少女が、少し出歩くには随分と多い荷物を抱えてペガサスに跨った。
「マーニャ、重いと思うけど頑張ってくれる?」
その呼びかけに、マーニャと呼ばれたペガサスは高らかに鳴いた。
——俺は、少女の名前を知らない。
まだ、アーサーが青年になる前。シレジアに温かな風が吹き始めた季節。少女は、突如あらわれてアーサーの心を釘付けにした。一目惚れだった。
特に何があったわけでもない。落とし物を拾ってもらいもしなければ、街中で肩と肩がぶつかり合いもしなかった。ただ、遠目に見えた、ペガサスに跨る少女の、はつらつとした笑顔に惹かれてしまったのだ。
少女の髪はシレジアの厳冬を乗り越え、ようやく芽生えた草木のように瑞々しい緑だった。
シレジアの民にとって、冬の終わりはとりわけ笑顔の増える季節だ。凍える冬を乗り越えた生命の力を感じさせる彼女は、きっと関わる人々を元気づけてきたのだろう。
思わず考えてから、妄想をかき消すように首を振った。
少女の笑顔は脳裏に焼き付いて、いつまでも消えなかった。草原でのんびりと過ごしている時に、無意識にその姿を描いてしまうほど、アーサーは少女に囚われていた。
それから、何度か少女を見かけることがあった。
シレジアの街を歩く人は八割が少女と同じ緑の髪をしているが、アーサーには、少女の髪だけが一際輝いて見えた。
少女は、いつも笑っていた。年上の天馬騎士らしい人と話している時も、老人の荷物を代わりに持っている時も、すれ違う人々が思わず振り返るような眩しさを携えていた。
くりくりと丸い緑の瞳は、そよ風に吹かれ揺れる草木のような柔らかさで見る人を癒す。
少女の姿を見かけるたび、アーサーは一つ、少女のことを知り、その恋心を引き返せないところまで深めていった。
少女は、ペガサスといるときが一番楽しそうだった。跨る姿を見かける毎に、少女と天馬の絆は深まっているように見えた。
——次に見かけた時こそ、話しかけよう。
そう思って過ごすうちに何年もの時が経ってしまった。
一年前の夕暮れ。初めて少女が泣いている姿を見かけた時ですら、アーサーは声をかけることができなかった。
「星を、見に行かないか? きっと綺麗だよ」
遠くに見える姿に届かない大きさで呟き、立ち去るだけで精一杯だった。
その翌々日に見かけた時、少女の顔にはいつもの笑顔が戻っていた。その時から、大きなイヤリングが耳を彩るようになった。
***
妹を、探しに行きたい。
幼い頃離れ離れになったティニー。ティニーがいるはずのトラキア半島は、ここ最近、レンスターの王族の生き残りが見つかったとかで、すっかり混乱の渦中にあるらしかった。
一度、妹のことが気になると、アーサーは居ても経ってもいられなくなった。
ついに、我慢ならなくなったアーサーは、ありったけのお金と、数枚の衣服と少しの食料を鞄に詰めて家を飛び出した。
そこで、少女をみた。
いつもは滅多に鞄も持たない少女が、背中をほとんど隠すほど大きなリュックサックを背負って天馬に跨っていた。
こんな機会は、二度とないだろう。
飛び立つ直前の少女に、アーサーは大きな声で呼びかけた。
「おーい」
「どうしたのー?」
すぐに、返事が返ってきた。よく、響く高い声だ。
「俺のことも、乗せていってくれないか?」
「いいよー。おいで」
少女は、フィーと名乗った。
ほんのりと甘さをはらんだ爽やかな香りが、アーサーの胸をいっぱいにした。