トライアングル

第一章 あなたには彼が必要だから

プロローグ

 シーダが九つの時、父に連れられてノルダの街を訪れた。タリス王国の平坦な土地で育ったシーダにとって、ノルダのあちこちにある坂道を歩くのは大変なことだった。少し息を切らしながらやっとのことで父について行く。
 しばらく歩くと四方を山に囲まれた集落にたどり着いた。集落の中央には大きな池があり、風で水面が揺れている。奥に目を向けると、集落の入口から池の中心を通った対岸に人集りのようなものができていた。
 何だろう。
 シーダは坂道で疲れきった体を忘れ、風を浴びながら人だかりへ向かった。池の周りをなるべく最短で走っていく。
 ようやく辿り着いた人だかりの奥からグルニアのブロンドヘアのような色が見えた。もっとよく見ようと人を掻き分けているうちに風を切るような音が響いた。微かにうめき声のような音もする。聴衆には歓声を上げる者と、息を呑み、顔を背ける者が入り混じっていた。
 最前列に辿り着いて、シーダは現れた光景に絶句した。
 全身に痣や傷や血を纏った大男が磔にされ、黒服の処刑人にひたすら鞭で打たれている。鞭で打たれるたび、男は喉奥から呻いた。
 男の獣のように鋭い眼光には、何も映っていなかった。全てを諦め、感情をどこか別の場所に置いてきたように、男はただ罰を受け入れていた。
「逃げようとしたんだってね」
「いくら剣の腕がたっても、こうなってはな……」
 時折聞こえる声は誰一人として男の罪を咎めていない。それにもかかわらず、目の前の男は理不尽な暴行を振るわれていた。血で汚れた肌は目を逸らしたくなるほど抉られている。気絶しようにも、桶ごとひっくり返される水がそれを許さないようだった。男は力なく咽せて、うつろな目をしていた。
 凄惨な光景を前に、シーダの脚は震えていた。怒りにも似たやり場のない感情を堪えるために拳を強く握り込む。
 どうして、誰も助けようとしないの。こんなにも沢山の大人が居るのに、どうして。
 その間にも鞭がしなり、男の弱々しく苦しげな声がした。目を背けたい感情に反して、シーダの目はしっかりと男を見ていた。
 処刑人の手首がしなり、また無慈悲に鞭を振り下ろそうとする。
「やめてっ」
 シーダは腹の底から叫んでいた。その声に、男の虚な瞳があげられた。視線が交わり男が微笑んだ。自分は大丈夫だと言いたげに、目の鋭さが消える。
 それも束の間。鞭が無慈悲に男の腹へと打ちつけられた。男の瞳に鋭さが戻る。先ほどと違って強い憎しみと絶望が宿った瞳だ。皮膚を抉られると、男の見せる感情は弱まった。
 男は気力と絶望の間を揺れている。世界に絶望しながらも、生を諦めきれず痛みに耐えている。このままでは、苦しみの最中でもシーダを気遣い微笑んでくれた優しい人が、死ぬその瞬間まで苦痛を味わい続けてしまう。
 そんなこと、認めないわ。
 シーダは耐えきれずに駆け出した。やめて、やめて、と叫びながら震える足を必死に動かした。
 男を苦しみから救うこと以外は頭になかった。責められる罪もない人への理不尽な暴力を許したくなかった。たくさんの大人に見捨てられた優しい人を見捨てることも。
 男を庇うように抱きつくと、男の腹を目がけて振るわれた鞭が背中にぶつかった。乾いた音を立ててシーダの服の端を破く。遅れて痛みを感じた。じんじんと体に残り消えない、激しい痛みだ。
 シーダは下唇を噛み締めてそれに耐えた。腕の中にいる男はこんなに酷いことを何度もされたのだと思うと、それだけで涙が溢れそうだった。
 体躯に似合わず血の気のひいた青白い体。その体から離れないように強く抱きついた。それから顔だけ反対を向けて処刑人を睨みつける。
 処刑人はシーダの存在が見えていないかのように、もう一度、蛇のように不気味な鞭を振りあげた。
 ぶたれる。
 シーダはぎゅっと目を瞑り、やがて来る痛みに耐える準備をした。その直後に衆人から声が上がった。
「嬢ちゃんあっぱれだ」
 処刑人の動きが止まる気配がして、薄く目を開ける。叫んだのは、最前列に座って処刑を眺めていたらしいおじさんのようだった。一人に、十人が続いた。十人から二十人へ。瞬く間に周りの空気が変わっていく。
 シーダの行動に突き動かされたのだろうか。周囲に拍手や喝采が飛びかった。見せ物にされているようだったが、それで男が助かるなら構わなかった。
「シーダ」
 飛び交う音の中に馴染みある声がして、視線をやると父が立っていた。
「お父様、この人を助けて」
 シーダは既に枯れかけた喉で懸命に訴えかけた。
 父はすぐにあたりを見回した。一瞬、シーダの傷に目を留める。やぶけた服に滲む赤色をみていた。それから処刑人の方へ進んでいった。
 父が来たならばもう大丈夫だろう。
 シーダは安堵の息を吐きながら腕の中にいる男に話しかけた。
「わたし、シーダっていうの。あなたの名前は?」
 男は弱々しい声でオグマとだけ名乗った。
「オグマ、もう大丈夫よ。だから一緒に帰りましょう」
 血と水で濡れたオグマの体を温めるように体を寄せると、オグマは安心したのか、眠るように意識を手放した。
 
 
 
