こんなことがあり得るのだろうか。
見慣れない扉から突然現れたのは、黒く艶のある髪を腰まで伸ばした女剣士だった。ホリンはこの女性を知っている。まだ女性が少女だった頃、ホリンの暮らすソファラ城に彼女は訪ねてきた。
「ホリン」
出会ってから片時も忘れることのなかった少女が、女性の姿で心底愛おしそうにホリンの名を呼ぶ。
覚えているのは、ホリンだけだと思っていた。ホリンが十五の時、ソファラ城の中庭で迷子になっていた同い年くらいの少女。困っている姿を見かねて声をかけた。
当時のホリンは、剣での手合わせに飢えていた。彼女の腰に剣があることに気がつくなり、道を教える代わりとして戦いを求めた。そして、生まれて初めて見た剣のきらめきと共に、ホリンは剣での敗北を知った。
手合わせを終えた後、少女は男まさりな口調で笑った。
「おまえ、強いな」
「勝ったくせによく言う」
「だが、次に戦えばわからない」
「ならば、また今度手合わせをしてくれ」
「いいだろう」
少女がイザーク国王の娘アイラだと知ったのは、彼女が城を去った後だった。国王の娘に無礼にも勝負を挑んだことを父に叱られ、ホリンは少女の正体を知った。
少女の正体を知ったホリンは、彼女との約束を諦めようとした。いくらソファラ城主の息子とはいえ、国王の娘を相手に気安く勝負は挑めない。
けれど、できなかった。ホリンは、あの日出会った美しい姿を——流星剣を放つ女剣士を忘れられなかった。寝ても覚めてもホリンの頭の中は彼女でいっぱいだった。そんな己に嫌気がさした。
少女と出会ってから四年が経った後、ホリンは少女を忘れるために生まれ育った家を捨て、イザークから遠く離れたアグストリアへ向かった。剣闘士として金のために戦い、金のために生き、彼女に相応しくない己になることで、不器用な男は芽生えた感情を捨てようとした。
それがまさか、このような形で再会することになるとは。
「ホリン。ああ、本当にホリンなのだな」
想い続けていた相手がホリンとの再会をしみじみと喜んでいる。一方ホリンは、喜びよりも戸惑いが大きかった。再会は嬉しいが、夢を見ているかのような違和感がアイラから滲んでいた。
「……俺を、覚えているのか?」
問いかけると、目の前の瞳は一瞬、剣士に似つかわしくない驚きを見せた。
「覚えている? 忘れるはずがないだろう」
やはり、違和感がある。
目の前の気持ちは、あの日手合わせの約束をしただけの少女にしては大きすぎる。
ホリンが違和感の正体に気づくと同時に、アイラも同質のものをホリンに対して感じたようだった。
「まさか、まだ私たちは……」
アイラの声は静かな悲しみを帯びていた。言葉の意図を図りかねたホリンは無言を貫いた。
やがてアイラは迷いを残した手で剣を抜いた。
「……だとしても、やることは変わらないはずだ。手合わせを願えるか」
「いいだろう」
ホリンもまた、背中の愛剣を抜いた。
剣と剣が音を立ててぶつかり合う。力では勝るはずのホリンの剣は、うまく受け流されて相手まで届かない。一方のアイラの剣もまた、小柄な体躯の影響で届ききらず勝負の決め手にはならなかった。傍観していれば行末のわからない勝負の中で、二人だけはすでに互いの戦いの結末を予感していた。
剣の持つものが違うのだ。アイラが迷ってさえいなければ、勝負も一瞬だったに違いない。そう感じるだけの差があった。
アイラの剣からは、彼女が歩んできた道の重さを感じる。
「どうしたら、ここまで剣技を磨ける。闘技場で一度たりとも負けたことはないこの俺でも、お前の剣は遠い」
「私の知るおまえは、同じ場所にいた」
「何が違う」
ホリンが放った月光剣を、アイラはすんでのところでかわした。
大技を放った後の、暫しの遅れ。
「それは、私の剣に聞け」
アイラはその隙を見逃さず、流星剣を放ってきた。
初めて知った敗北と同じきらめき。その奥に、ホリンはアイラをここまで鍛えた信念を見た気がした。
「俺は今まで金のためだけに戦ってきた。……だが、お前を見て、それもむなしくなった」
アイラが、故郷の風を思い出す硬さで笑う。
「ならば私と共に来い」
ホリンは差し出された手をためらわずに掴んだ。
アイラに連れていかれた先は、アスク王国と呼ばれる地だった。ホリンがいた場所は、この国では聖戦の異界と呼ばれていた。
