「さらば、おろかな王よ」の続きですが、前作を読まなくても読めます。原作5章にトラウマがある方はお気をつけください。
乾いた砂、じりじりと肌に刺さる日差し。馬と人の死体があちこち転がる中心で、まだ微かに残る母の温もりにすがり、泣き叫ぶ幼子がいた。
「おかあさま、おかあさま」
二、三歳程度の幼子は、何度呼びかけても母が反応しないとわかると、膝をついて立ちあがろうとした姿勢で動かなくなった男のそばへ向かった。子の父だ。
他の死体と違い、男の手には何一つ武器が握られていなかった。
泣き叫ぶ子を守るため、ノヴァの直系にしか扱えない槍ゲイボルグを手放したためだ。
男は最期まで己の正義を信じる勇ましい顔をしていた。
トラキアの未来を思うならば、今回の戦果は大きい。これでようやく、トラキア半島統一の夢を叶える算段がつく。一方で、長年トラバントの道を塞ぎ続けてきた男の死を見つめても、トラバントはやってやったという気持ちになれなかった。
トラバントの中には、トラキアのために正しいことをしたと信じる感情と、他の道はなかったのかと迷う気持ちが混在していた。そうして揺れ動く気持ちを誤魔化すように、トラバントは耳が痛くなるほど言い聞かされてきた父の言葉を脳内で反芻した。
我らは、ノヴァの息子の暴政に立ち向かい追い出された、英雄ダインの息子の末裔だ。
我らには奪われた半身を取り戻す権利がある。
いくらレンスターが己の権利を主張しようと、先に我らから豊かさを奪った、うす汚いハイエナは彼らだ。
父の言葉は、トラバントの心の支えだった。
だが、戦場で泣きわめく幼い娘はあまりにも無垢だった。
力を持たない子の姿を見ていると、どうしてもトラバントは、自分の行いこそが悪に思えてならなかった。
部下に、泣き叫ぶ子供をどうするか聞かれた時、トラバントは仔細を考えるよりも先にトラキアへ連れ帰る選択をしていた。
決して、娘を助けるため武器を手放した男の心意気に敬意を評そうと思ったわけではない。ただ、殺せなかった。直前まで多くの命を奪っておきながら、トラバントは泣きわめく幼子を殺すことだけはどうしてもできなかった。
できないのならば仕方ないと、トラバントは、キュアンの娘アルテナを殺さずに育てることにした。
そして、アルテナを生かすと決めた瞬間から、トラバントは心のふちで、いつかアルテナに真実を知られる日が来るのだろうと思っていた。
◇
十七年後。
アルテナは、トラキアの領土拡大がかかっている重要な戦で、部下を見捨てて帰ってきた。
彼女は、トラキアの未来よりも世間の道理を選んだ。解放軍の行いを正として、支配者の失われた領土を奪うことを拒み、挙句の果てに部下だけを戦わせて、トラキアの領地を奪われてきた。
そして、おめおめ逃げ戻ってきた訳を聞いた時、トラバントは娘に流れるキュアンの血を痛烈に感じた。
「他国の民を虐げて豊かになることが、トラキアの民にとって幸せと言えるのですか」
道理を全てと思い、他を真っ向から否定する愚かな正義が彼女に受け継がれた事実は、トラバントをなんとも言えない感情にした。
我らには奪われた半身を取り戻す権利がある。
父がトラバントに言い聞かせてきた言葉を、トラバントは子へ伝えなかった。その言葉は、もはやトラバントにとって心の支えではなくなっていた。
アルテナを連れ帰った後、レンスターの物語を調べる中で彼は知ってしまったのだ。レンスターの伝承では、英雄ダインの息子の暴政に、ノヴァの息子が立ち向かったということを。
そして、あの男が最後まで崩さなかった正義面と、トラキアの貧しさを思うと、トラバントはノヴァの息子の暴政を信じられなくなってしまった。
トラバントの知るノヴァの血は、憎たらしいほど道理に忠実だった。
「血とはおそろしいものよ……」
