聖戦の系譜

サンプル:すてきなお茶会へようこそ

※一部トラキア776の要素を含みます

アイラの手記

 らしくないが、手記を残す。
 イザークの剣士は剣に頼り言葉を疎かにしがちだが、それだけではいけないと、私はこの世界でようやく気づいた。
 もう少し早く気づいていればシャナンを一人悩ませることもなかったが、悔いても仕方ないな。
 ともかく、イザーク王国の王女として、たまには剣の代わりに筆を握ることにした。
 いつかイザークに縁のある者がこの世界を訪れ、戦争の真実を知りたがった時、この手記を見せて欲しい。
 私の知ることは一部だが、理解の一助にはなるだろう。

 何から書くべきか悩んだが、まずはイザーク王家とリボー族の関係性を知ってもらいたい。
 この手記を読む中には、リボー族に良い印象を抱いていない者もいるだろう。だが、私は決して彼らを悪人だと思ってほしくない。意外に思われるかもしれないが、リボー族は無二の家族なんだ。
 実際、イード侵攻の数ヶ月前まで、我らと彼らの関係は良好だった。毎年の乾季で王城近くに移動してきたリボー族を、イザーク王家は例年と変わらず歓迎した。
 最後に会った時、リボーに嫁いだ姉は何やら悩んでいる様子だったが、聞かされた悩みは息子との関係性だった。ガルザスが反抗期を迎えたらしい。仲のいい親子だったが、子の反抗期は避けられないものなのだろう。滞在の間、ガルザスは明らかに姉との関わりを避けていた。
 ガルザスと言えば、その年は妙に流星剣の習得にこだわっていた。家族を守るために力が欲しいと頭を下げた彼に、私は剣を授けた。この時も、姉には伝えないでほしいと頼まれたな。
 やたらと思い詰めた表情に何度かその理由を尋ねたが、彼は何も語らなかった。
 当時は気づけなかったが、あの頃から少なくともリボーの中では何か変化があったのかもしれない。
 だが、ダーナを攻めようとしているとは考えもしなかった。彼らがダーナへ侵攻したという知らせは、少なくとも私にとっては衝撃的だった。
 
 ダーナ侵攻の知らせがあった日のことは今でも忘れられない。グラン歴七五七年。年明けから一週間の、室内でも身震いするほど寒さが厳しい日だった。
 当時イザーク国王だった父は、リボーに嫁いだ筆まめな姉からの手紙が絶えたことを心配し、様子を見に行こうと準備していた。
 その日、馬の蹄の音を響かせながら、先んじてリボーに向かわせたはずの兵が駆け込んできた。兵の服は乾いた血で汚れていた。馬で二日はかかる距離をほとんど休むことなく進んだらしい。もはや手紙とも呼べそうにない紙切れを渡しながら、くたびれた声で彼は言った。
「リボーが……挙兵しました」
 覗きこんだ紙切れには、姉の筆跡で謝罪の言葉が綴られていた。近くにいた父と兄は、眉間に深い皺を寄せた。
「矛先はダーナか」
 父の問いかけに兵が頷いた。そして予想通りの頷きに誰もが言葉を失った。
 
 イザーク王家にとって、ダーナへの攻撃は絶対に避けたい事だった。
 ダーナの後ろ盾は、大陸で最も多くの聖遺物を抱える国グランベルだ。聖遺物は一つあれば戦況が変わると言われるほど強力な〝武器〟であり、グランベルは大陸にある十二の聖遺物の過半である七つを国内に抱えている。戦争になれば、剣聖オードの残した神剣バルムンクしか持たないイザーク王国は明らかに不利だった。
 父の表情は険しかった。
 地方部族の力が強く、国の統一に手を焼かされていたイザーク王家からすれば、リボー族は数少ない信頼できる部族だった。数ヶ月前も、父とリボー族長は二人で酒を酌み交わしていた。
 それが、突然の裏切りだ。
 王家に突きつけられた選択は、国を守るため家族同然の存在を討つか、家族を守り国諸共滅びるかの二択だった。
 リボーへ向かう前、父は私と兄に言った。
「どうか、彼らを恨まないでほしい」
 諦めた表情で馬に跨った父は、一度も振り返らなかった。少数の兵と共にリボーへ向かった背中が、私が最後に見た父の姿だった。

 次の知らせは、父が城を離れてから十日後にあった。父に同行した兵の一人が、耳も鼻も赤くしたまま城に駆け込んできた。
「国王からです。ブレスは討った。ケリーとガルザスの姿はない、とのこと」
 ブレスはリボー族長の、ケリーは彼に嫁いだ姉の名だ。その言葉だけで、私は父の葛藤を理解した。
 通常、罪人にはそれに似つかわしい不義理の証が付随する。逆賊だとか、反逆者だとかの不名誉な言葉と共に、人は今まで認識していた人物を敬うに値しない存在として切り離す。
 あの時であれば、裏切者ブレスは討ったと言うべきだった。だが、父はそうしなかった。最後までリボーを守り、国を守る道がないか探したことが、兵を介した言葉から伝わってきた。
 きっと、純粋な裏切りではなかったのだろう。リボーにも事情があったのだ。
 私は報告を聞いたきり何も言えなかった。
 なぜ、リボーが王家を裏切ったのか。無謀な戦いに挑んだのか。答えを知りようのない問いが頭を巡っていた。一通り巡った後は、やりきれない気持ちと、数ヶ月前、姉や甥の悩みに気づきながら、その真の理由に気づけなかった後悔が残った。
 兄もまた、何も語らずに思い悩んでいた。
「国王はまだ戻られぬか」
 言動こそ落ち着き払っていたが、細長い指は父から託された家宝と体を繋ぐ紐に添えられていた。心の準備もできず託された重みを一刻も早く返したい様子だった。
「グランベルが出兵を決意したとの報あり。国の意思でないことを直接伝えに向かうとのことでした」
「そうか、ご苦労だった」
 兄は兵の肩に手をのせた。父の姿を真似ただけのぎこちない労いだったが、兵は光栄だと言わんばかりに傅いた。
「では、失礼します」
 早足で去っていく兵の後ろ姿を見つめながら、私はため息をついた。
 姉は無事だろうか。
 姉は、イザークの民にしては淑やかで、周囲をよく気遣う人だった。我を通す気の強さはあるが、勝ち気で家の者を困らせる私と違い、姉の強さは他者の批判を気にしないことにあった。例えば、剣と共に生きる家族の中で、剣を扱えない事情を恥ずかしがらずに誇ってみせるような、そういう類の強さだ。
 要するに、姉は強かだが、戦うための剣も持たなければ見かけの強さもほとんどない。そんな姉がこの波乱を生き延びられたのか心配だった。
「兄さん」
 不安な心情を隠しきれずにいると、兄はやさしい色の黒目をなだめるように細めた。
「あいつなら無事だ」
 兄の声は掠れていた。

 それから数日は落ち着いた時間が流れた。依然として姉の行方はわからなかったが、あとは父がグランベルと話し合えば全てが解決するはずだった。
 だが、安息は長く続かなかった。
 朝。静けさが徐々に崩れ、一日の始まりを感じる時間。馴染みある生活音に混ざって衛兵の悲鳴じみた声が聞こえた。何事かと手近な露台に向かうと、不吉な赤が曇天にまっすぐ伸びていた。王の崩御を知らせる狼煙だ。
 突然訪れた輪郭の定まらない喪失。伝達された意味を知っても、感情がついてこなかった。今でもあの赤は目に焼き付いている。
 それから追い打ちをかけるように、空にもう一つの狼煙が上がった。敵襲を知らせる色だった。
 遅れて駆けてきた兄は、空を一瞥するなり冷たい声を発した。
「おのれ、グランベル……」
 日頃は表情に乏しい唇から、鮮やかな血が一筋流れた。それで、ようやく私にも慟哭の衝動が訪れた。
 父が死んだ。国の王である父は、家族との二択を迫られ国を選んだ。父の勇敢な選択で、リボーのことは片がついたはずだ。だというのに、その父が何故、死なねばならないのだろうか。先に国境を侵したのはイザークの民だが、それに対して礼を尽くした王を殺すなど、あってはならないはずだ。
 湧きあがる感情を堪えるため握りしめた拳は震えてしまった。
 狼煙の色が消えるまで、空から目が離せなかった。
 そうしている間に、気づけばシャナンが兄の近くに寄っていた。兄は口元を拭ってから、屈んで愛し子の頭を撫でた。
「父さん泣いてたの?」
「泣いてないさ。それよりもシャナン……船に乗ってみたいと言っていただろう」
 八歳を迎えたシャナンは、国外に興味を示すことが増えていた。中でも、海とそれを超えた先のレンスターの街並みが気になるらしく、以前からたびたび船に乗りたがっていた。
「アイラと行ってくるといい」
 卑怯だと、今になっても思う。
 兄は家族に一つも相談せず、一人で全てを決めてしまった。
 シャナンもある程度の状況は理解しているらしく、ちっとも嬉しそうにしなかった。小さな体で、服を力いっぱい握りしめて俯いていた。
「父さんは?」
「すまない。私はおまえのお爺さまの分まですることがあるんだよ」
「おじいさま、まだ帰らないの?」
「シャナンがここに戻る頃には帰ってくるさ。わかったら準備をしておいで」
「……うん」
 冷風が兄の髪を靡かせ、横顔を隠した。兄はシャナンの姿が見えなくなっても、私を見ようとしなかった。
「聞いただろう」
 兄の指が腰の剣に触れた。指先が震えていた。震えながらも剣の重みを受け入れていた。
 兄にバルムンクを渡す父の姿を見た時、私は誇り高き剣を身内争いに巻きこまないために預けたのだと思っていた。けれど、父が戻らぬ人となった時、私は気づいてしまった。
「アイラ、シャナンは我が国の希望だ」
 父は先のことを考えていた。初めから、グランベルと戦争になった時は、兄に残りを託すつもりだった。あの日、二択に思えた選択には、もう一つの可能性があった。
 家族を討ち、国も守れない。
 残酷すぎる可能性に兄がいつ気づいたのかわからない。
 ただ、目の前の兄が、次の王として運命を受け入れたことだけはわかった。
「兄さんは」
「民を守らねばなるまい」
 追い詰められた状況の中で、兄は国を守る唯一の希望シャナンを私に託し、誇りを一人で背負いこんだ。
 本当は、私もイザークの誇りのため、兄と共に最後まで戦いたかった。

 イザークと大国グランベルの争いを皮切りに、ユグドラル大陸の各地で戦争が勃発した。最初に火種が飛んだのは、イザークから最も離れた位置にある国ヴェルダンだった。イザーク王国への遠征で戦力が薄くなったグランベルに、ヴェルダンから攻撃をしかけたのだ。
 自然豊かな遠国は、私がシャナンを連れて逃げてきた地でもあった。
 グランベルが敵に回った以上、どこへ行っても救いの手はない。ならば、せめて祖国から少しでも離れた地へに逃げようと、私は船でトラキア半島へ行き、そこからヴェルダンへ向かった。ヴェルダンとグランベルは同盟関係にあるが、国交も厚くないため亡命先として妥当に思えた。
 遠国に着いた頃には、シャナンと暮らし続けるための資金が底を尽きた。日々の食事すら困るありさまだった。イザークの剣を傭兵業に使うと決意したのは、やむを得ない選択だった。シャナンを守るには、それしかなかったんだ。
 