アスク王国は、世界に幾つもある異界を尋ね、仲間へと勧誘する活動を何年も続けているらしい。
「私は、おまえを勧誘する任務に就けられたというわけだ」
アスク王国に戻ってきてからのアイラはそっけなかった。再会直後の違和感は消え、アイラから向けられる感情はすっかり消えていた。
「お前もかつて勧誘されてきたのか」
「いや、違う。私はこの地に引き寄せられてきた」
「引き寄せられて……?」
「あ、アイラだわ〜」
言葉の意味を理解する前に、見るからに穏やかそうな女性が近づいてきた。女性はユグドラル大陸では見慣れない雰囲気を帯びていた。長年暮らせば、程度の差はあれ出身国の特徴が体に染みるが、彼女のそれはユグドラル大陸のどの国とも合致しない。
女性は、初対面とは思えない気やすさでホリンを見つめていた。
「もしかして、あなたがホリン?」
「ん、ああ」
「よかったわ〜。無事に会えたのね。あなたの話はアイラから何度も聞いているのよ〜」
「な、そんなに話してないだろう」
動揺に震えた声。
何事かと覗き見た表情に胸が高鳴った。赤く染まったアイラの頬。焦っているような、恥ずかしがっているような絶妙な目元は、視線こそ交わらないが、こちらを意識していることが伝わってくる。
思わずまじまじと凝視すると、アイラは顔を背けて早足で先へ進んでしまった。
「なぜ、あんな顔を……」
「追いかければきっと分かるわよ〜」
アイラは、少し離れたところで振り向いて、落ち着かない様子でホリンを睨みつけていた。
「あらあら〜。これ以上は怒られちゃうわね」
女性は特に慌てるそぶりも見せず穏やかに微笑むと、アイラとは反対の方向へ去っていった。
次第に周囲の人の数が増えてきた。ホリンは落ち着かない気持ちであたりを見渡していた。先ほどの女性の言葉とアイラの反応が妙に引っかかっている。
「受け入れ難いのも無理はない。ここは変わった地だ」
ホリンの沈黙を、アイラは困惑として受けとったようだ。
それから、アイラはぽつぽつとアスク王国の説明を再開した。アスク王国は他国との戦争状態にあること。その戦力をまかなうために、アイラをこの地に招いた召喚と呼ばれる不思議な技術や、ホリンがされたような勧誘で英雄と呼ばれる存在を集めていること。今いるあたりは兵舎が近いためよく賑わう場所であること。
「おまえは知り合いも少ないだろう。しばらくは私と過ごせばいい」
その言葉に浮かれそうになる感情を、先ほどから感じていた妙な引っかかりが引き留める。再会した直後から何度も感じる違和感。初対面とは思えないアイラの態度。まるで恋する女性のような初々しい反応。
新調した剣が手に馴染まない時のような、親しんだものからごくわずかに感じるずれと似た、些細だが無視できない、記憶との差異。
「その前に、一つ聞いてもいいか」
「なんだ」
「お前は、俺の知るお前なのか」
アイラが足を止め、真意を探るようにホリンを見上げた。そして諦めにもきこえる小さなため息をつき、彼女は俯いた。
「同じとは限らないだろう。……だが、私の知るホリンとおまえはよく似ている」
◇◇◇
ホリンをこのアスクに勧誘すると聞いた時、アイラは真っ先に手を挙げ派遣部隊に志願した。何年も待ち続けていたのだ。ようやく再会できる事実にアイラの内心は浮かれていた。
その時は、まさか勧誘するホリンがアイラと再会する前の状態とは思っていなかった。アスク王国に呼ばれる英雄の生きてきた時代が様々であることを知っていながら、アイラは無意識に、再会するのは時を共にしたかつての男だと思い込んでいた。
アイラがイザークから亡命してきた王女であることに気付きながら、あくまでも同じ軍の仲間として気遣ってくれたホリン。アイラが苦しみに負けそうな時は、元気づけようとして慣れてない紅茶をいれてくれたこともあった。共に戦い、迷惑をかけ、子を育み、それでもホリンは、アイラが気づかずにいた二人の出会いを決して口にしなかった。
ホリンは、生きる意思の裏に死の覚悟を整えた後でなければ、己の素性すら告白できない口下手な男だった。
そんな口下手な男の沈黙には、いつもアイラへの優しさが滲んでいた。彼の多くを語らない静けさがアイラは好きだった。
アスク王国で己の生きてきた道を振り返るたびに思う。亡命の中アイラとシャナンの命を救ってくれた恩人はシグルドだったが、シグルド軍の中でアイラが最後まで戦う意志を捨てずにいられたのはホリンのおかげであったかもしれないと。