アルテナを叱りつけて再び戦へと旅立たせた後、トラバントはため息に似たひとりごとを零した。実子アリオーンはそのひとりごとに、律儀に言葉を返した。
「アルテナはまだ子供なのです。父上に甘えて、感情のままに憎まれ口を……」
あれは父への甘えではない。トラバントは確信していたが、息子がそう思うのも無理はなかった。あの男を知らなければ、トラバントの抱える感情を理解することはできないだろう。
「もうよい」
トラバントは立ち上がり、出立の準備を始めた。
解放軍に奪われた国土を取り戻さねばならない。
国に脅威が迫る中、トラバントのやり方に意を唱える存在が、アルテナの他にもう一人いた。
カパトギア城に着くと、ハンニバル自らが出迎えにきた。彼は装甲騎士団の将軍に相応しく、頭以外の全身を鎧で固めていた。
「陛下、此度はいかようで」
「反乱軍がミーズ城を占拠した」
「存じております」
「お前も装甲騎士団を出撃させろ」
トラバントが命じると、ハンニバルは表情を険しくした。
「陛下、解放軍との戦いは無意味です。今は休戦して、国力を蓄えるべきかと」
ハンニバルは、ミーズ城を解放軍に占領される前から同じことを口にしていた。だがその申し出を聞くわけにはいかなかった。十七年前。ようやくトラキア半島統一の悲願を果たすつもりが、まんまと帝国に横取りされたあの悔しさ。ようやく悲願を果たせるかもしれないという時に、なぜ引き下がることができるだろうか。
ましてや、解放軍は既にトラキアの兵を殺し、ミーズ城を奪ったあとだ。今更休戦などできるはずがない。
「寝ぼけたことを言うな。休戦をして、ミーズ城は奪われたままにしろとでも言うつもりか!」
「……いたしかたありませんな」
ハンニバルの表情は晴れなかった。命令が不服なのだ。だが、彼は父の代からトラキアのために仕えてきた将軍だ。武人である以上、一度頷いた主人の命令には従うだろう。
そう信じる傍らで、トラバントは相反する疑いを抱いていた。彼は何度、トラバントの方針に意を唱えたか。今の言葉は納得してのものなのか。彼の忠義は、まだトラキアにあるのか。
抑えきれない猜疑心が、トラバントの心をおびやかす。
「裏切るつもりではあるまいな、ハンニバル」
「私も多少は名の知れた武人だ」
「では、忠義のほどを見せてもらおう。戦いが終わるまで、お前の息子はわしが預かる」
「私を信用してくださらないのですか!」
怒りとも悲しみともとれる男の表情を見た時、ふと若かりし日に傭兵として訪ねたアグストリアを思いだした。
ハイエナと誹られてきたトラキアの王が心から嫌悪し憐れんだ男が、かつてアグストリアにいた。
己の欲を満たすために実の父を殺し、玉座で王冠を被りながら最後まで王になれなかった男だ。
彼は、命を賭して国を守ろうとした家臣を役立たずとして切り捨てた。
忠臣を切り捨て、金で働く傭兵の方が頼りになるとまで言ってのけた。
再び目の前にある顔を見たとき、トラバントは己がかつて嫌悪した存在にまでなり下がったことに気づいた。
仕方がなかったのだ。
アルテナが部下だけを失い帰ってきたときから、トラバントは気持ちが落ち着かなかった。
十数年面倒を見てきた「娘」がトラバントのやり方を否定するというのに、なぜ将軍を信じられるのか。
「父さん」
ハンニバルは、トラバントの部下に捕えられた息子の顔を見て、顔をしわくちゃに歪めていた。
「コープル、すまぬ……」
コープルと呼ばれた少年は、そんなハンニバルを勇気づけようと精一杯強がっていた。トラバントの部下たちがコープルを連れて遠ざかっていく。その後ろ姿を眺めがらトラバントは尋ねた。
「実の子でもあるまいに、それほど可愛いか」
「血のつながりなど関係ない」
トラバントの脳裏にアルテナの姿がよぎった。堂々と、血のつながりなど関係ないと言いきれる男がひどく羨ましかった。