 傭兵として働きながら、私は必死に生きる人々の姿を知った。その日に暮らす金を得るために雇われる者、大事な人を守るために武器をとる者、無惨な傷口に怯みながらも怪我人の手当てを続ける者。皆、戦争という形で突然訪れた耐えがたい不幸を、自分だけではないと言い聞かせて、懸命に歩み続ける者たちばかりだった。
 一方で、雇い主と一部の取り巻きは、不幸を扇動する張本人だった。彼らは民から搾取することに必死だった。私はそれに嫌気がさし、彼らのもとを去ろうとした。

 私には、シャナンを残して水を汲みに出る習慣があった。寝起きに水を求めるシャナンのための行動だった。
 その習慣がいけなかった。雇い主の元を去ると決めた翌日、水の入った桶を片手に部屋へ戻るとシャナンの姿が消えていた。
 代わりに雇い主のキンボイスがいた。
 私は咄嗟に桶を投げつけた。相手が怯んだ隙に剣を抜き、喉元に突きつけた。
「シャナンをどこへやった」
「ひい、おっかねえ女だ。あんたの大事なガキを殺されたくなければ剣をしまいな」

 案内されたのは薄暗い地下牢だった。私はあまりの寒さに腕をさすった。土が剥き出しの地面のせいで、外と変わらないほど冷えこんでいた。冷えた空気からは薄まった血の臭いを感じた。壁には鞭打ちや爪剥で使う道具があった。拷問の場を兼ねているらしい。
 シャナンが拷問にあう可能性を考えた時、私は我慢ならずにキンボイスを睨みつけた。彼は下品に口角をあげた。
「今はまだ傷つけちゃいない。おまえの返答次第だ」
 シャナンが囚われた牢の左右には、大男揃いの軍の中でも特に腕っぷしが自慢の男二人が立っていた。
「シャナン」
 牢に駆け寄ろうとして、男たちに止められた。キンボイスが背後から話しかけてきた。
「ガキを守りたければ、おれが留守にするあいだ、しっかり城を守れよ。おかしなマネをすれば命はない」
 すかさず応えたのはシャナンだった。
「アイラ、こんな奴等の言いなりになっちゃだめだ」
 寒さと恐怖に震えながらも決して屈しない、したたかな瞳。
 その姿を見て、私は奴らの言うことを聞くと決めた。シャナンが自らの安全よりも、私の剣士としての誇りを守りたがったのなら、たとえこの手が汚れても愛する祖国は守られる。
 勇敢なシャナンの姿に、私は国の未来を見ていた。奴らを全員倒すことも不可能ではなかったが、安全に救えるならその方がいい。

 グランベルから来たという敵は手強かった。彼らは騎兵の素早さを活かした戦術を仕掛けてきた。攻撃をしてはすぐに後退されてしまい、馬を持たない私は攻撃を凌ぐばかりだった。
 城を守ることが目的とはいえ、放置すれば戦況が悪化する一方だった。私は打開の一手を打つべく、後退する騎兵を追いかけた。
 そのうちに、城が霞んで見えるほど遠い森に来てしまった。
 ヴェルダンの薄暗い空気の中でも、森は特に暗く、視界も悪かった。敵の気配を感じようと耳を澄ませば、武器同士がぶつかる音や鳥の鳴き声、木々のざわめきが聞こえてきた。
 それらの音から、馬の足音を聴き分けた。
 敵も警戒しているのか、近づいてくる音は一つだけだった。
 私は木々のかげに身を隠した。音が近づいてくる方角をじっと見つめて相手を待った。
 卑怯だと思われるかもしれないが、国の希望を人質にされた私には手段を選ぶ余裕がなかったのだ。普段であればこんな戦い方はしない。
 近づいてきた騎兵は、騎士には珍しく白いターバンを頭に巻いていた。のちに彼がシグルドの騎士アレクだと知った。
 何人かと戦った後らしく、アレクのターバンには赤い染みがあった。
 馬が足をゆるめた一瞬を狙って、私は背後から斬りかかった。動いた瞬間のわずかな気配で攻撃を避けられた時には驚いた。
 向かい合った騎士は、不思議そうな顔をして話しかけてきた。
「……あんた、城に戻らなくていいのか」
「敵に話しかけるとは、ずいぶんと余裕だな」
「あんたが強いから言ってるのさ。守りたい奴がいるなら急いで戻りな。そろそろ俺の主が城を落とす頃だ」
 話しながらも、アレクは私の剣をすんでのところで避けた。向こうからも攻撃を仕掛けてきたが、私も難なくそれらを避けた。本人に確認したことはないが、当てるつもりがなかったのだと思う。
「その話を信じる理由は?」
「今はないが、城から狼煙が上がれば信じるしかないだろう」
「何故、今教えた。お前の主君を斬るかもしれないのに」
「あんたは強いが主の敵じゃない。そして俺は、おしゃべりせずあんたとやり合ったら死ぬと思った。主君を悲しませることはしない主義だ」
「変わったやつだ」
 その直後に狼煙があがった。一瞬、祖国で見た光景が頭をよぎる。ヴェルダンの曇天が嫌な予感に拍車をかけた。
 アレクには、もはや攻撃を仕掛けるつもりがないようだった。
「シグルド様は優しい方だ。守りたいのが子どもなら、無事だろうよ」
 励ましは気休めにもならなかった。
 散々書いてきたが、私が守る存在はただの子どもではなかった。イザーク王国の未来を背負う王子だ。いくら心優しい主君でも、敵国の王子を生かしてはくれまいと、その時は思った。
「シャナン、無事でいて……」
 生きた心地がしないまま、私は震える足を必死になだめながら走った。

 シャナンが囚われた城に駆け込むと、青髪が特徴的な長身の男が姿を見せた。シグルド殿だ。のちに私は彼に恩を返すため命をかけて戦った。
 私を見つけた瞬間、彼は人好きのする笑顔を見せた。
「ああ、よかった、無事だったか」
 私は警戒して剣を構えたが、シグルド殿は武器を持とうとしなかった。
「安心してくれ。シャナン王子は取り戻した。きみがイザークの王女であることも聞いている」
 私は構えた剣をおろせなかった。
 当時の私は、父を不当に奪ったグランベルを憎んでいた。
 彼の人柄を知った今では恥ずかしい話だが、油断させた隙に二人まとめて人質にするつもりかもしれないと、彼を疑っていたのだ。
 そこへシャナンが駆けてきた。
「アイラ、もう戦わなくていいんだよ。シグルドはぼくたちを助けてくれるんだ」
 シャナンは諌めるように私の腕に触れた。一瞬、父に叱られたかと思った。それからすぐに子ども特有の無邪気さで笑った。
 囚われた時の不安などなかったような曇りない表情に、私もシグルド殿を信じようと思った。シャナンがここまで晴れやかに笑う姿を見るのは、亡命して以来初めてだった。
「私も光の戦士バルトの末裔。きみの信頼を裏切ることはしない。それに、子どもを戦争に巻き込みたくはないんだ」
「わかった。それなら私も恩に報いる。それがイザークの戦士の掟だ」
 シグルド殿から滲む人の良さに、私はグランベルへの恨みまで忘れそうになった。だが、戦争では個人の意思などほとんど役に立たない。彼にそのつもりが無くとも、道を違える可能性は十分にあった。グランベルを許すわけにはいかなかった。
 心優しい公子に伝えるべきか悩みながらも、私は言った。
「……グランベルが憎い敵である事は今も変わらぬ。いずれ剣を交える日が来ることを覚悟しておいてほしい」
「戦争とは残酷なものだ。私は、きみを敵にはしたくない」
 心の底から残念そうな顔だった。私はその顔を見なかったことにして、シャナンを抱え上げた。

 アイラは、椅子から立ち上がり手記を眺めた。
「……さすがに書きすぎたな」
 これ以上書いたところで、あの日を知る手掛かりにはならないだろう。それに、ここまで赤裸々に全てを綴る必要はないかもしれない。
 少し悩んでから、アイラは白紙の頁になるまで帳面を破り捨て、先頭の頁に言葉を添えた。

 イザーク国民へ残す。
 我らが恨むべき存在は誰もいない。
 迷った時は、己が信じるものを思い出せ。

          イザーク王女 アイラ

すてきなお茶会へようこそ

 アイラがユグドラル大陸で最後に見たのは、一面に広がる雪景色だった。
 雪の上には既に温度を失った数多の兵が倒れていた。周囲は赤く染まっていて、冷え切った錆の匂いがあった。
 ユグドラル大陸で最も寒冷とされる国シレジアで、その中でも一際強い寒さが間近にせまる季節。アイラは戦いの痕跡を眺めながら、子どもたちの待つセイレーン城を目指して歩いていた。

 グラン歴七五九年。シレジアで内戦が勃発した年は、幸か不幸か比較的温暖だった。シレジアの寒さは厳しいと聞いていたが、日中は雪が溶けだす程に気温が上がった。溶けだした雪は、水気を増して重く足にまとわりつく。靴には冷水が染みて、歩くだけでも体力が奪われた。
 戦いとなれば尚更ひどい。剣を振ろうと踏み出した足がとられて体勢を崩す場面も少なくなかった。普段と異なる戦場に兵たちは苦戦を強いられていた。
 ましてや、アイラは産後だった。
 スカサハとラクチェを産んでから、たった三ヶ月。シャナンや夫のホリンには出撃を止められたが、聞く耳を持たずに剣を手にした。生まれたばかりの子ども達を城に残るエーディンやティルテュに託し、アイラは戦う道を選んだ。
 イザークの戦士として、目の前の戦場から逃げるわけにはいかなかった。
「お前の剣がある限り、負けはしない」
 ホリンから贈られたゆうしゃの剣を胸の前で構えながら、アイラは言った。ホリンは静かに眉をひそめた。
「動きの鈍いやつは足手纏いだ」
「鈍いかどうか、ここで手合わせをするか?」
「仲間内で消耗している場合じゃないだろう」
「ならば行かせてくれ」
 何もせずに待つことは性分に合わない。兄と別れてからまもなく三年。誰かに守られながら逃げることは、もう二度としたくなかった。
 その上、アイラは恩人のシグルドが国から追われた理由に責任を感じていた。彼がグランベルへ戻れない理由の一つに、敵対国の王子シャナンを匿ったことがある。
 アイラは誇り高きイザークの剣士だ。彼から受けた恩を思えば、産後とはいえ、むざむざと守られている場合ではなかった。
 胸中にうずまく想いを言葉にすることはなかったが、ホリンは渋々とアイラの出撃を認めた。元々色の薄い彼の唇は、いつもより強く結ばれて、さらに薄くなっていた。

 敵味方入り乱れる戦場で、ホリンは片時もアイラから離れようとしなかった。いつも以上にぴたりと付き添っていることに、アイラもわざわざ文句は言わなかった。逆の立場ならアイラも同じことをする。心配を口に出せない分、せめて培ってきた剣で家族を守りたいのだ。イザークの剣士らしい剣での主張をホリンは心得ていた。彼のそういう気質を気に入っている。
 久々の戦いでも、アイラの剣筋は以前と同じ鋭さを保っていた。しかし、戦いが長引くほど体力の不足が浮き彫りになった。雪の影響もあるが、それを含めても体力が戻りきっていない。少し剣を振っただけで、おそろしい疲労感が全身を襲う。
 いくら逃げたくないとはいえ、この状態では命を無意味に使うだけだ。
「すまない、お前が正しかった」
 敵の波が引いた頃合いを見計らってホリンに伝えると、彼は血に濡れたまま優しく笑った。
「戻るぞ」
「ああ。だが、ホリンはここに残れ」
「一人で離れるつもりか」
「仕方ないだろう。既に次の敵が近づいているからな」
 雪原の奥に視線をやると、ホリンも同じ場所を見た。まだ輪郭がはっきりしない遠方に、大軍の気配を感じる。
「本当に、大丈夫なんだな」
「己の力量は知っている」
「気をつけろよ」
「ホリンも」
 アイラは夫に別れを告げて、進んで来た道を引き返した。
 ワープの杖に頼ることも考えたが、治癒の人手が不足しているため遠慮した。

