朝、グラドの城へ行くたびにクーガーは静かに苛立っていた。
愛するグラド、尊敬する騎士、そのそばに当然とばかりに存在する不幸面。クーガーはその不幸面が嫌いだった。
グラドが戦争を始めた時、クーガーは穏健だった皇帝が変わってしまったのだと思っていた。
だが、誇るべき国のために祖国と対立する道を選び、彼は知った。皇帝が変わったのではなく、その息子のリオンが皇帝を汚したのだと。
皇帝は、戦争が始まった時にはすでに死んでいた。クーガーがそれを知ったのは、ルネス城奪還の時に偶然聞こえたゼトとエイリークの会話からだった。
戦争の中でクーガーが知った情報をまとめると、クーガーから故郷と兄を奪った戦争のきっかけは、誰が否定しても皇子にあった。皇子が皇帝の亡骸を操り、火種を各地に撒いたのだ。
だが、その皇子に仕えていた不幸面は、終戦から一か月経っても未だに、被害者のような顔をして、デュッセルの庇護を受けている。クーガーはそれが気に食わなかった。
その日、いつものように城の一室へ向かうと、尊敬する騎士の姿がなかった。代わりに、不幸面が普段よりも一層不幸な顔をして窓辺に佇んでいた。
「デュッセル殿はどうされた」
仕方なく話しかけると、彼は視線だけをよこしてきた。
「……デュッセル殿は、今日は来ません」
風が、男の頭の布をさらった。かつての皇帝を思い出す淡い紫の髪色が視界に映る。
不幸な男は、いそいそと布を被り直した。
「あの、まだ何か御用ですか」
クーガーはその言葉に苛ついた。
こちらから聞かなければ理由も説明しないのか。いかにも面倒くさがっている態度も気に食わなかった。
何よりも相手は涼しい顔をしていて、クーガーばかり苛立っていることに腹が立つ。
共にグラド復興に尽力する存在として普段はどうにか抑えている感情が、沸々と湧き上がって口から溢れ出そうだ。
「……用がないのであれば、失礼します」
男はクーガーから逃げるように部屋を出ようとした。
その態度がとどめだった。クーガーは怒りのままに男の腕を掴んだ。
「そんなに俺が嫌いか」
「何のことでしょう。あなたが私を嫌っている、の間違いではありませんか」
「知っていてその態度か」
「何をおっしゃりたいのです」
「お前たちのせいだろう。国が、こうなったのは——」
涼しかった男の顔に綻びが生じたことに気づき、クーガーは追い打ちをかけた。
「リオンが、俺たちの国を壊したんだ」
「……何も知らないあなたに、そんなことを言われたくはありません」
「俺は知っている。あいつが妙な魔道で皇帝を汚した。グラドの誇りを奪い、俺の、兄貴も……」
リオンがおかしなことをしなければ、皇帝は昔のまま終わることができた。だというのに、世間ではクーガーが兄と共に槍を捧げた主君こそ、戦争の元凶だと言われている。
祖国に槍を向けた自分が言えることではないが、気に食わない。
妙な魔道のことは、戦争に関わった者の中でも一部しか気づいていなかった。クーガーが知ったのも、ただの偶然だ。
民が陛下を恨むのも仕方がないと、理解はするが納得できない。
「あなたはそうして物事の一面だけで知った気になり、真実を何も見ようとしていない。まるで獣ですね。世界を自分中心でしか捉えられないが故に、怒鳴って威嚇すれば相手が思い通りに怯むと信じている。ですが、本当は獣の思い通りになることの方が少ない。……私は、あなたの言葉を認めるわけにはいきません。それが、リオン様の願いを継ぐと決めた、私の意地です」
彼は怒りながら、今にも泣きそうな顔をしていた。
真実を見ようとしない、それを言われると弱かった。
リオンは戦争を起こし、グラドを大陸の悪者にした。だが、たしかに彼が言うとおり、その奥にある理由をクーガーは知らない。
(俺は、あの兵士と同じことをしているのか……?)
あの兵士、というのは、まだ幼い頃に兄とクーガーを捕えたグラド兵のことだ。皇帝を助けようとした石が兵にぶつかり、二人は取り調べを受けたことがあった。
彼が皇帝に忠義を誓ったのは、その時に皇帝だけが兄とクーガーの行動の本質を理解して、兵士に連行された彼を助けてくれたからだ。
「確かに俺は真実を知ろうとしていなかった。なぜ、リオンは戦争を始めた」
ノールは目を丸めて驚いた顔をした。いつも不幸面ばかり目についていたが、向かい合って話してみると存外表情が豊からしい。
「……分かっていただけたなら、それで構いません。声を荒げてすみませんでした」
「理由を教えてくれ」
「世の中には知らない方が良いこともあります。それに、パンはもう残っていません」
「どういう意味だ」
「真実を知る生者は二人で十分だということです」
「もう一人は、デュッセル殿か」
「……はい」
ノールは、まるで兄のように優しい目をしていた。
クーガーはそれ以上尋ねることをやめた。思慮深い男は、クーガーの気質を考えて伝えないと決めたのだと思えたからだ。
兄もよく言っていた、素直なところは長所だが、お前は気性が荒すぎると。
自覚はある。兄が死んだと知った時も、クーガーは復讐以外考えられなくなった。かつて兄が一度会っただけのルネス王女の人柄を誉めていたことも忘れて、愚かにもヴァルターの言葉を信じて復讐を誓った。
知るべきではない真実を聞かされた時、クーガーはまた、新たな恨みや復讐に囚われるかもしれない。
己のそういう気質を、よく理解していた。
だからといって、全てに目をつむり暮らせるほど単純な話でもない。
「ノール殿、この国は俺がいなくても平気だろうか」
「国は、あなたが思うほど脆くはありません。ましてや、王族でもないあなたが背負う必要はないでしょう」
「俺はグラドを誇りに思っている。だからこそ、ここを離れようと思う」
クーガーなりのけじめだった。復讐に囚われて祖国に槍を向けたのみならず、主を信じられず、グラドを思う同胞を責めた罪を、クーガーは償わねばならない。
そのためにも、今は落ち着く時間が必要だった。
ノールはどこか遠くを見つめてから、口元だけで小さく微笑んだ。
「賢明なご判断だと思います」
「デュッセル殿のことを頼んだ」
「言われるまでもありません。ですが、離れる前に見舞ってはどうでしょうか。今朝から高熱にうなされていらっしゃるので」
「そうさせてもらおう」
クーガーは、デュッセルを見舞い、そのままその足で、相棒の飛竜と共にグラドを離れた。
国を離れた三日後、戦後の復興を遂げつつあったグラドに地揺れが起こった。
クーガーは、もしかしたらあの不幸な男は全てを知っていたのではないかと思った。
思ってから、愚かな妄想にも程があると呆れた。
未来予知など絵空事だ。不幸を漂わせながらも、主の願いを継ぐと覚悟するほどに厚い忠義を持つ男が、そんな不確実なものを信じるとは思えない。
グラドの惨状を聞いたクーガーは、国に戻るか悩み、グラドの王都から最も離れた農村の復興を半月だけ手伝った。
農村の瓦礫が全て片付くと、今度こそ国を離れて、流浪の旅人となった。
全てが落ち着くまで、もうグラドへ帰ることはないだろう。愛する国を思えばこそ、クーガーは離れなければならなかった。
相棒が主を慰めるかのように空で嘶く。ぽつり、ぽつりと小さな雨粒が頬を濡らした。