03 お家訪問
目の前に見慣れた家の扉がある。焦茶色の、年季が入った扉だ。その傍にある呼び鈴に触れて、指を離した。重い。
一週間と少しの間、相手を避けた後ろめたさを感じていた。指先が震えて、ボタンを押すことができない。触れて、離れてを繰り返す。そうこうする間に、約束の時間を五分も過ぎてしまった。いい加減、覚悟を決めなければいけない。九回目の挑戦と同時に、玄関扉がひらいた。
家の奥から、間抜けな電子音が響く。スカサハは動きをぴたりと止めた。
「来て早々間抜けづらだな」
固まりきったスカサハの姿に、シャナンは堪えきれず吹きだした。その声で、スカサハはようやく呼び鈴から指を離した。
「お、おはようございます」
声がかたい。
招かれるまま家の中に入ろうとして、手足の動きが両方右から始まった。ぎこちない動作のまま、スカサハは外と中を区切る段差に躓いた。
「大丈夫か?」
倒れそうになった体を、シャナンが受け止めた。
細身ながらしっかりと鍛えられた肉体。密着した場所から、鼓動が聞こえて来た。スカサハのと比べ随分とゆっくり落ち着いているが、それでもわずかに速い気がする。転びそうな姿を見て、慌ててくれたのだろうか。
「すまなかったな」
シャナンは呼吸の調子を変えずに言った。スカサハは、表情を窺うように顔をあげた。気負った様子も、気楽な調子も見えないどっちつかずの顔だ。これでは、何に対する謝罪かさえわからない。
短く聞き返すと、シャナンはやはり平然としつつも、固い表情で続けた。
「先日は、無神経に訊ねすぎた」
先日というからには、きっとスカサハがシャナンを避けるきっかけになった日の話をしているのだろう。
それは、湿っぽい朝だった。シャナンがスカサハの恋路について訊ねてきた。しかし、無神経な態度をとられた覚えはない。
スカサハは、小首を傾げて聞きかえした。
「何のことですか?」
「とぼけなくていい。お前、恋路を話したくなかったのだろう。そうでなければ、意地悪をされる理由がない」
二人を隔てる空間を確かなものとするように、やんわりと肩を押された。スカサハは、シャナンに押されるままに数歩後ずさった。ついさっきまでくっついていた距離が、離れる。苦しかった。じわりと喉を締め付けられたような息苦しさだ。
意地悪と言われて思い当たる言葉は一つしかなかった。
——シャナン様もよく知ってる人ですよ。
相手を困らせようと伝えた言葉。衝動だと言い訳をするには、考え尽くして声にしたひとこと。
これは、拒絶なのだろうか。シャナンの真意がわからない。黒目の大きい瞳を、スカサハはじっと覗き込んだ。その色は、いつもと何も変わらなかった。
居間に入ると、みりんや醤油の香りが身を包んだ。事前に食事の下ごしらえをしてくれていたのだろう。シャナンは、味が染みるからと煮物を早いうちに作って準備しておく癖があった。においは、すぐに薄れて空間と馴染んだ。シャナンのつくる料理が、スカサハは昔から大好きだった。
特に、味噌汁は特別だった。シャナンは毎回、人参で作られた飾り切りの花をそこに浮かべた。
早くに親を無くしたシャナンが、まだスカサハ達と同居していた頃。母と台所に立って包丁を握る背が「これを浮かべると、スカサハが喜ぶんだ」と口にしていたことがある。その言葉を聞いたときから、スカサハの中で味噌汁に浮かぶ鮮やかな花の意味が大きく変わった。
スカサハは、玄関先のことが無かったかのように振る舞ってシャナンと日常を過ごした。稽古をつけてもらい、家の片付けを手伝い、暗くなったら、居間のカーテンをしめた。シャナンも、いつも通りにスカサハと接してくれた。しかし、息苦しさは少しも和らぐ気配がなかった。シャナンの優しさを感じる度、スカサハの中で罪悪感が募っていった。困らせようとして誤解をさせたこと、避けてしまったこと、それを今も謝れずにいること。