 帰路に危険はないはずだった。けれど、アイラは家族が待つセイレーン城へ辿り着けなかった。道中で突然の眩暈に襲われたからだ。世界がぐらぐらと歪む感覚に、立っていられず膝をついた。
 体力は十分なはずだった。一体何が起こっているのか、理解が追いつかないうちに意識が遠のいていく。視界が暗くなり、それから、雪の温度や山から吹き下ろす風の音が離れていった。

 次に目をあけた時、雪はどこにもなかった。それどころか、アイラは見知らぬ平原に立っていた。寒さはない。雨季を想起させる湿った風が吹いている。風にのって緊張感のない賑やかな声も運ばれていた。目の前には、象牙のフードを目深に被った見知らぬ存在。
 どこだ、ここは。
 無意識につぶやいた途端、喪失感が胸を覆った。誰に説明を受けるでもなく、アイラは状況を理解していた。元いたユグドラル大陸とは異なる世界にいることも、この世界で役目を果たさなければならないことも。
 アイラに与えられた役目は茶会の給仕だった。その直感は、見慣れぬ服装でも補われた。年若い女中が着るような、ひらひらのレースが肩や袖にあしらわれたブラウス、落ち着いた色ではあるが可愛らしいヘッドドレス。ゆうしゃの剣の代わりに腰に携えているのはケーキナイフに似た剣だった。刀身には細かな装飾が施されている。
「……元の世界には帰れないのか」
 信じたくないことを確かめるように呟くと、目の前の存在が申し訳なさそうに頷いた。
「しばらくの間は」
「そうか、仕方ないな」
 口にしながら思ったのは、元の世界への未練だ。
 アイラは守るべき存在も、愛する者も、返すべき恩も、元の世界に残してきてしまった。不可抗力とはいえ罪悪感が宿る。

 それから数日が経った。
 ダーナ侵攻が発端となった戦争の数々を思えば、突然の来訪になったアスク王国は随分と平和な国だった。
 戦力を欲して〝英雄〟を呼び続けているにしては、この国には笑顔も祭りもある。
 慣れない茶会の給仕をしながら、時折、夢を見ているような心地になる。しとやかな紅茶の香り、歓談を楽しむ声、甘い菓子の味。茶会にある全てが、アイラにとっては馴染みなく、現実味の薄い存在だった。
 いつまでも現実味の薄い世界に慣れないアイラと違い、時を同じくしてこの世界に呼ばれたシグルドとティルテュはすっかり世界に馴染んだようだった。彼らは、自らの家族を茶会に招き歓談を楽しんでいた。
 この世界の子ども達は、アイラの知っている小さな子どもではなく、すでに成長した大人の姿をしている。
 シグルドの子セリスは、父親似の青髪を腰あたりまで伸ばした物腰の穏やかな青年に成長していた。ティルテュの子であるアーサーも、同じように艶のある髪を長く伸ばしている。それから、アイラには心当たりがない子ティニーもいた。不思議なことに、ティルテュはティニーの存在を知っていた。
 難しいことはわからないが、同じ世界の仲間たちでも、呼ばれた世界の状態が異なるらしい。子ども達が大きく成長しているのも同じ理由らしいと、シグルドが教えてくれた。
 大切な者を招待して茶を嗜む仲間たちは幸せそうだった。
 けれど、どうしてもアイラは誰かを招待するつもりにはなれなかった。
 元の世界で、アイラは家族に一つも責任を果たせなかった。かといって、他に招待できる存在がいるわけでもない。
 それに、と言い訳がましくスカートをつまんだ。
「この格好ではな……」
 今のアイラは年頃の娘が好みそうな可愛らしい服を着ている。
 何もしてやれなかった子どもたちに親として接する時、今の格好では親らしさも威厳もあったものではない。
 自分が呼べない家族の分まで、幸せそうな仲間たちの姿を眺める。そうしていると、不思議と笑みがこぼれ、他者を祝福できることに安堵した。
「ふふ、みんな大切な人に来てもらえて嬉しそうね〜」
 心情に寄り添うように声をかけてきたのはメルセデスだ。
 彼女は、アイラとは異なる世界から呼ばれた女性だ。年もいくつか上らしい。アイラにとっては、元の世界の仲間たち以外にできた唯一の友人でもあった。
 面倒見のいい彼女から、アイラは茶の淹れ方や菓子の置き方といった茶会の作法を教わっている。彼女が生まれ育ったフォドラ大陸では、茶会の文化が庶民にまで浸透しているらしい。茶会よりも武闘会を好む祖国とは正反対の気質だ。
 メルセデスと話す時、アイラは少しだけ姉を思い出した。
 だからこそ油断した。つい身の上を話しすぎてしまった。
「アイラ、あなたは誰を招待したの?」
 メルセデスにとっては、些細な世間話のつもりであろう質問に息がつまる。彼女は、アイラの家族がこの世界にいることを知っている。誰も呼ばない違和感に気づかれてしまう。
 かつての仲間たちならばまだしも、出会って数日の存在に事情を説明しきれるほどアイラは口がうまくない。
 心優しい彼女に気苦労をかけることも、事実ではあるが無責任だと失望されることも、耐えがたいことだった。
「……私は誰も」
「え、どうして? たしか、息子さんと娘さんがいるんでしょう〜?」
「それは、そうだが」
 前の世界で、アイラは子どもたちと共に過ごすよりも、戦う道を選んでしまった。ホリンは子ども達の側にいることを望んでくれていたのに、彼が言葉を呑んだことに甘えて自分の主張を通した。
 その選択に後悔はないが、どうしても考えてしまう。
 もしも戦いに行かなければ、親として子どもたちにしてやれることも多かったのではないか。シャナンに再び寂しい思いをさせることもなかったのではないか。あの選択は、子ども達にとって不幸な結末をもたらしたのではないか。
 尽きない思いがある限り、自分から子ども達と関わることは気が咎めた。せめて親らしく振る舞えるのなら気にせずに済んだのかもしれないが、言ったところでアイラが茶会に精通するわけでもない。
「きっと、息子さんも娘さんもアイラに会いたいと思ってくれているわよ〜」
 アイラの抱える迷いは、メルセデスには伝えられない。
「いや、いいんだ。それよりも給仕の仕事をしなければ」
「アイラがそう言うなら……」
 メルセデスは顔にかかっていた髪をそっと耳にかけた。

 アイラはその日も給仕に励んでいた。茶はまだうまく淹れられないが、菓子は効率よく運べるようになった。
 忙しさの波も掴めてきた。日中は慌ただしい給仕も、午後の盛りが過ぎて日の入りが近づくと落ち着きをみせる。この時間であれば、茶を淹れる練習をしても迷惑にはならない。
 アイラは鍋に水を汲んで火にかけた。
 ゆれる水面をぼんやりと眺めながら、姉を思い出す。

 姉がリボーに嫁いだ日は、道のあちこちに水溜りがあった。豪華な刺繍の施された花嫁衣装が、水たまりに映り込み幻想的な景色をつくっていた。
「アイラ、元気でね」
 長年過ごしてきた場所を離れる不安もあるだろうに、姉は穏やかに笑っていた。
 当時五歳かそこらだったアイラだけが、別れを受け入れられずにいた。アイラは年の離れた姉が大好きだった。
 後ろ手に持っていたものを、ぎゅっと握りしめる。
 別れは悲しいが元気でいてほしい。その一心で手を前に出し、握っていたものを姉に渡した。
 姉は受け取ったものを見つめながら首を傾げた。
「くれるの?」
 姉の瞳は困っていた。
 それもそのはずだ。アイラが姉に渡したのは、鞘に王家の紋が刻まれた短剣だった。
 姉は家族で唯一、剣の扱いを知らない。まだアイラが生まれる前に手の筋を傷つけ、剣士になる道を絶たれていた。
 剣士として生きられないならば、と家族は姉に剣を持たせなくなったらしい。もっとも、姉自身も剣を好んでいなかったため、怪我をしてよかったと、よく冗談めかして笑っていた。
 そんな姉へ短剣を贈ることに、アイラも迷いはあった。けれど、まだ五歳かそこらだったアイラには、門出に相応しいものが他に思いつかなかった。
 姉に元気でいてほしい。そのためにも、姉を守りたい。
 アイラはそんな気持ちを贈り物に託していた。守りたいと言葉にしたところで、一緒にはいられない。ならばせめて、口よりも達者な剣に全てを託そうと思った。
「姉上のために用意した」
「ありがとう。どうして剣なの?」
「それは言えない」
「そっか……。大事にするから、いつか教えてね」
 姉は短剣を胸の前で抱えたまま、黒く艶のある髪を耳にかけた。彼女は新緑のように柔らかく微笑んでいた。
「いつか、気が向いたら」

 ぐつぐつと湯の沸いた音がする。最初は小さかった泡が、次第に大きくなり、生まれては壊れていく。
 姉はいつまでも短剣を大事に持っていたが、アイラは十年以上経っても、託した想いを伝えられなかった。
 一度でも、本当は側で守りたかったと言葉にすれば良かったのだろうか。そうすれば、リボーがダーナを攻める前に真の悩みを聞かせてくれたのだろうか。ダーナ侵攻を知った時の後悔が頭を巡る。
 だが、できなかった。無責任な言葉は口にすべきでないと教わり育ってきた。
 過去を思い出し感傷的になった気分を、茶の練習のために引き締めなおす。
「メルセデス」
 呼びかけた声の返事は遠くから聞こえた。
 いつもなら湯を沸かすアイラの近くで待っているのに、一体どうしたのだろう。急に給仕が忙しくなったのだろうか。
 不思議に思いながら返事の聞こえた方へ向かう。メルセデスは、茶会の受付近くの席に座っていた。
 手招きされるままに近づくと、突然、横から馴染みのない声に呼びかけられた。
「母様!」「母さん」
 声の先にいたのは見慣れぬ姿だった。
 それでも親は子の姿がわかるものらしい。
「ラクチェ、スカサハ……」
 当然ながらアイラが呼んだわけではない。
 もしかして、と視線をやるとメルセデスが淑やかに微笑んでいた。
「ティルテュにお願いしてアーサーとティニーに誘ってもらったのよ〜」
「二人が、素敵なお茶会をやっているから、わたしたちも来ないかって」
「俺も同じ時にここに来たので、二人とはよく話すんです」
 それから、スカサハは落ち着かない様子で柱に視線を向けた。すぐにアイラへと戻された顔が、無邪気な笑顔をうかべる。
「母さん、実は俺たちだけじゃないんですよ」
 スカサハが柱に向かって手招きをした。
 柱の影からは誰も現れない。スカサハの口角がみるみると下がっていく。ラクチェが勇気づけるようにスカサハの背中を押した。二人が互いに頷きあう。スカサハが手招きしていた柱へと駆けいった。
「シャナン様! 隠れていたら話せませんよ」
 聞こえてきた名前に胸が詰まる。
 しばらく待っていると、スカサハに腕をひかれながら、兄マリクルと見間違うほどにそっくりな青年が姿を見せた。
 艶やかに伸びた髪も、瞳の形も兄にそっくりだ。鼻の形は兄とは違う。昔からそうだった。シャナンは、鼻だけは母親似なのだ。
 アイラの前に立つと、シャナンは泣き顔を堪えるように唇を震わせた。昔と変わらない仕草がひどく愛おしい。イザーク王城で暮らしていた頃からずっと、彼は泣きそうな時、服を握りしめて俯きがちに唇を振るわせる癖があった。
 彼の腰には、家宝である神剣バルムンクがあった。受け継がれるべき家宝は、知らない時間の中で正しく持つべき者の手に渡ったようだ。
「アイラ……」
 兄とそっくりな声には寂しさが滲んでいた。その声に、アイラは俯いたまま顔を上げられなくなった。
 シャナンの寂しさには積み重ねられた深みがあった。アイラがいなくなってから、彼はずっと苦しんできたのだ。
 葉のゆれる音がさわさわと聞こえる。暖かな風がシャナンの髪を靡かせ、表情を隠した。
 艶やかな黒髪は、亡きマリクルを思いながら伸ばしたのだろうか。
 シャナンごめんね。寂しい想いをさせたね。大きくなったね。
 言いたいことは、何一つ言葉にならなかった。言葉の代わりに涙が溢れそうになる。
「アイラ。私、余計なことしちゃったかしら……」
「いや、あの……」
「母さん、ご迷惑でしたか?」
 スカサハも心配そうに訊ねてきた。きっと彼がシャナンを呼んでくれたのだろう。ラクチェも躊躇う気持ちに背中を押してくれていた。二人がたくましく優しい子に育ってくれたことが、たまらなく誇らしい。
 家族と再会したことで、無自覚に積み重ねようとしていた後悔を自覚する。
「……私は、以前できなかった親らしいことを、今度こそお前たちにと思っていた。だが、私は茶会に馴染みがない。それに、このような衣装では」
 素直に伝えようとした矢先から、何も言えなくなってしまう。長年の癖をすぐに変えることは難しい。
 言葉に詰まったアイラの手をラクチェが握ってくれた。
「母様! 私は一緒に過ごせるだけで嬉しいですよ」
「俺もです。ですから、どうか楽しい時間を一緒に過ごしてください」
「お前たち……そうか、そうだな。苦しい時も楽しい時も共に過ごすのが、家族というものだったな」
 兄が苦しい時、共に過ごせなかった悔しさ。姉が悩んでいる時に寄り添えなかった虚しさ。シャナンや子ども達を守ることばかりに必死で、傍にいてやれなかった後悔。
 アイラが何かを言えていれば、幾つかには違う結果があったのだろう。だが、それこそ考えても仕方ないことだ。アイラの歩んだ道は変わらない。
 見つめるべきは未来だった。召喚士は元の世界に帰れないとは言わなかった。時の流れで失われた家族のことは難しくとも、目の前にいる家族とのことは、これからも変えていけるはずだ。
 アイラは滲む涙を指でぬぐった。かけがえのない家族を抱きしめる。家族が抱きしめ返す感覚に、アイラはまた、泣きたくなった。

