聖魔の光石

かすがい

かすがい

 鳥が囀っている。また、朝が来てしまった。ノールは起き上がると、部屋を暗くしたまま家を出た。

 グラド城へ続く往来には、多くの人が座りこんでいる。地揺れで家を失った者たちが、行き場もなく集っているためだ。
 ここらの人々に国の支援が届くのはまだ先になりそうだった。グラドは今、中枢が麻痺している。先の戦争と地揺れの被害で、政治に関わっていたほとんどは命を失ってしまった。王族をはじめとする国の後継者は完全に絶え、王や皇子に支えていた主な臣下は、今やデュッセルとノールしか残っていない。

 おかげで、かつて主が暮らしていたグラドの城に、ノールは日々通っている。
 通ってはいるが、それだけだった。
 彼はただの死に損ないだ。国のために何かをする気力はなく、デュッセルの頼み事を細々とこなすことしかしていない。
 そもそも、地揺れで困窮する民を見ずに生を終えるつもりだったのだ。ノールはリオンの儀式の成否を見届けようと、グラドへ戻った。
 だがノールは生きている。運というものは、つくづく願いとは反対に働くらしい。

 グラド城の城門をすぎると、右手に庭園がある。ノールが帰国した直後は葉の落ちた枝が寂しく並ぶばかりだった庭園も、最近は風が吹くたびに、重く鼻に残る薔薇の香りがするようになった。それは、ノールが〈主君〉を失ってすでに二年が経とうとしていることを意味した。
 最後にリオンを見たのは、薔薇の咲き誇る庭園だった。

 皇帝ヴィガルドが崩御してから一ヶ月。リオンは、部屋に篭り研究に明け暮れるようになっていた。食事を運んでも手をつけずに放置されることが多かった。陛下の今際の際に立ち会ったノールですら、リオンと数日会えない日が続くことも珍しくなかった。
 当時、ヴィガルドの死を知るのは、ノールとリオン、マクレガー司祭の三人だけだった。
 他の臣下たちは、容体の悪化した陛下を救うためリオンが研究に明け暮れていると誤認していた。リオンを理解し、止められたのは、ノールと司祭だけだった。
 
 あの日、ノールが庭園でリオンを見かけたのは、全くの偶然だった。書庫で薔薇の香りには安眠や精神安定の効果があるという文献を見つけ、眠らずに研究を続ける主君に差し入れようと思いついた。
 夕陽が差す庭に立ち寄ると、既に人影があった。最初はリオンだと気付かずに近づいた。けれど、すすり泣く声が聞こえ、ノールは足を止めた。声がリオンのものだと気づいたのは、足を止めてしばらくした後だった。
 リオンの声は切迫した悲しみに溢れていた。そのせいで、ノールは声をかけそびれた。やがて泣き止んだリオンは、ノールにちょうど背を向ける形で歩き出した。ちょうど【聖石】をおさめる宝物庫がある方角だ。
 とたんに嫌な予感がした。
 主は、また変わらぬ未来を見て、一人で苦しもうとしているのではないだろうか。
「リオン様」
 リオンは止まらなかった。
 薔薇の棘が服を裂くのも気にせずに追いかけたが、間に合わなかった。ノールの声は届かないまま、リオンは魔石を生み出していた。
 あの日、泣いてる主の傍に寄り添えていれば。
 肌に残る薔薇の痛みは、未だにノールを苛んでいる。

 重い香りから離れたいと願いながらもつい視線をやると、あの日の主君と同じ位置に、霞んだ人影が見えた。
 まさか。
 ノールは吸い寄せられるように薔薇へ近づいた。すすり泣く声は、あの日より低かった。
 人影は、デュッセルだった。
 ノールは一瞬足を止めてから、覚悟を固めて声をかけた。
「……デュッセル殿」
 おそるおそる歩み寄ると、デュッセルが目もとを荒く拭って顔を上げた。
「おお、ノールか。また眠れなかったのか」
 訊ねる男の瞳は赤く充血し、その下には深い隈ができていた。
「もう慣れました」
「眠れぬことに慣れずともよい」
 デュッセルは、瞳以外に涙の気配を残していなかった。その顔は執務室でも何度か見たことがあった。
 もしや、この人は、今までもこうして一人で悲しみを抱えてきたのだろうか。
 泣いている姿を見るまで、精悍な顔立ちの将軍は、既になくしたものを受け容れ、前を向いているのだと思っていた。けれど、涙を知った後、ノールの中には一つの疑念が生まれていた。
 彼は、主と同じなのかもしれない。立場こそ異なるが、なくしたものへの悲しみを押し隠し、一人で立とうと必死なだけなのかもしれない。
 研究に明け暮れるリオンが泣いている姿を見たのも、庭園で盗み見た時だけだった。
「デュッセル殿こそ、眠れていますか?」
 問いかけると、将軍は申し訳なさそうに頬をかいた。
「確かに、人のことばかり言ってられぬか。……ノールよ、情けない姿を見せたな」
 彼が寂しげに俯いた瞬間、ノールは彼を支えようと思った。
「デュッセル殿。リオン様は一人で国を守ろうとして、ここからいなくなってしまいました。この国には必要なお方だったのに……」
「うむ、皇子は間違いなくグラドに必要なお方だった」
「陛下も、リオン様も失ったグラドに必要なのは、あなたです。ですが、あなたも一人で国を守ろうとしているように見えます」
「もしや、心配してくれているのか?」
「……これは、心配なのでしょうか」
 ノールはただ、死に損なった人生に残った蜘蛛の糸を掴もうとしているだけだ。精悍な将軍に欠片だけ見つけた儚さに、主との繋がりを求めていた。
「そなたは、優しいな」
 そう言って笑った将軍の顔には、主のような儚さはなかった。
 どれほど焦がれても、もう主は帰ってこない。明日にはまた、訪れる朝に絶望するかもしれない。
 それでも、ノールは今しがた見つけた道に縋りたかった。
「優しいのは、あなたの方です」
 薔薇の重さに潰されながら、ノールはどうにか笑おうとした。ようやく浮かべた笑みは、まだ歪な形をしていた。

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