妬む心を誤魔化すように、トラバントはハンニバルが子に向ける愛情を笑いとばした。
アルテナがまたもや単騎で城に戻ってきたのは、夕暮れに近い時間だった。
「私が父上の娘ではないというのは本当ですか」
その疑いは、いつか聞かれるだろうと予感していたものだった。
「ついに知ったか」
そして、アルテナが疑いを抱いた日には、真実を伝えようと覚悟していた。どのみち、一度疑われれば、騙せたところで数日だ。疑いを抱いた以上、アルテナは簡単にはトラバントの言葉を信じずに、真実を突き止めようとするだろう。
そうなれば、嘘は遅かれ早かれ見抜かれる。アルテナはあの男と同じノヴァの聖痕をもっていた。紛れもないキュアンの娘であることを、受け継いだ血と神器ゲイボルグが雄弁に語っていた。
アルテナに真実を打ち明ける口は、自身も驚くほどに軽かった。トラバントは、長年抱えてきた重荷を、ようやく下ろせるような気持ちになっていた。
そうして聞かされた真実に、アルテナは青ざめた。
「では、私の本当の両親は、父上、あなたが……」
「わしが殺した。しかし、それがどうしたというのだ。戦争とは、殺し殺されるもの」
トラバントが言葉を続けるほどに、アルテナの表情は険しいものへと変わっていった。あの砂漠で、最後までキュアンが失わなかった勇ましさを感じる表情だ。
「ゆるせない、わたしを騙して。父上、いやトラバント」
アルテナは、ゲイボルグを構えてトラバントへと向かってきた。
そう、これでよいのだ。
トラバントは向かってくる槍から逃げなかった。傍らに立てかけたままのグングニルを握ろうとすらしなかった。
けれど、アルテナが構えた槍はトラバントを貫かなかった。息子アリオーンが、アルテナを止めていた。
「父上に刃向かうのであれば、私が相手になる」
「私は兄上とは戦えない!」
「もはや遅いな……。死ね、アルテナ」
一瞬の出来事だった。
アリオーンが護身用の刀を突き出した後、アルテナはびくとも動かなくなった。
一時間後。
銀の槍を右手で握りしめながら、トラバントは最期の戦へと旅立っていた。出陣には少し遅い日没。空は茜に色づいている。
もはや、この世に未練はほとんどなかった。長年連れ添ってきた飛竜の命だけが最後の心残りだった。
だが、後悔はある。
トラバントは、息子と交わした最期の言葉で、アリオーンに己と同じ道を選ばせたことに気づいていた。
アリオーンにグングニルを手渡した時、好きにせよと言った心に偽りはない。けれど願わくば息子に同じ苦労をかけたくないとも思っていた。
キュアンを殺したトラバントでは許されない、グングニルとゲイボルグの矛先が一つになる道を、選んでくれてもよかったではないか。
なにも、妹同然のキュアンの娘と対立する道を選ばずとも。
そう、トラバントは気づいていた。父に反発したアルテナに与えたアリオーンの一撃が、ただの当て身であったことに。気づいていながら、息子が父に見せた偽りを受け入れた。
「ゆるせない、わたしを騙して。父上、いやトラバント」
最後に向けられたアルテナの言葉は明確なる叛意だった。
それを止めたのがアリオーンだ。
もしもあの場で、息子がアルテナを庇ったことを見破れば、息子の裏切りまで咎めることになる。
アルテナが真実に気づいた時点で、トラバントは去るしかなかった。
遅かれ早かれこうなる運命だったのだと、若かりし日の行動を悔やむでもなく、恨むでもなく、ただ淡々と運命を認めて、去るしかなかったのだ。
かつて嫌悪した存在になりさがり、トラキアの豊かな未来も掴めなかった男には相応しい幕引きだろう。トラバントは、もはや王として生きることに疲れていた。
「さらば、おろかなトラキア王よ」
トラバントは、共に死に戦へと旅立ってくれた部下に聞こえないほど小声で呟いた。
茜の空を飛ぶ飛竜が、トラバントの心に応えるように、低い唸り声をあげた。