二人のアイラ

 アイラがもう一人の自分の存在を知ったのは、家族と同じ卓を囲み、幸せな時間を過ごしていた時だった。
 再会してからというもの、家族はたびたび茶会に足を運んでくれた。集まった時の話題は、スカサハやラクチェのことばかりだった。
 特に、シャナンが教えてくれる幼い頃の二人の話をアイラは好んでいた。
 二人は外遊びが好きで、目を離せばすぐ外に出てしまう手のかかる子だったらしい。イザークの民らしい義理堅さもあり、シャナンの誕生日には毎年寝癖もなおさず先を競うように贈り物を持ってきてくれたという。
 些細な日常話の中で、二人とも立派なイザークの戦士に育ったと、シャナンはしみじみと何度も口にした。
 彼が話すあれこれを、双子は時に懐かしそうに、時にこそばゆそうにしながら聞いていた。
 聞かされる思い出話は、アイラの知る大陸を考えると不自然なほどに楽しいことばかりだった。ホリンの話が一つもない違和感をしばらく覚えさせなかったほど、シャナンは楽しい話題ばかりを選んで話していた。
 きっと、アイラに気を遣ったのだ。話題にでないということは、ホリンの命も戦乱の中で失われたのだろう。不思議なことではない。
 こうして、不思議な世界で成長した子ども達に会えたのは、シャナンが苦しい時も二人を守り抜いてくれたおかげだ。

 その日は珍しく双子の思い出話ではなく、この世界に来た時の話をしていた。
 語る状況は皆まちまちだった。スカサハは道を歩いていたら突然景色が変わったそうだ。シャナンは剣の手入れをしているときに周囲が一変したと語った。
 ラクチェはいつものように眠り、目覚めた時に世界が変わっていたらしい。見慣れない場所でも、すぐにシャナンと出会えて安心したという。
 彼女はこの世界に来て初めて一年以上、双子の兄の顔を見なかったと言った。
「今までいるのが当然だと思っていましたが、離れていても大丈夫なものなんですね」
 生まれた時から一緒だった双子の不在に対するラクチェの感想はさっぱりとしていた。スカサハも妹の言葉を予想していたらしく、特に気にしたそぶりはない。
 シャナンだけが哀れに思ったのか、ラクチェが一息ついて茶を飲む横で、慰めるようにスカサハの肩に手をおいた。
「私は寂しかったな。二人揃った時の気迫を知っているとどうにも」
 仰々しいため息。どうやら哀れんだのではなく、からかったらしい。
 シャナンの言い方は、スカサハの不在を寂しがるというよりも、稽古相手の不在を嘆いていた。立派な青年の姿になっても、幼少からのやんちゃな性分は形を変えて残っているようだ。
 一方、先ほどまで平然としていたスカサハの態度には強がりも含まれていたのかもしれない。
「シャナン様!」
 喜ぶ表情を隠そうともせずシャナンを見つめたスカサハに、母としては複雑な心境になる。
 ラクチェも同じだったらしい。やれやれと言いたげにため息をついてから、アイラが呑みこんだ言葉を彼女は容赦なく言い放った。
「スカサハ、あんた稽古相手としか思われてないわよ」
「いや、豪快な食べっぷりも恋しかったぞ。食費に苦心しなくていいのは楽だが、居ないと物足りない」
「ここで財布の紐を握ってるの、アンナさんですよね」
「気づかれたか」
「シャナン様……」
 落胆を隠さずにスカサハがうなだれる。
 流石に可哀想になったのか、ラクチェは励ますように彼の背中を叩いた。
「まあいいじゃない。今こうして一緒にいるんだから。それに、あんただって人の事言えないでしょ」
 ラクチェは楽しげに口元を手で隠した。スカサハは痛いところを突かれたらしく、ますます肩を落としている。
「来て早々、母様と私を見間違えるなんて、本当にドジよね」
 スカサハが慌てて彼女の口を押さえたが、すでに手遅れだ。
 家族の掛け合いを眺める楽しさが途切れ、困惑が胸を覆う。
 アイラが呼ばれたのはスカサハよりも後のはずだ。
「どういうことだ?」
 ラクチェの顔がさっと青ざめた。
 再びの気まずい沈黙。
 ぬるくなった紅茶を一口飲む。最初と比べれば上達したが、まだ渋みが強く、飲み込んだ後も消えない苦味が残る。
「実は、母様はもう一人いるんです」
 ラクチェはおそるおそるとシャナンの顔色を窺った。
「もう一人の母さんは、たまに俺たちに剣を教えてくれます。ですが……」
 スカサハもなぜか探るようにシャナンを見た。
「二人とも、気を遣わなくて良い」
 シャナンが小さくため息をつき、困った顔で笑う。
「もう一人のアイラは、私を避けている」
 この世界に本質的には同じ別人が存在することは、来て間もない頃に理解していた。シグルドも、四人いる息子の一人はどれほど誘っても茶会に来てくれないと嘆いていた。
 だが、アイラはもう一人の自分の存在を誰からも聞いたことがなかった。再会した時のシャナンの反応からも、ずっと会えずにいたのだと思い込んでしまった。その思い込みはある意味正しく、間違っていた。
 シャナンがアイラに会えなかったのは、アイラが世界にいなかったからではない。会ってもらえなかったからだ。
「だから言わなかったのか……」
 責めたつもりはなかったが、三人揃って黙り込んでしまう。
 日暮れの近づいた空がうっすらと赤らむ。
 しばらく経って、シャナンが咳払いした。
「スカサハ、ラクチェ。すまないが席を外してくれるか?」
 二人は短く目配せをして立ち上がった。小さくなる後ろ姿を最後まで見届けてから、アイラとシャナンは向かいあった。
「とはいえ、どこから話せばいいものか……」
 考え込んだシャナンの髪がさらさらと揺れる。死者を悼む匂いがした。積み重ねた喪失を思いながら、もの悲しい気持ちになる。
「無理に話す必要はない」
「いや、伝えさせてくれ。アイラ、リューベックでの記憶はあるか?」
 それはイザーク王国に最も近いシレジアの都市の名前だった。だが、アイラにはその地との関係に心当たりがない。
「そんな気はしていた。私の知るアイラは、戦いの途中で私と別れてグランベルに進軍した」
「そんな無謀な」
 どう考えても、当時シレジアへ逃れた軍にグランベルと渡り合えるだけの兵力はなかった。シャナンの発言は、死に戦へ向かったと言われることとほぼ同義だった。
「シレジアにこれ以上迷惑をかけるわけにはいかないと、シグルド殿が決意されたのだ」
 アイラの知らない状況をシャナンは語っていた。知らないはずだが、情景が頭に浮かぶ。
「そうか。私は恩を選んだのだな」
 意外な選択だった。決断を迫られた時、アイラは恩よりシャナンを選ぶだろうと思考のふちでうっすらと思っていた。ヴェルダンに逃れた時、誇りよりもシャナンを優先して剣を手にしたように。
「……うむ」
 シャナンの態度はどこか煮え切らなかった。
 再会の時もそうだった。シャナンは近くまで来ていながら、スカサハが腕を引くまで姿を見せなかった。
 シャナンは〝アイラ〟が彼を避けていると言っていたが、彼もまたアイラに遠慮している。
「何を隠しているんだ」
 シャナンは話すべきか迷っているらしい。じっと俯いて黙ってしまった。その視線は腰の剣に向けられていた。
 すでに、他の席は片付けが終わっていた。賑わいの去った二人ぼっちの茶会場。給仕を共にする仲間たちの姿すら見当たらない。
 茶卓の真っ白な布は、夕陽に照らされわずかに色を持っていた。日暮れ前のシレジアと同じ色だ。
 アイラが倒れた雪の先にあるはずの思い出が、シャナンを悩ませていることだけは理解していた。
 もしかしたら、もう一人のアイラがシャナンを避ける理由も、雪の続きにあるのかもしれない。
 シャナンが静かに息を吸った。
 静謐を崩さないまま、やわらかな色の瞳がアイラを映す。
「私と手合わせをしてくれないか?」
 そこには揺るがない覚悟が宿っていた。
 家族として、師として、応えないわけにはいかないだろう。
 彼の求めている存在が途切れた時間の先に続く〝アイラ〟だとしても、彼はそれを承知で頼んできたのだ。
「私が勝つぞ」
「アイラなら、そう言うと思った」
 伏し目がちに頷いたシャナンは、残っている茶を一息に飲み干して立ち上がった。

   ◇◇◇

 茶の香りを微かに感じる平地で二人は向かい合った。無言で互いの剣を構える。
「シャナン、準備はいいな」
 元の世界では叶わない憧れた剣そのものとの対峙。それは、シャナンにとって勝負以上の意味を持っていた。
 ——私はアイラとの約束を果たせただろうか。
 不安な心情を悟られないよう、深く呼吸をする。剣を構え直し、シャナンは頷いた。
「ああ、問題ない」
 互いに、すぐに踏み込むことはしなかった。心を凪いで間合いを探りあう。足は決して止めず、互いにゆるやかな円を描きながらじわじわと距離を縮めた。
 高まる緊迫感。動き出すまでの時間はそう長くなかった。先に仕掛けてきたのはアイラだ。迷いなく放たれた流星剣をシャナンが受ける。ぶつかった剣の音が響き、腕に重みが伝わってきた。拮抗する実力に、ますます剣は精緻を極め、ぶつかる音が重く、強く変化する。
 アイラの剣には、強い後悔と、それを繰り返さない固い意志が宿っていた。だが、シャナンも想いの強さで負けてはいない。彼はアイラを失ってからの日々全てを、この手合わせに懸けている。