「お前は、俺の知るお前なのか」
ホリンが聞いてきた時、アイラは心が波立つのを感じた。違和感には気づくだろうと思っていたが、あの男のことだ。直接聞いてくることはないと考えていた。
「同じとは限らないだろう。……だが、」
アイラは抱える不満が滲まないように慎重に言葉を選んで答えたが、ホリンは鋭かった。
「本当に、それだけか?」
「……これ以上は、恨み言になる」
なぜ、覚えていないのか。
責めても仕方ないことに不満をこぼすことでしか、アイラの感情は表現できない。
すぐそばに居るというのに、重ねてきた思い出を共有できないことがこれほど寂しいとは知らなかった。
正直なところ、アイラは勧誘してきた男との距離感を計りかねている。まだアイラがこの地に呼ばれる前に出会った剣闘士との距離感は、とうの昔に忘れてしまった。アイラにとって彼は夫であり、仲間であり、尊敬する剣士だ。
これならば、会えないままの方がましだった。
そう思ってしまう女々しさが、ひどく気色悪い。まるで普通の女性になってしまったようだ。
ホリンが覚えていてくれるなら、女々しくても構わないと思っていた。彼が思い出を共有してくれるのであれば、隠したくなる弱さを、寂しさを、全てさらけ出して甘えたかった。
だが、それはできない。ホリンはアイラと共に生きてきた男ではなくなってしまった。ならばせめて感情を隠したいと願うのに、ホリンはアイラの愛する男と同じ姿、声、空気でそばにいる。久々に愛する人と再会できた事実に、意思とは無関係の場所から喜びが滲んでしまう。たった一人の存在が、アイラを女性に変えてしまう。
互いに無言で歩き続けるうちに、ホリンが寝泊まりする兵舎までたどり着いた。
「ここがおまえの部屋だ、あとは好きにしろ」
「さっき、しばらくは共に過ごせばいいと言ってくれたな」
「もう忘れろ」
ホリンは何かを考え込むように無言を貫いた。思わず身が縮こまるような沈黙だった。アイラは居た堪れなくなり、急ぐように「もう行く」と伝えた。
その瞬間、ホリンがアイラの手首を掴んだ。剣を握り続けた皮膚は硬さがあるものの、アイラが知るものよりは少しだけ柔らかい。
「待ってくれ」
そう言ったホリンの方が、なぜか驚いた顔をしていた。
ドクン、ドクン、と心臓が脈打つ音を感じる。
次第に早まるその音に気づかれることを恐れ、アイラはホリンを振り払った。
ホリンは、引き離された手のひらを、驚きの余韻を残した顔のままじっと見つめた。
「まだ何か用か」
「用。……そう、用がある」
「ふっ、何の用だ。言ってみろ」
落ち着かない様子で動いたホリンの視線が、じっと日の差す方角を向いて固まった。太陽はすでに夜にむけて沈みかけている。
「……酒だ。このあたりに酒場はあるか」
「あるにはあるが」
アイラは戸惑った。目の前の男が何を考えているかわからない。
ホリンは付き合いでしか酒を飲まなかったはずだ。それも、見かけによらず弱いときたものだから、ほとんど飲んだふりでやり過ごすのだと、夫婦になった後、気恥ずかしそうに教えてくれたことがあった。
「案内してくれ」
「本当に良いのか。おまえ、弱いだろう」
「それも知っているのか」
アイラは自分自身の迂闊さに呆れながら頷いた。
注がれる視線の眩しさから逃れたかった。これ以上、余計なことを言ってしまう前に。
だがアイラはそれをためらった。
動けずにいるうちに、ホリンの優しい声が、アイラのためらいをかき消すように降り注いだ。
「アイラ。君ならきっとこの感情も知っているのだろう。だからあえて言わせて欲しい。何があっても俺の気持ちは変わらない」
「話せとは言わないのだな」
「真の剣士は嘘をつけない」
「ならば、酒場に付き合ってくれないか」
「本気か?」
アイラは覚悟を決めて力強く頷いた。たとえ共有できる思い出がなくても、ホリンはアイラを想ってくれている。ならば、もう一度やり直してみたい。長い時間語り合うのに酒場はうってつけだ。
「恨み言にならないよう、気をつける」
「恨み言でも構わないさ」
「ならばたっぷり聞かせてやろう。おまえは酔って記憶を飛ばさないようにしろ」
陽が沈み、月と星が煌めく時間。二人の剣士は久方ぶりの時間を共にすべく、並んで歩き出した。