食卓には、茶色いおかずが並んだ。唐揚げ、里芋の煮物、きんぴらごぼう。右手側にある味噌汁のお椀には、花の形に切られた人参が浮かんでいる。運ばれた時に生じた波に合わせて、花はたゆたった。シャナンの方には、花を切るときにできたであろう細かい人参が浮いていた。
「ご飯の量はいつも通りでいいか?」
スカサハが頷くと、香ばしい醤油と食欲を誘うバターの香りが流れてきた。控えめに主張された磯の香りは、おそらくホタテだろう。ホタテの炊き込みご飯は、シャナンの得意料理だ。
間も無く二つの茶碗が食卓におかれ、夕食の支度が整った。
二人で同時に手を合わせ箸を手にとった。食事が始まると、最初にお椀を手にとった。味噌汁が波立ち、花が大きく揺れた。縁に口をつけて一口啜ると、ほどよい塩味が広がった。昔から変わらない、心落ち着く味つけだ。途端に、胸のうちに燻らせていた罪悪感が膨らんだ。味噌の風味が遠くへと消えてゆく。
スカサハは、ゆっくりと箸を置いた。
「シャナン様、ごめんなさい」
「どうしたんだ、口に合わなかったか?」
あまりに唐突な謝罪にシャナンは検討違いな質問をした。スカサハは、ゆるゆると首を横に振って座り直した。その空気に並々ならぬものを感じたのだろう。シャナンも手に持っていた茶碗をテーブルに戻した。姿勢を正し、一心にスカサハを見つめている。向けられた視線に、スカサハは思わず身を縮めた。
「俺、恋の話が嫌だったわけじゃないんです。ただ、あなたを困らせたかった……」
その声は随分と情けなく響いた。突然の告白に、シャナンは困ったように口を曲げた。
「私は、嫌われるような真似をしたか?」
「逆です」
スカサハは、拳をぎゅっと握りしめた。覚悟を決めるなら今しかないと思った。
「俺の知り合いで、歳が10も離れてるのは、あなただけです」
「だが、それではお前の好きなやつは……」
「シャナン様は、わかっていません」
そこで、スカサハは言葉を止めた。あと一歩の勇気がほしかった。覚悟を決めたはずなのに、肝心なところでいつも踏み留まる意気地なさが憎い。何ヶ月も前に想いを明かすと決めていても、臆病を拭いきれない。これ以上、先延ばしにしたくない。
スカサハの心臓は、先程から大きな音を立てたままだった。脈も速い。
テーブルの上で、味噌汁に浮かんだ花が揺れていた。スカサハのためにある、特別な花。
大丈夫だ。自分に言い聞かせて顔を上げた。まっすぐに相手を見据えた。シャナンの眉間には、考え込むような皺が寄っている。
スカサハは、味噌や醤油やバターの香りが混ざった空気を大きく吸った。
「あなたのことが、好きだと言ったんです。シャナン様、俺と付き合ってください」
直後、向かいで目が大きく見開かれた。驚きの色を隠す気もない瞳が、スカサハを映している。頬が熱い。
渇きに任せて、透明なガラスのコップを手に持った。水の冷たさが火照った体に心地よい。シャナンからの言葉は返ってこない。
スカサハは、視線の先にある箸を手にとった。驚きの先の表情を知るのが恐ろしかった。箸を持つ手が震えて、里芋を上手く掴めない。
「スカサハ」
ようやく里芋をとらえて、口に運ぼうとしたときに名前を呼ばれた。
「少しだけ、時間をくれないか?」
シャナンの頬が薄紅に色づいていた。スカサハの言葉は、どうやら正しく伝わったらしい。
「わかりました」
シャナンは、三手で箸を取ると炊き込みご飯を口にした。
「少し、冷めてしまったな」
「でも、美味しいです」
後に続くように米を食べると、豊かなバターの風味が広がった。