 リューベックでシグルドたちと一時の別れを決意した時、アイラはシャナンと共に国へ戻る予定だった。実際に、アイラは仲間たちに別れを告げて、祖国への帰路についた。
 けれど、旅立ってすぐに、シャナンはアイラが思い悩んでいることに気づいた。シャナンと二人で祖国を亡命した時ですら来た道を振り返らなかったアイラが、未練を残した顔で何度も後ろを見つめていたからだ。
「もう、戦い始まっちゃったかな」
 そばで感じる未練に耐えきれず服の裾を引くと、アイラは驚いた顔をしながらも、屈んで目線を合わせてくれた。
「シャナン。……心配しなくても大丈夫だよ。みんな、無事に帰ってくるからね」
 言い聞かせるように、アイラは上滑りした声でもう一度「大丈夫だよ」と言った。シャナンと話す時だけ、アイラはいつも優しい物言いをする。
 その優しさが、シャナンには苦しかった。
 ——ぼくが、アイラの自由を奪っている。
 アイラは誇り高きイザークの戦士だ。産後、まだ体力が戻りきっていない時ですら、周囲が止める声をきかずにアイラは戦いに行った。その後に倒れて帰ってきた時は心配したが、それでも剣士アイラが好きな気持ちは変わらない。
 シャナンは、危険に飛び込んで欲しくない感情と同じくらい、苦しい時も剣を手放さない勇敢な剣士アイラの姿を誇りに思っていた。
 これから祖国へ戻ろうというのに、アイラは明らかに無理をしていた。イザーク王国から二人で逃れた時よりも、アイラは逃げることをつらく思っている。シャナンを守るという使命がアイラから剣を手にする選択を奪ってしまった。
 大事なホリンを戦場に残し、シグルドへの恩を返しきれずに去ることをよしとする人ではないことを、シャナンはよく知っている。
 アイラ、みんなのところへ行きなよ。
 思った直後に、どこか遠くへ消えてしまいそうな、優しい瞳が視界に入る。
 アイラ、行かないで。
 矛盾する感情が交互に押し寄せた。
 深呼吸をすると砂っぽい味がした。戦場から吹く風が運んできたのだろう。
 アイラはまた、風が吹く方角を見た。
 やはり戦場に戻るべきだと強く思う。今まで、シャナンが未熟なばかりに何度もアイラの自由を奪ってしまった。誰よりもアイラの我慢を知るシャナンが、目の前の未練を無視するわけにはいかない。背中を押せるのはシャナンだけだった。
 アイラを戦場に向かわせる方法なら、一つだけある。
 本当は行ってほしくない。だけど。
 シャナンは覚悟をきめて一生懸命に慌てるふりをした。
「アイラ、どうしよう! ぼく、シグルドに大事なものを返し忘れてた」
 出発の前にシグルドから預かったディアドラのハンカチを取り出し、アイラの手に握らせた。シャナンのためにと持たせてもらったものだ。
 アイラは受け取ったものを見つめてから、シャナンにハンカチを返した。まだ小さなシャナンの手を包むように、皮膚が硬くなった剣士の手が重ねられる。
「シグルド殿なら心配ない。戦いが終わった後に返そうね」
「ううん、それじゃダメなんだ。これはシグルドのお守りだから。ぼく、これがなかったせいでシグルドが全力を出せなかったら、悔やんでも悔やみきれない」
「シグルド殿はそれくらいで負けるような人では——」
「わかってるけど、でも、だって……」
 アイラは戻りたいんでしょ。
 本音を堪えて建前を探す。本音を言葉にすれば、アイラは見透かされたことを恥じて意地でもシャナンから離れないはずだ。
 だが、まだ幼いシャナンは、伝えるべきでない言葉を知っていても、続けるべき言葉を見つけられない。
 黙り込んだシャナンに、アイラは曖昧な笑みを浮かべた。
「わかった、私が届けよう」
 胸がずんと苦しくなった。
「ありがとうアイラ」
 やっぱり行かないでほしい。
 そう思う気持ちに耐えながら、笑顔をつくる。
「必ず戻る」
 てのひらを力いっぱい握りしめて、シャナンは頷いた。
「ぼく、アイラよりも強くなって待ってるから」
「期待している。……それから、私の帰りが遅くなった時はスカサハとラクチェに剣を教えてやってほしい。二人を頼んだ」
 シャナンが再び頷くと、アイラは安心したように背中を向けた。戻る足取りは軽かった。
 姿が見えなくなるまでの間、一度だけ、アイラは振り向いた。大きく手を振ると、アイラも手を振り返してくれた。
 シャナンは人影が消えても地平線をしばらく見つめ続けた。
 行かせてしまった後悔が、夕暮れに紛れる闇のように残っていた。

 イザークに帰り着いて数ヶ月。日差しが強くなり、歩くだけで汗が滲む季節になった。
 村で分けてもらった食糧を抱えながら皆で隠れ暮らす小屋に帰ると、オイフェがテーブルに伏せていた。子ども達は昼寝の時間だ。オイフェも疲れて眠っているのだろうと、音を立てないように食糧を片付け始める。そこで異変に気づいた。
 静けさの中、しのび泣く声があった。
「オイフェ?」
 伏せる姿に近づくと、オイフェは力なく顔を上げた。瞳が赤く腫れている。
「シグルド様、約束、したのに……」
 一瞬、何のことかわからなかった。けれど、泣き腫らしたオイフェの顔が歪むにつれて、シャナンは全てを理解した。
 仲間たちは、負けてしまったのだ。
「だって、そんな……。他のみんなは」
 オイフェが力なく首を振った。
「みんな、メティオに……」
 オイフェはそれ以上言えずに嗚咽を漏らした。シャナンは何も考えられなかった。形にならない焦りに急き立てられるまま、言葉だけが口からこぼれていく。
「ねえ、オイフェ。どうしよう、ぼく、ぼくは……アイラを。だって、嘘だよ」
 遅れて涙がやってきた。
 別れてから今日まで、オイフェもシャナンも皆が生きて帰ってくると信じていた。祖国を去ってからも笑えていたのは、皆がいたからなのに。
 鼻をすすりながら服を握りしめて俯いたとき、子の泣き声がした。ラクチェの声だ。
 ——二人を頼んだ。
 別れ際のアイラは一人の仲間に向かって伝えていた。
 シャナンにはまだ残されたものがある。もう、泣きじゃくって甘えるわけにはいかないのだと唇を噛んだ。痛みに混ざり血の味がした。
 溢れてしまった涙をぬぐう。
「……オイフェ、移動しないと」
 シグルドたちがたどり着けるよう、二人はわずかながら痕跡を残して逃げてきた。けれど、彼らが戻れないということは今後ますますグランベルの支配が強まるはずだ。万が一にも痕跡に気づかれたとき、同じ場所に留まり続けることは危険だった。
「そう、そうだった……」
 日頃冷静なオイフェらしくない姿を心配しながら、シャナンはラクチェをなだめ、身を寄せた村から離れる支度をした。同時に次の行き先を考える。
 隠れて暮らすなら、帝国の支配が薄く人の多い場所がいいだろう。山に囲まれたソファラの城下町か、寂れた城しかなく見放されている里村ティルナノグか。ソファラでは見つかった時の逃げ場がない。今いる場所からでは、移動の時にグランベルが占拠する王城の近くを通る必要もあった。ならば、何かあった時にはシレジアへ亡命できるティルナノグがいい。
 懸命に先を見据えながらも、シャナンは双子に謝りたくて仕方なかった。シャナンがアイラを戦場に帰さなければ、二人はもっと母の愛を知れたはずだ。
 だが、あの選択はアイラの意思でもあった。悔やむことはアイラを否定することにもなる。
 シャナンにできるせめてもの弔いは、アイラよりも強くなり、スカサハとラクチェにイザークの心を教えるという、剣士の誓いを果たすことだけだった。

 いつまでも続くと思われた長い勝負の決着がつき、二人は並んで平地に転がった。
「強くなったな、シャナン」
「アイラも、さすが私の師だ」
 一国を背負う王族として褒められた行動ではないが、今、二人はただの剣士だった。見上げた空はすっかり暗くなり、星が瞬いている。
「私の知らない約束があるんだな」
「やはり気づかれてしまうか」
「お前の師だからな」
 暗がりで表情は見えないが、アイラがすこし泣いている気がした。
「私がもう一人と会わせてやる。待っていろ」
 先に立ち上がったアイラの手が、すぐ近くに差し伸べられた。
 シャナンはその手を握り立ち上がった。

   ◇◇◇

 馴染みない優美な香りがあたりに満ちている。賑やかな歓談の声。
 この世界に来てから避け続けていた人の輪を感じる場所に、もう一人の〝自分〟はいた。
「来たか」
 同じ声、同じ顔、見慣れない服装。
「その格好、気恥ずかしくはないのか」
「もう慣れた。茶を淹れるから座ってくれ」
 大した説明もなく、彼女は茶器を手にした。
 茶が入るのを待つ間、二人が座るテーブルの周りだけが活気から切り離されていた。口数が多い性格ではないが、こうも周囲から浮くと落ち着かない。
「練習したのか」
「まだ不得手だがな」
 湯を注ぎ終えたティーポットを一緒になって見つめる。もう話題もない。
 朝日の眩しさに目を細めながらじっと待つこと数分。目の前のアイラがカップに茶を分けた。それから角砂糖を一粒。
 ぽちゃりと跳ねた紅茶を気にかけるそぶりもなく、彼女は匙で円を描いた。
「飲め」
 渡された紅茶を飲んだ瞬間、懐かしい感情がしのばれた。
「ホリン……」
 その味は、昔一度だけ飲んだホリンの紅茶と同じだった。

 ホリンは口下手な男だった。
 ホリンに限らず、イザークの剣士は口下手な者が多い。建国の祖である聖戦士オードのことすら、イザークの民は言葉として残していない。レンスターとトラキアの間にあるダインとノヴァを襲った悲劇も、エッダ教を支える大司教ブラギの伝記もオードにはなかった。ただ、彼が扱ったとされる三つの剣技、流星剣、月光剣、太陽剣が脈々と受け継がれるのみだ。
 そのうち、イザーク王家に残されたのは流星剣のみだった。残り二つの剣は、時代の中で王家から失われ、各地の部族に受け継がれていた。
 ホリンの月光剣を見た時、アイラは彼がイザークから逃れてきた同郷の者であることをすぐに悟った。けれどホリンは何も語らなかった。扱う剣技で出自を悟られると承知した上で、彼はアイラを王女として敬うこともしなければ、祖国を戦乱に巻き込んだ恨み言を言うこともしなかった。
 かといって、ホリンはアイラを避けることもしなかった。むしろ戦場ではよくアイラを助けてくれた。
 同郷の気やすさもあり、気づいた時には彼に気を許していた。

