちは懸命に予知を繰り返したが、災いの未来はより具体的な内容へと近づくばかりで、回避の道は欠片も見つからなかった。
 グラドの大地の麗らかな空気が一転して、冷たい風が吹き始めた日、陛下が突然リオンを呼びつけた。
 弱りきった陛下は、息子の来訪に体を起こすこともできず、力ない瞳を王子へと向けた。
「リオン、わしはもう長くない」
「父上……」
「前に話していた予知の結果はどうなった」
「……もう、何度も試しましたが変わりません。僕は、どうすれば良いのですか。あと数年のうちに、グラドの大地は」
 主人は、今にも力を失いそうな陛下の手を心細そうに握りしめた。
「……わしにできることはもうない。お前が、民たちを守るのだ」
「僕にそんな力は……。そうだ、ルネス王国に。エイリークとエフラムならきっと」
「隣国は頼れぬだろう。グラドの災いを訴えても、飢えたものが増えればルネスは国境を閉ざすだけだ。ルネスには、ルネスを守る義務がある。だから、お前が、わしの代わりにグラドを守るのだ……」
 陛下の最期の言葉は、リオンが王になるため必要だった拠り所を奪ってしまった。
 病気がちな陛下は知らなかったはずだ。ルネスの王子王女との交流が、どれほど心優しすぎる王子の心を支えていたか。
 そして、責任だけを残して、陛下はこの世を去ってしまった。

 皇帝から受け継がれた責任に苦しんだリオンは、父の死をひとしきり嘆いた後、不意に真剣な顔をした。
「僕は、グラドの【聖石】の封印を解こうと思う。書庫で見つけた儀式さえ成功すれば、災いはふせげるはずなんだ」
「ですが……」
 【聖石】の封印を解くということは、封じた魔王の魂を呼び起こすことも同義だった。そんなことをすれば、何が起こるかわからない。もしかしたら、予知している以上の災いを導く可能性もあるはずだ。
「言いたいことはわかるよ。でも、僕は強くならなくちゃいけない」
「しかしながら……」
「ノール」
 初めて強く名前を呼ばれて身構えた。目の前の瞳は、悲しいことに十二のリオンと同じ決意の色を宿していた。
 ノールは無言でその瞳を見つめ返すことしかできなかった。本当は目を逸らしたくて仕方がなかったが、漠然とした恐怖が許してくれなかった。
「……ごめん。ねえ、ノール。一つだけ頼み事をしてもいいかな?」
 ノールは静かに頷いた。頷くしかなかった。
「僕は国のために力を尽くすから、僕が間違えた時にはノールが止めて欲しい」
「リオン様、一体何を考えていらっしゃるのですか」
「……秘密」
「教えていただけなければ、お止めすることも叶いません」
「ごめんね。でも、時がくればわかるから。ノールにしか、わかってもらえないかもしれないけど」
 そして、二人の行く道は分かれてしまった。

 闇の樹海の中、石造りの魔殿にリオンはいた。古い建造物は、ところどころにひび割れがあり、そのひびに根付いた植物はたくましく葉を広げていた。
 ノールは深くため息をついた。
 主人の最後の願いを頼みにここまでやってきてしまった。主人の願いを果たそうとし、幽閉された地下牢で処刑される方が楽な人生だったというのに、ルネスに命を助けられてしまった。
 それでも結局、ノールは主人の前に立ち向かう勇気はなかった。変わってしまった愛しの王子。ノールを信じて、止めて欲しいと頼んだ主人に再び立ち向かうことはできず、ルネスの王子王女へ全てを託した。
(もう、あなたには会えないのでしょうか)
 魔と同化した青年のもとへ行くことを拒むように、魔殿の魔物は次々と襲いかかってきた。
 ノールはグラドの神将器を手に、魔物を無心で倒した。
(あなたがいたから、私は迷わずにいられたのに)
 嘆きながら放った魔法がデスガーゴイルを倒す。
 背後からもう一体が迫っていた。
(こうなる前に、止めて差し上げたかった……)
 ノールはすかさずグレイプニルを放とうとして、途中で止めた。
 魔物の腕がノールを裂こうと振りおろされる、その瞬間を、ノールは見つめていた。
 だが、魔物がノールを裂く前に、鋭い槍が魔物を倒した。
「ノールよ、早まるな」
「デュッセル殿……」
 彼は、ルネス王子に助けられた後に唯一、ノールがグラドの真実を伝えた人だった。
「ノール、今からでもリオン様の元へ行け」
「ですが、私は……」
「同じ後悔はさせたくない」
 生きていると思っていた陛下が死人だったことを指しているのか、あるいは死人だった陛下が灰になった瞬間の話をしているのか、ノールにはわからなかった。
 ただ、将軍のいつにも増して厳しい声に後押しされて、ノールの足は魔殿の奥へと向かっていた。
 立ち向かう勇気がなかった主人の最後を見届ける勇気を将軍はくれた。
 魔殿の奥へ向かう途中、話声が聴こえてきた。戦場とは思えないゆったりとした声は石に反射して冷たくなり、何を話しているかまでは聴きとれない。
 さらに近づくと、奥へ進んだ仲間たちとノールの愛する主人の姿があった。
「リオン。お前は強くなんか、ならなくてよかったんだ……」
 その言葉を聴いた時、ノールはどんな顔をすれば良いか分からなくなった。
 二人の行く道が分かれたあの日、主人には、強くなることが求められていた。強くならなくてよかったというのなら、陛下の亡骸の傍で嘆くリオンの近くに駆けつけて欲しかった。ルネスが助けると、一言伝えてさえくれたのなら、【聖石】の封印を解く必要はなかった。
 理不尽な要求だと分かっている。ルネスの王子を責めるつもりはない。それでも、あの日、残されていた選択は少なかった。
 ルネスの王子の言葉を聞いたリオンは、寂しげに目を伏せてから、一瞬ノールの方を見た。目があった瞬間、リオンは悲しい顔のまま口元だけで笑った。
(ごめん)
 主人は、声に出さずにそう言って、エフラム王子と距離を取るためか床石を蹴り、魔殿の壁から伸びる段に着地した。
 その動きを警戒し、ルネスの騎士たちが武器を構える。
「手を出すな」
 エフラム王子は騎士たちを制し、槍を構えた。
「……行くぞ、リオン」
 槍を握る手は震えているように見えた。

 勝負は、嘆く暇もないほどすぐに決まった。エフラム様の槍先は二手目で狂うことなく相手の心臓を貫いた。
「僕は、どこで間違えたのかな……」
 リオン様が呟くと共に、城中の戦闘の音がぴたりとやんだ。どうやら魔物が消えたらしい。まだ戦いの名残が残る空気の中、ノールの世界は止まっていた。死にゆくリオン様の体に縋りつくルネスの王子と王女。
 ノールは最初に立ち止まった場所から近づくでも離れるでもなく、何か信じられないものを見るようにじっとその光景を眺めていた。