聖戦の系譜

さらば、おろかな王よ

 珍しくアグストリア王家から届いた書簡が読み上げられた時、トラバントはたまらず一度聞き返した。
「待て。本当に、アグストリア王家からの依頼か?」
 トラバントが訝しんだのも無理はない。アグストリアからの書簡はトラキア竜騎士団の雇用依頼だった。
 たしかに最近、あの辺りは火種が燻っていると聞く。だが、アグストリアは騎士の国として有名だ。王家に忠義を捧げる騎士を数多も抱える国が、傭兵を雇いたがる道理がない。
「はい、間違いなくアグストリアの……シャガール王からであります」
 読み上げた若い兵も、違和感を覚えたらしく首を傾げた。
「なるほど、シャガールか」
 祖父の代から王の側近を務めていた兵の息子は、じっと言葉の続きを待っていた。トラバントは、後の言葉を続けるべきか悩んだ。己の中にある気まずさと、まだ世間の薄暗いところを知らぬ純朴な兵の顔を見比べる。
「あの男、父を殺したか」
「え?」
「そうでなければ、都合が良すぎる」
 トラバントはシャガールの愚行を確信していた。そして、心の中でおろかな男よ、と呟いた。
 王など、ならずに済むのであればそれに越したことはない。責任ばかりが我が身を襲う圧を、誰が好んで引き受けるだろう。部下には決して悟られてはならない本心を痛烈に自覚する。
 シャガールへ抱いた感情を、別の表現で短くまとめるのであれば嫌悪だった。トラバントには、父を殺してまで王になりたがる心がわからない。忌まわしきレンスターの倅よりも、彼が嫌いだった。
 だが、どれほど気に入らずとも、トラキアが飢えているのもまた事実だ。王家の金払いの良さを足蹴にすることができる立場ではない。それができるならば、そもそも国の騎士団を傭兵に出すまねはしない。
 トラバントは、せめてもの抵抗としてその依頼を先延ばしすることにした。直感はアグストリアの敗退を告げていた。窮地に追い込まれれば、おろかな男は多少無茶な金額を要求しても呑むだろう。
「報酬を二倍にしろと返しておけ。あの男はじきに破滅する。そうなる前に、もう一度声がかかるはずだ。ふっ……そうだな。その時は、わし自らアグストリアを訪ねてやろう」
「わかりました」
 後半は戯れのつもりだったが、兵はぶつぶつと呟きながら返事をまとめた。
「報酬を二倍、王自らアグストリアを訪問……」
 不慣れな男に、以前の男と同じ感覚で戯れたのは誤りであった。トラバントは内心ため息をつきながら、窓の外に広がる砂地を見つめた。

 それから一年弱。トラバントの目論見通り、シャガールは倍の値段で傭兵を雇うと言い出した。
 最初に依頼を受けた時よりも、状況はアグストリアに不利になっていた。いまやアグストリアの国土の過半はグランベルの占領下にある。
 トラバントは提示された報酬とアグストリアの戦況を見比べて、要請に頷いた。
「よし、引き受けよう。パピヨンを呼んでこい。それから、前払いだと釘を刺しておけ」
「了解しました」
 王は出撃の準備を進めた。傭兵業でトラバント自らが出撃することは多くない。だが今回は前の約束があった。兵だけを派遣してシャガールの不況を買うことは避けたい。あれは愚王だ。他国から雇った傭兵であろうと、癇癪を起こせば何をするかわかったものではない。

 竜騎士団に先行して、トラバントがシャガールのいるシルベール城へ辿り着いた直後。騎士の国に残された最後の騎士エルトシャンが城へ駆け込んできた。
 エルトシャンは、他国との交流に乏しいトラキアでさえも噂に聞くほどの騎士だった。
 王への謁見を求め、見張りの兵の静止をはね返す堂々とした姿に、トラバントは心の中で、彼と己のあり方を重ねた。生まれながらにして与えた役割を忠実にこなそうとする姿。身におかれた理不尽を受け入れながらも抗う闘志。
 されどあの男はトラバントとは違っていた。彼は彼の意思で騎士をしている。生まれながらに与えられた役割が骨の髄まで染みていた。
 一方のトラバントは、願わくば王になりたくはなかったと、心のどこかで常に思っている。
 誰にも明かすことのできない闇が、じくじくと痛む。王になりたくはなかったと思う心そのものが、民への裏切りだった。
 王になってから、何人を飢えさせたか、何人を戦死させたか。数えられない犠牲の上に立つ男には、己を王たらしめるしか生きる道がない。
 誰にも本当の心は明かせない。妻の前ですら、トラバントは王であり続けなければならなかった。

「シャガール陛下がお呼びです」
 もはや疲れ果てた顔をしているアグストリアの兵に招かれて玉座の間へ入ると、錆の匂いがした。床に敷かれた赤い絨毯に、隠せない血の跡が残っている。
 あの騎士を殺したのか、とは聞くまでもなかった。シャガールの周りにかろうじて残っている家臣は皆、怯えた目をしていた。
 シャガールはその中心で残酷なまでに堂々としていた。
「トラバント、竜騎士団の準備はできているのだろうな」
「心配いらぬ」
「ふん、気のきかぬ家臣どもより、よっぽど頼りになるではないか」
 命を賭して王に仕えた家臣を切り捨てる言葉。
 トラバントも、兵の士気を下げぬよう、己の威厳を保つため厳しい言葉を発することはあった。それでもシャガールの言葉には嫌悪が先に立つ。
 それから、少し遅れて哀れだと思った。
 彼は、己を王たらしめるものが何かを知らない。玉座で王冠を被っているだけのおろかな男だ。
 王たる責任を知らない彼は、唯一、彼を王たらしめていた存在すらも切り捨てた。そして、そのことに気づかずに、所詮は駒にしかならない傭兵をありがたがっている。
「もらった金の分は働こう」
「しっかり頼むぞ」
 彼は、王であることを期待され生まれながら、最後まで王ではなかった。

 竜騎士団が出兵して間も無く、グランベルのシグルド率いる軍がシルベールへと攻め入ってきた。
 間もなく潮時だろう。撤退が早過ぎれば竜騎士団の評判に傷がつくが、国を維持するための傭兵業で国力を消耗しては意味がない。
 撤退の連絡を回そうとした時、指揮官を託していたパピヨンの訃報が舞い込んだ。
「パピヨンめ、しくじったか」
 トラバントの舌打ちを聞いた部下が、怯えるように彼を見た。
「引き時だな。さらばだ、おろかなシャガール王よ」
 トラバントは残された兵を率いて空を舞った。

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