「私のせいだ」
 抱えきれなくなった弱音が口をついて出たのは、グランベル軍の襲撃を警戒しながらオーガヒルに立て籠もっていた時のことだった。シレジアへ向かう準備が整うまでの数日を、アイラたちはその砦で過ごした。
 アイラとホリンは、二人で海賊が倉庫にしまいこんだ剣を選別していた。
 海賊たちが溜め込んでいた剣は、両手でようやく数えられるほど大量の木箱にしまわれていた。錆びきって使えないものから新品同然のものまで、玉石混交の剣を一本ずつ確認して整理するのは、かなり骨の折れる作業だった。
「珍しいな。疲れたのか?」
 ホリンは、手にしたばかりの剣を木箱に戻した。アイラはホリンが戻した剣を手にとった。
「まだ平気だ」
「シグルド殿はお前を恨んではない」
 薄々、悩みのわけを察しているらしい。ホリンはいつもの表情のまま慰めの言葉をくれた。
「だが、私がもっと早くに軍を離れていれば、追われずに済んだかもしれない」
 手にした剣は、外見こそ綺麗だったが肝心の刃が欠けていた。
 アイラは使えない剣をまとめている箱に手元の物を放り込みながらため息をついた。不運な剣だ。正しい持ち主に渡っていれば、まだこの剣は活躍したはずだったのに。
 不運という点ではシグルドも同じだった。彼が疑われたきっかけは、彼の父にグランベルのクルト王子暗殺の容疑がかけられたことにあるが、それを真実めいたものとした要因には、彼がイザーク王家に与するアイラとシャナンを匿ったことも影響したはずだ。アイラは彼に恩を返すと言いながら、疑われる理由を増やしてしまった。
「シグルド殿は、それも承知で信じるものを選んだのだろう」
「それでも——」
「お前らしくない」
「ならばどうすればいい」
「変わらず剣を握り続ければいい。過去を変えられない以上、これからも信じるもののため戦うしかない。違うか?」
 ホリンは真面目な顔をしていた。唇を引きむすんだすこし不機嫌そうな表情。実際は不機嫌ではなく、心配してくれているのだと、アイラは短い付き合いの中で学んでいた。
「お前の言うとおりだ」
 不器用な気遣いを理解しつつ俯いていると、ホリンが立ち上がった。
「……少し待っていろ」
 短く言い残して部屋を去った男は、アイラが木箱一個分の剣を確認するほど待たせてから、紅茶の匂いと共に戻ってきた。
 戻ってきたホリンは、一つしかないカップをアイラに渡した。
「くれるのか」
 無言の肯定。
「こんなものより、仕分けを手伝って欲しかった」
「一人で進めたのか」
「お前が剣を握り続けろと言うから」
「……そういう意味ではなかった」
「知っている。気遣い、頂くぞ」
 頷いたことを確認してから、熱いカップの縁に口をつけた。
 紅茶は不味かった。煮出しすぎた渋みを無理に砂糖で誤魔化した味がする。それなのに、ホリンが感想を求めるように見てくるから、アイラは我慢ならずに笑い飛ばした。

「下手だな。これならお前と剣を交わした方が元気になる」
 アイラは必死に声を絞りだした。情けない顔をしている自覚がある。
「手合わせなら受けてたとう」
「だが、その前にお前にも飲ませなくてはな」
 まだ紅茶が残るカップを、向かいの存在に押しつけた。初めてホリンと情を交わした日の忘れられない思い出を、二人で確かめ合う。
「不器用すぎだ」
「だが、伝わっただろう」
 アイラは頷いた。
 どれほど苦しい想いがあろうと、信じるもののために進むしかないのだと、あの日ホリンは教えてくれた。ホリンがこの世界のアイラを見れば、また同じことをすると信じられた。
「お前はどこまで知っているんだ」
 目の前の存在は申し訳なさそうに俯いた。
「シレジアの雪景色まで」
「そうか。……その方が幸せだな」
「雪は、もう解けたか」
 アイラはためらわずに頷いた。
「暑いくらいだった」

剣士たちの語らい

 アイラを師として慕う少女が、真剣な面差しで素振りをしている。いつだかシャナンの紹介で訪ねてきた少女マリータは、ホリンと同じ月光剣の使い手だ。そして、助言だけで流星剣を形作る剣の才を持っていた。
 本人の口から聞いたことはないが、マリータの出身はイザーク王国だろう。それに加えて、最近アイラはあることに気づいた。彼女の耳の形が姉によく似ているのだ。耳朶が狭く薄い、特徴的な形。
 気づいた瞬間から、アイラは彼女の出自が気になって仕方なかった。出自で態度を変えるつもりはないが、希望に近い予感が感情を刺激する。
 マリータはガルザスの子ではないだろうか。リボーの顔だちが強い彼も、耳だけは姉によく似ていた。
 彼女がガルザスの子ならば、ダーナ侵攻の後に行方知れずとなっていた姉とガルザスは、どこかで生き延びていた可能性が高い。
 知ったところで過去には戻れない。理解はしているが、長年の気掛かりが彼女の出自を知りたがった。
 とはいえ、直接聞くわけにもいかないだろう。
 イザーク王家とリボーの関係は複雑だ。たとえ予感が真実だとして、彼女が出自をどう伝えられているかが肝心だ。何も伝えられていない可能性も大いにあった。
 あの時を知らずに済むのなら、その方が良い。両家の溝を知れば余計な角質や遠慮を生むだけだ。
 下手な探りは、最近彼女が最近仲良くしているスカサハやラクチェとの関係を崩すことにも繋がりかねなかった。
 そんなことを考えていると、マリータが一休みしにアイラの隣へ来た。
「今日も熱心だな」
「まだまだ、追いつきたい人がたくさんいますから」
 マリータの純粋な瞳は、つい世話を焼きたくなる魅力がある。
「そういえば、シャナンに手合わせはしてもらえたか?」
「はい! 先週お相手いただきました」
「よかったな」
 素直に表現された喜びに笑みが溢れた。大切な存在が人から尊敬される人物に育ったことも誇らしい。
「だが、お前はトラキアにある村の育ちだろう。なぜシャナンなんだ?」
「私の時代に生きてシャナン王子に憧れない剣士はいません。それに、イザーク王国は父様の祖国でもありますから」
 森に漂う木々の香りが祖国を思い出させる。斜面が多く平たい土地の少ないイザーク城では、剣の鍛錬場も限られ、そのほとんどで木々の香りが満ちていた。
「やはりイザークの出身だったか」
「え?」
「月光剣はイザークの剣だからな」
 彼女は剣で気づかれるとは思っていなかったのか、気恥ずかしそうに俯いた。
「これは父様を思い出しながら習得した技なんです。父様とは幼い頃にはぐれてしまいましたから、せめて剣だけでも繋がりを保ちたくて……」
「だから剣士になったのか?」
「はい。父様との繋がり、エーヴェル母様への憧れ。その両方が剣にはありました。……他にも、イザークの本を読んでいました。本当は禁止されていて捨てなければならない本だったのですが、どうしても読みたいと母様にわがままを言って。すみません。喋りすぎましたよね」
「いや、国が好まれるのは喜ばしいことだ。私でよければ色々と教えてやろう」
 それから、アイラはイザークの文化を彼女に話した。マリータは子どものように目を輝かせながらアイラの話を聞いていた。
 国旗とそこに込められる願いを教えた時、マリータはアイラの肩をじっとみつめた。
「その飾りも、もしかしてイザーク王国のものですか?」
 アイラの鎧には、国旗にもある山羊の角を想起させる小さな装飾が施されている。
「ああ、よく気づいたな。これはイザーク王家の家紋だ」
 よほど興味を惹いたのか、マリータはしばらく鎧から目を離さなかった。

 日暮れの時間、部屋に戻るため図書館の傍を通ると、ちょうどシャナンとすれ違った。左手に厚い書物を抱えている。
「フォドラの本か?」
 話しかけると、シャナンは一瞬驚いた顔をしてから嬉しそうにアイラの名を呼び、目を細めた。
「これはベレト殿のおすすめだ」
 もう一人のアイラがメルセデスと交流を深めたことも影響しているのか、シャナンやラクチェ、スカサハも、フォドラの英雄と共にいる姿をたびたび見かける。中でも、シャナンはベレトと話す姿を見かけることが多かった。
「良き友なのだな」
「さすが教鞭をとっていただけある。彼からは学ぶことが多い。先日手合わせもしたが、彼の剣術はユグドラルで見たことがない。フェリクス殿といい、フォドラの剣は我らと考え方が異なるのだろう」
 語る姿は饒舌で、瞳も子どもの頃のように活力に満ちている。
 微笑ましく思いながら生き生きとした顔を見ていると、シャナンは気恥ずかしそうに咳払いした。
「とにかく、アイラも一度手合わせをするといい」
「考えておく。……手合わせといえば、今日もマリータが訪ねてきた」
「彼女は勉強熱心だな」
「それで一つ聞きたいことがある。お前はマリータの出自をどこまで知っている?」
 一転、晴れやかだった表情に影がさした。シャナンは一度開きかけた口を閉じてから、風が吹く直前独特の静けさを保って言った。
「彼女はガルザスの子だ」
 予感していた事実でも、改めて聞くと感じるものがある。
「姉上の子のガルザスか?」
「うむ。遠くからだったが、従兄がマリータといる姿も見たことがある。まず間違いないだろう」
 イザーク王国の運命を変えた出来事を思い出し、アイラは目を閉じた。
 唐突な挙兵の知らせ、家族との別れ。
 日暮れの静けさと活気が混ざり合った音に心がざわついた。忘れられない狼煙を見た時も似た静けさと活気があった。
 あの頃、父が向かったリボーにも同じ悲劇があったはずだ。
 けれどマリータの瞳には欠片もあの頃の悲劇がなかった。
「マリータは、己の生まれを正確には知らないのだな?」
「おそらくは。彼女は私を憧れだといった。家族を奪った相手と知りながらあのような純粋さを向けるのは……難しいと思う。情けないが、私もアルヴィスのことはいまだに」
「そうか」
 アスク王国で誰も語ろうとしないバーハラでの出来事は、元の世界では悲劇の日から三日としないうちに各地に広まったという。
 反逆者シグルド、グランベルの後継者アルヴィス卿の手で処刑される。
 当時の知らせをシャナンたちがどのような気持ちで聞いたかは、確認するまでもない。
「それでも、シグルド殿はアルヴィスを茶会に招いたらしいな。本当に懐の深い方だ」
 彼の懐の深さは、ヴェルダンで恩を受けた時から何度も感じてきたことだ。シャナンの言葉に頷いていると、彼はこわごわと訊ねてきた。
「……アイラはガルザスと茶を飲めるか?」
「飲める。私は彼らを恨んでない」
 アイラはガルザスの悩みに気づいていた。家族を守りたいと言った彼を信じて王家秘伝の剣を教えたアイラが、どうして恨むというのだろか。
「ただ、いまだに信じられない。姉上の愛した男が何故あのようなことをしたのか。考えるほど答えが出なくなる」
「……ガルザスも、同じように思ってくれているだろうか」
 シャナンは遠くを眺めて目を細めた。
「すまない、アイラに聞くことではなかったな」
 遊びを断られた子どものように寂しげな瞳。シャナンとガルザスはまるで本物の兄弟のように仲が良かった。
 もしかしたら、マリータを紹介してきたとき、シャナンは話し相手を求めていたのかもしれない。当時の悲劇を知る者は、この世界にはアイラとシャナン、ガルザスしかいない。
 もし、そうだとするならば、アイラが罪悪感からシャナンを避けていた日々にもまた、彼は一人で悲しみを抱えていたことになる。
 一方で、かつて大事な存在を遠ざけたアイラには、ガルザスの想いも理解できた。彼がこちらに関わろうとしないのは、おそらく以前のアイラと同じ理由からなのだろう。恨んでいるならば、娘にイザークとリボーの間にあった悲劇を伝えない理由がない。
「……シャナン、ガルザスと話してみないか? 私もお前と剣を交わして学んだ。互いを避けてばかりでは何も変わらない」
「それができればいいのだがな……」
 シャナンは困った顔で空を見上げた。

   ◇◇◇

 群れをなした鳥が西に向かって飛んでいる。シャナンは日の眩しさに目を細めながら袖で額の汗をぬぐった。
「シャナン、服が汚れるぞ」
 めざとく叱りつけてきたのは、ついさっきまで剣を交わしていた従兄ガルザスだ。
「だって、手ぬぐいを持ってくるのが面倒だったんだもん」
「仕方ない。拭いてやるからこっちへ来い」
「うん!」
 駆け寄るなり、ガルザスのにおいがする手ぬぐいでわしゃわしゃと頭を包まれた。くすぐったさに笑いながら、シャナンは少し寂しくなった。ガルザスがもうすぐリボーに戻ってしまう。
 歳の近い存在が身近にいないシャナンにとって、ガルザスのいる日々は特別だった。けれど、リボーの家族は乾季の間しか滞在しない。
「どうして今日は遊んでくれたの?」
 彼がいる間、シャナンは毎日のように遊びをねだっていた。例年であれば快く遊んでくれるガルザスは、今年だけちっとも遊んでくれなかった。アイラにつけてもらっている剣の稽古が忙しいのだといって、相手にしてくれなかったのだ。
 問いかけにも、ガルザスは答えてくれなかった。
 シャナンは少しむっとした。従兄が遊びを断っていた理由をまだ果たせていないことは、剣を交わす中で気づいていた。
「流星剣、まだできないくせに」
 口にしてから、しまったと思った。頭を拭いてくれていた従兄の動きがぴたりと止まった。
 手の感触が離れていく。
 頭の上に残された手ぬぐいをどかしながら振り向くと、いじけた背中があった。
 いつもは頼もしい従兄がとたんに小さく見える。
「アイラ姉さんの指示だ」
 平坦な言葉にガルザスの葛藤を知った。アイラは、いつまでも剣を得られないガルザスに心が必要だと判断したのだろう。
 ガルザスが習得しようとしていた剣は、技だけでも心だけでも扱えないイザーク王家の秘剣だ。
 それなら、まださっきの意地悪は取り返せる。シャナンは従兄の幅広い肩にぶらさがった。
「今日のガルザス、いつもより弱かったよ」
「負けておいてよく言う」
 強気の言葉が返ってきたことに安心した。アイラは途中で見放すくらいなら、最初から構ってくれない人だ。ガルザスがめげていては、得られる剣も諦めるしかない。
「ねえ、ぼく疲れちゃった」
「仕方ないな」
 ガルザスは腕を後ろに回してシャナンを背負ってくれた。
「ぼくとの勝負、勝ってくれなきゃ嫌だよ」
 二人は、数年前からどちらが先に流星剣を習得できるか競っていた。五歳も下のシャナンに分の悪い勝負だが、それでも良かった。
 互いに競う時の、穏やかな従兄が逞しい剣士の顔をする瞬間が、シャナンは大好きだった。
 会うたびに広くなる肩に顔をうずめる。ガルザスの返事は頼もしかった。
「安心しろ、明日にはできる」
「そうしたらまた、ぼくと遊んでね」
「仕方ないな」
 
 懐かしい思い出だ。
 結局、流星剣を完成させた直後にガルザスは帰ってしまった。
 それきり、二人が再び遊ぶことはなかった。
 ——ガルザスと話してみないか?
 アイラの提案は、実現できるなら願ってもないことだった。

   ◇◇◇

 何もない森の奥を見つめながら憧れの剣士がため息をついた。
 間が悪く、マリータは木の枝を踏んでしまった。ぱきっと枝の折れた音に、アイラがぴくりと肩を跳ね上げた。振り向いた表情は、物憂げな気配が幻だったかのように険しかった。
 慌てて背中に手をまわすのと、アイラがマリータの姿を見つけるのはほぼ同時だった。アイラの目元がやわらいだので、おそらく握りしめている短剣には気づかれなかったのだろう。
「マリータ、来ていたのか」
 出会った当初よりも、幾分も温かな出迎えだ。
「すみません、声をかける機会を逃してしまって」
「気にするな。今日も手合わせをしに来たのか?」
「今日は……」
 口ごもったのは、アイラの悩ましげな姿に用を失ったからだ。マリータは知ったばかりの出自を打ち明けるつもりだった。
 けれど、この話はただでさえ悩む師を余計に悩ませるかもしれない。
 父から預かった短剣を握りしめて、どうするべきかを考える。

 昨日、マリータは初めて自分の出自を父ガルザスに訊ねた。訊ねる直前、彼女は珍しく浮かれていた。憧れの存在と同じ血を引いているかもしれない期待に胸を弾ませる姿は、無邪気そのものだった。
「お父様、一つお聞きしてもよいでしょうか」
「なんだ」
「お父様も元はイザーク王家の子だったのですか?」
 確信は一つもなかった。一つ一つの違和感が、マリータに流れる血筋を予感させた。特に、敬愛する師の鎧飾りがイザーク王家の家紋だと知ったことは、出自を予感する大きな要因だった。父の持つ短剣の鞘にも同じ装飾がある。
 マリータの問いかけに、父は静かに首を振った。
「王家ではない」
 訊ねたことを後悔しそうになるほど、父の眉間には皺が深く寄っていた。
 風が冷たい。シャナン王子の噂に憧れ伸ばした髪は父の色と似ていない。それどころか、他のところすらマリータと父の容姿は似ても似つかなかった。父とのつながりは背中にある小さな痣だけだ。
 もしや、と疑いかけた時、父は諦めたように零した。
「……リボーだ」
 リボーといえば、イザーク王国に混乱を招いた部族の名だ。
 思いがけない名称を耳にして固まったマリータに、父は追い打ちをかけた。
「俺はリボー族長の息子だ」
 こんなことが、あって良いのだろうか。
 フィアナ村で暮らしていた時、マリータはフィンにねだってイザーク王国の歴史を教えてもらったことがあった。
 フィンが言うには、イザーク王国のマナナン王はレンスターでも立派だと評判になるほどの賢王だったという。
「それなのに戦争を始めたのですか?」
 不思議に思って聞くと、フィンは迷いながら教えてくれた。表立って知られていないが、イザーク王国とグランベルの開戦はリボーの族長が勝手にダーナへ侵攻したことが真の原因だと。
 話を聞いた時、思わずリボーさえいなければと思ってしまった。彼らのことを、身勝手に国を奪った悪者のように感じていた。
 けれど目の前の父は悪者ではなかった。自らを恨むでもなく、他を憎むでもない、行き場のない苦しみが目の前にあった。父もまた傷ついていた。
「お祖父様にも、事情があったのですよね?」
 何も答えてくれないのは、果たして肯定なのだろうか。静寂の中、父は磨いていた剣を鞘におさめた。
「知るべきではないこともある」
 父は腰掛けていた瓦礫から離れ、立ち去ろうとした。その手をマリータは反射的に掴んだ。
「過去は尋ねません。ですがこれだけは教えてください。シャナン様とアイラ様は、このことをご存知なのですか?」
 これ以上訊ねても父を困らせることは理解していた。けれど、昔聞いた話が真実ならば、かつてマリータが感じたように、王家にとってもリボーは国を脅かした許しがたい存在のはずだ。
 シャナンとアイラがマリータに接する態度は一人の剣士に対するものだった。だからこそ申し訳ない。この事実を知れば、マリータにそのつもりが無くても、裏切ったと思われるのではないか。
「シャナンは知っているはずだ。前にお前といる姿を見られている。アイラ殿は……どうだろうな」
 父の声には、妙な気やすさがあった。
「父様とシャナン様はお知り合いなのですか?」
「シャナンは従弟だ」
「それって……」
「ああ、お前も王家の血を継いでいる。背中の痣はその証だ。……マリータ、言いつけは守っているか?」
 父は気まずそうに確認してきた。後悔が未だに目の前の人から父の態度を遠ざけるらしい。
 マリータと幼い頃にはぐれて父としての責を果たせなかったことも、その後に積み重ねた死も、父は未だに悔やんでいる。
 マリータはそんな父を勇気づけようと力強く頷いた。幼い日に教わった言いつけは、全て大切なものだった。
「ええ、誰にも見せていません」
「身勝手な頼みだが、王家には絶対に知られるな。特にシャナンには……」
 理由を聞く必要はなかった。父は、イザークに残された唯一の希望とされるシャナン王子の立場を脅かしたくないのだろう。痣が血筋の証ならば、すなわち神器を扱えるということだ。神剣バルムンクを使える者が他にいるとわかれば、マリータ達にその気が無くても、良からぬ企てをする者がいるかもしれない。
「お父様は、シャナン王子が大切なのですね」
「今更そんなことを言う資格はない」
 父親の資格はないと遠ざけられた過去を思い出した。
 ——シャナン様はきっと恨んでいないのに。
 初めて会った時からずっと、王子はマリータに親切で優しかった。リボーを恨んでいるなら、叔母を紹介することも、稽古を気にかけ話しかけてくれることも、剣を交えてくれることもなかったはずだ。
 歯がゆい思いを抱えていると、父が懐から何かを取り出した。
「マリータ、知られたついでだ」
 渡されたのは短剣だった。マリータはこの剣を知っている。二人で旅をしている時から父は肌身離さずこれを持ち、マリータに隠れて磨いていた。鞘に刻まれた装飾は、記憶通りアイラの鎧と同じだった。
「お前の祖母の形見だ。俺が持っていて良いものではなかったが、アイラ殿の気持ちを思うと手放せなかった」
「アイラ様の?」
「あの方が姉を想う気持ちがこの短剣にはこめられている。母はそう話していた」
 鞘から抜くと刃には研ぎたての光沢が残っていた。剣士であれば、見るだけでこの剣が大事に守られてきたものだとわかるだろう。
「お父様、この剣をアイラ様に渡しても構いませんか」
「……好きにしろ。もうお前のものだ」

「マリータ、調子でも悪いのか?」
 気づけばアイラがすぐ近くまで近づいていた。
「い、いえ、心配していただくほどでは」
「それなら良いのだが……」
 アイラは視線を落として、表情を冷たくした。
「何を隠している」
 鋭利な声だ。緊張で唾を呑む。
 悩みを抱える師を惑わせまいと思っていたが、この状態で隠し通すことはできないだろう。マリータは観念して腹を据えた。
「アイラ様、話があります」
「聞こう」
 マリータは鞘に収めたまま握りしめていた短剣を、一思いに差し出した。
「父は、これを祖母の形見だと言っていました」
「こんなものをまだ残していたのか……」
 アイラは呆れた調子で言ったが、表情にはどことない寂しさがあった。
「形見、と言ったんだな」
「ええ」
「そうか……。この剣はお前が持っていてくれないか」
 アイラは剣に一度も触れなかった。
「アイラ様も、私たちを恨んではいないのですね」
「そんなことを気にしていたのか。むしろ恨まれるなら私たちだ。仕方がなかったとはいえ、大切な家族を守れなかった」
 アイラは遠くを眺めながら言い足した。
「だが、そうだな。お前がよければ、ガルザスにこれを渡してくれないか?」
「招待状、ですか?」
「私たちの事情に巻き込みたくはないが……。あの二人にわかりあう時間をやりたい」
「私も、想いは同じです。必ずお渡しします」

   ◇◇◇

 この世界に来た時から、いつかマリータが己の出自を訊ねてくることは覚悟していた。王家との関係を思えば、むしろ聞かれる前に話すべきだったとすら思う。
 だが、ガルザスは彼女に何も言えなかった。王家の者と親しくする彼女の姿に、得られなかった未来を見てしまった。ダーナ侵攻が起こらず、ガルザスも旅をすることもなく、王家と家族のまま過ごせた未来を。

 日差しが高く照りつける季節、イード砂漠から前触れもなく魔道士が訪ねてきた。魔道士はローブを深く被って顔を隠したまま、手紙を一つ差し出した。
「族長に会いたい」
 守衛は断ったが、せめて手紙だけでもと懇願する姿に根負けして、手紙を族長へと渡した。手紙を読んだ族長は、どういうわけか魔導士に会いたがった。
 それ以来、リボーの族長は魔道士を傍におくようになった。けれど、誰にも会わせようとはしなかった。理由はわからない。性別も名前も、訪ねてきた理由すらもわからない魔道士が厚遇をうける事態に、多くの者が違和感を抱いた。

 それから数週間後。族長は人が変わったように領土拡大の野望を主張し始めた。乾季の水不足をやり過ごすため、水のある土地を確保すべきだというのが、彼の主張だった。
「マナナン王はいつ裏切るかわからぬ。裏切られれば、我らはまた何百何千と死ぬ暮らしに戻らねばならない」
 懇意にしているイザーク国王すらも批判する姿に、普段は族長に右ならえで従う部族内からも反発の声があった。
 真っ先に異を唱えたのはガルザスの母だった。彼女は、肉親である国王の味方をしたわけではない。心から、部族の存続と平和を求めていた。
「お願い、考えなおして。領土を増やさなくても私たちは暮らせているでしょう」
 ガルザスもその主張を支持した。王家の親族は皆親切で、到底裏切るとは思えなかった。
 けれど、誰が何を訴えても族長は折れなかった。今でも彼らは暮らせている。だというのに、彼らの長は王家の裏切りを恐れ、生き急ぐように領土拡大を主張し、反発を力で抑えた。
 こうして現族長と、次期族長に期待されるガルザスの見据える未来は分たれた。
 ガルザスとその母を始めとする穏健派にとっての唯一の救いは、間もなく乾季の移動があることだった。一度移動をすれば、数ヶ月は時間を稼げるはずだ。

 イザーク王都へ移動する前日、ガルザスは父に呼ばれて部屋を訪ねた。
 父は窓際の椅子に腰掛けながら、気だるげにガルザスを見た。領土拡大の野望を語る男にしては、瞳に宿る熱意はない。最近の父は疲れているようだった。
「ガルザス、領土拡大は間違っているか」
 怒りも悲しみもない、平たい声だった。戸惑いながら頷くと、父はやはり平たい声を変えずにつぶやいた。
「お前もそう思うか」
「……父様は、領土を得れば皆が救われるとお考えですか」
「どうだろうな。だが、一族のためには攻めねばならない。マナナン王は信用できぬ」
 父らしくない言い方だった。
 誰よりも強く一族を思い、導く姿にガルザスは憧れていた。だというのに、今の父は何を考えているのか分からない。口では一族のためだと言いながら、心からそれを信じている気配がない。覇気もなく、白髪が増え、一気に老けたようだった。
「理由は、教えていただけないのですね」
 気まずそうに視線がそらされた。
「……ガルザス。お前は俺より強くなったか」
 唐突な質問の意図を理解しないまま、ガルザスは首を横に振り否定した。
 勝てるものなら、とうに決闘を挑み、族長の座を奪い、領土拡大の野望を摘んでいる。母のためにも、ガルザスが憧れた父のためにも、そうするべきだと思っていた。
 だが、ガルザスはまだ途上の剣士だ。同年代に負けることこそないが、月光剣をなんとか扱える拙さでリボー最強の剣士に勝てると思うほど驕ってもいない。
「再びこの地に戻った時だ。その時に一度だけ決闘を申し込むといい」
 驚き息を呑むガルザスとは対照的に、父は気だるげな態度を変えなかった。一族の長を決める行為だというのに、感情を一つも見つけられない。
「代わりに、何があっても領土拡大の主張を王家に気取られるな」
「……わかりました。ですが、母様と民の口までは」
「案ずるな、俺が口止めをする」
「それでも知られたら、どうするおつもりですか」
「王家と戦わねばならないかもな」
「戦いたくないのですか?」
 父は立ち上がり、背後の壁に飾っている剣を手に持った。母を妻として迎え入れた時にマナナン王から賜った剣だと、昔聞かされたことがある。当時、父は夢を語っていた。
 王家と共に、国の争いを無くす。
 民が安心して笑える国にする。
 語る表情には、強い熱意が宿っていたはずだ。
「父様、何故ですか」
 父は、じっと剣を見つめていた。鞘から取り出された刀身は、まだ血を知らない真っさらな銀の輝きを保っていた。
「仕方がないのだ」
 短いうめき声。ぽたり、とこぼれ落ちた赤い液体が床を汚した。王家からの罰を受けるように、刀身に薄く赤が這う。
 ガルザスは慌てて駆け寄った。すでに刃は離れていた。利き腕の手首を斬ったらしい。父は傷口を手頃な布で押さえた。押さえたそばから血が滲み、布が赤に染まっていく。吸い切らなかった血液が床へと流れ落ちた。
「私たちよりも魔道士の虚言を信じるのですか」
 父は否定も肯定もしなかった。代わりに、瞳の奥にガルザスの知る熱意を宿していた。
「他者に何を言われても、信じるもののために剣を握る。恩に報いる生き方を止められない。イザークの剣士とは、そういう生き物だろう」
 かろうじて理解したのは、父がイザークの心を忘れていないということだけだった。

 その年、ガルザスはほとんどシャナンと遊んでやれなかった。イザーク王城に着いてすぐアイラに流星剣の稽古を頼み、修行に明け暮れた。帰れば父との決闘が控えている。未熟なガルザスの勝機は流星剣を得られるか否かにかかっていた。
 リボーへの帰りが近づいても剣を習得できないガルザスに、アイラは深いため息をついた。
「お前の心に迷いがみえる」
「迷いなんて……」
 とっさに反発しかけて口を噤んだ。迷いがないと言い切れるほど、ガルザスは父との決闘を割りきれていなかった。
「シャナンと遊んでこい」
 アイラは立ち去ってしまった。
 ガルザスは空を見上げて途方に暮れた。剣を習得できなければ決闘に勝ち目はない。族長の肩書を奪うためでなく、自らを罰した父と重荷を分かち合うため、ガルザスは勝ちたかった。
 ——父様、いったいなぜですか。
 孤独な剣を構えると背後から足音がした。
「ガルザス」
 シャナンの声だった。
「アイラとはぐれたの?」
「別に」
「じゃあ、稽古が終わったんだね」
 シャナンは無邪気に顔を綻ばせた。大きな黒目がガルザスを映す。すっかり兄の顔をしていることに自分自身で驚いた。
「それなら、ぼくと遊んでよ! ガルザスの流星剣が見たい」
「……今日は、手合わせをするか」
 シャナンは元気よく頷いて剣を構えた。

 シャナンと手合わせをした翌日、流星剣を完成させたガルザスはリボーへと帰った。そしてすぐに決闘を申し込んだ。
 三週間後に控えた決闘まで、ガルザスは一日も怠らずに剣を磨き続けた。
 決闘の日。勝ったのはガルザスだった。決め手は流星剣だ。
 民も父も救うためには勝利しかない、その一心で習得した技が、初めて父に届く刃となった。首に剣を突きつけられた父は負けを認めた。
 これで、族長の権利はガルザスへと移る。ありもしない裏切りを恐れた、無意味な戦いをしなくて済む。
 安堵するガルザスの頭に父の手がのせられた。
「苦労をかける」
 父の熱はすぐに離れて、ガルザスの後ろへと進んだ。その先にマナナン王がいた。
「早かったですね」
「決闘をしたのか?」
 マナナン王の表情は険しい。冷淡な決意は、一瞬ガルザスへと向けられた。
「ただの手合わせです」
 誰も、その嘘を咎めなかった。
 剣を構えたマナナン王に対して、父は剣を捨てた。捨てたのはマナナン王から賜ったぎんの剣だった。
「なぜダーナを攻めた」
「民を守りたかった、それだけです」
「……すまなかった」
 直後、泣き崩れた母の姿がひどく印象に残っている。

 マナナン王は、父以外の全員を見逃してくれた。とはいえ一族を維持するわけにも行かず、族長と関わりがある者たちは亡命を余儀なくされた。
 ガルザスは慣れ親しんだ土地を離れて、母と許嫁と共にレンスター行きの船に乗った。
 その道中で立ち寄ったレンスターの村の牧歌的な光景に、三人はしばらくの滞在を決意した。
 一年、二年と滞在が延びる間に、大陸の勢力図は大きく変化した。イザーク王国はグランベルとの戦争で大敗を喫し、アグストリアもグランベルの統治下におかれた。シレジアにまで大国の手が伸びた頃、南から戦乱の影が強まってきた。好ましくない動きが見え隠れする中、許嫁に命が宿った。
 それから間も無くレンスターが落城し、村の安寧は消えた。
 帝国兵が訪ねてきた時、母はガルザスを庇い犠牲になった。兵が訪問した目的はレンスターに残された唯一の王族の子だったが、帝国兵の中にはイザークとの戦争の記憶を持つものも少なくない。
 荒れ果てた地を懸命に逃れる道中、妻の命と引き換えにして娘が生まれた。
 マリータは、祖国を追われ、父母を失い、妻と死別した男にとって、唯一残された生きる希望だった。
 娘の誕生以来、ダーナ侵攻に関する一連の過去を思い出すことは減っていた。目の前の少女を守ることに精一杯だったガルザスに、過去を振り返る余裕はなかった。
 元気な赤子が泣けば柄にもなくおろおろとし、娘を守るため剣で稼ぎ、殺されぬように旅をする日々。
 従弟シャナンの噂を耳にするたび、喪った者を悼んで短剣を磨いたが、過去を振り返るのはその時だけだった。
 けれど、残された光すらも彼の手からはこぼれ落ちた。帝国の目を避け進む旅路で娘とはぐれた時、ガルザスは何も見えなくなった。初めのうちは娘を探すため握っていた剣も、いつしか大小の悪意に利用され血に汚れた。もともと、族長として守るべき民を守れなかった剣だ。身の程というものだろう。
 希望をなくしたガルザスは死ぬこともできずに戦い続けた。戦地で果てられるならば本望だとすら思っていた。だが、身に危険が及ぶたび、どこかで生きているかもしれないあどけない笑顔が蘇った。
 まだ、死んではならない。
 娘を見つけるまでは。
 ガルザスの手は無数の死体を築き、血まみれになった。

 深いため息をひとつ吐く。目の前にマリータがいた。ガルザスの記憶に鮮烈に印象づいている幼い姿ではなく、妻そっくりに成長した一人の女性の姿だった。
「お父様、シャナン王子と会ってください」
 端的な願いを訴える目は、そらしたくなるほど純粋だ。
「もう、そんな資格はない」
「お父様はそう言って、私のことも遠ざけました」
 この世界にきてすぐのことを言っているのだろう。だが、マリータとシャナンでは事情が違う。
 マリータを避けたのは己の罪の深さに接する手を持たなかったからだ。剣の教えを求められても、ガルザスにあるのは血に汚れた剣だけだった。
 けれど、シャナンとアイラを避けるのはそれだけではない。彼らとの間には、己ではどうにもならなかった確執がある。
 マナナン王が父を殺したことは恨んでいない。むしろ、残された民を逃してくれた温情には返しきれない恩すらも感じている。それでも。
「俺は彼らと会うべきではない」

ここまでの内容で全体の約8割になります!

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