 タリスに戻ってからも、オグマは中々目を覚さなかった。シーダは毎日オグマの元を訪ねた。そして、眠る男の額に、はやく目覚めるようまじないの口づけをした。本当は風邪をひいた時に早く熱が下がるようにする慣習だったが、シーダはそれ以外の祈り方を知らなかった。
 意識こそ戻らないが、オグマの青白かった肌は徐々に血色を取り戻した。今では病的だった肌が幻だったかのように、体躯に似合う小麦色の肌をしている。
 そうして十日が経った頃、お気に入りの花畑で花を摘んだ。ほのかに甘く香る花だ。それを大事に持ちながら部屋に入ると、オグマが目を開けていた。
「オグマ、気がついたのね」
 弾けるような声がでた。まっすぐオグマに駆け寄って、まだ瑞々しい白い花を差し出す。
「これは……」
「お花よ。いい香りがするでしょ。眠ってるあなたにも、においなら伝わるかなって思ったの」
「俺のために?」
 オグマは花を受け取らず、信じられない光景を見るかのように目を瞬かせていた。
「ええ、そうよ」
「ありがとう、ございます」
 お礼の言いかたはぎこちなく、けれど深い心がこもっていた。
 オグマは太い指で優しく茎をつまんだ。慈しむように花を愛でてから、ベッド脇のテーブルに用意されていた花瓶にたどたどしく活けた。
 その動きを見ながら、やはり優しい人だと思う。
(あの日、助けることができてよかった……)
 生きているうちに出会えた運の巡り合わせに感謝していると、オグマがベッドから降りようと動いた。まだ傷が痛むのか、動くたび苦悶の表情を浮かべている。
「どこへいくの」
 オグマは思案するように目を細めて視線を逸らした。
「……どこか、暮らせる場所へ」
「ダメよ」
「ですが、目覚めた以上いつまでも厄介になるわけには……」
「ダメ。せめて傷が治るまではここにいて」
 シーダは自分の二倍はありそうな大きな手を掴んで懇願した。
 ここは島国だ。身一つで連れ帰ってきたオグマをそのまま送り出すのは酷すぎる。それだけではない。もっとオグマのことを知りたかった。今までの人生で、オグマのような人には出会ったのは初めてだった。
 シーダの思いが通じたのか、オグマは身を縮めて恐縮しながら、
「ありがとうございます」と言った。

 オグマの傷が癒えて歩けるようになるまで、色々な話をした。まだ、人をのせて飛ぶには小さく幼い愛馬エルカイトの話。時々遊びに来てシーダと遊んでくれるおじさん、ロレンスの話(ロレンスの白髪に埋もれて残る金髪とオグマの髪は同じ色をしていた)。タリス王国を海賊被害から守るため、熊のように大きな木こりたちが中心となり結成された傭兵隊の話。
 時間の経過とともにオグマの体は順調な回復を見せ、深く抉れていた体にもつやつやと膨らんだ傷痕を残すばかりになった。
 もうオグマは自由に歩くことができる。目覚めた日に迷わず出て行こうとした姿を思い出し、少し物悲しい気持ちになった。
 きっと、もうすぐお別れだ。
 それならば、せめてオグマがこれから自由に生きられるように手伝いたい。
 シーダは部屋の棚に飾っている母の形見を手にした。
(お母様、どうかオグマを助けてあげてください)
 その存在を忘れないよう目に焼き付けてから、オグマのいる部屋を訪ねた。
 
 オグマは椅子に腰掛けていた。シーダが入ると躊躇いなく立ち上がり、椅子を譲ろうとしてくる。
 シーダはオグマの前に立ったまま話始めた。オグマはシーダがそのまま話すとわかると、床に膝をついて目線を合わせてくれた。
 シーダはティアラを後ろ手に隠したまま、いつもの日常話を続けた。
 もう何度か話したことのある内容にも、オグマは初めて聞く時と同じように丁寧に耳を傾けてくれる。
(早く渡さないと)
 そう思うのに、オグマとの別れを思うと中々切り出せなかった。
 次第に話題も尽き、黙り込んでしまった。オグマは次の言葉を静かに待っている。もう渡すしかないと決意し、努めて楽しそうに口の端を持ち上げて笑った。
「あのね、オグマ。今日はプレゼントを持ってきたの」
 シーダは大きな真珠の埋め込まれた母のティアラを勢いよく前に差し出した。
 硬い胸元に押し付けるようにしたことも手伝ったのか、オグマにしては珍しく、渡されたものを確かめもせずに受け取った。
 それから、オグマは手に持つものを見つめて、しばらく目を瞬かせていた。
「俺には受け取れません」
 遠慮がちな呟きだった。
「どうして」
「これは、シーダ様が大切にしてきたものなのでしょう」
 きっと、物の状態から理解したのだろう。母のティアラは一昔前に流行ったデザインにもかかわらず、年月を感じさせない輝きを維持している。それは、シーダが日々手入れを欠かさず保管してきたからだった。
「だけど、これであなたが生きていけるなら、わたしはその方が嬉しいわ」
 しんと部屋が静まりかえる。
 オグマの持つティアラが小刻みに揺れていた。それを持つ腕が震えているからだ。鼻をすするような音。筋張った腕をたどっていくと、下唇を噛んで感情を堪える顔があった。タリスの海のように綺麗な青い瞳には、初めてオグマと出会った時に一瞬だけ見せてくれた優しい色が浮かんでいる。
「オグマ?」
 オグマは今にも泣きそうな笑みを浮かべてシーダを見た。
「俺は、こんな気遣いを受けていい人間ではありません。だから、これは受け取れません」
「わたしは、オグマだから渡したいって思ったのよ。オグマはその気持ちまで否定するの?」
「それは……」
 オグマは再び黙り込んでしまう。ティアラを見つめ、思慮深く何かを考え込んでいるようだった。
 長い長い沈黙の後、オグマは真剣な顔つきでシーダを見た。
「シーダ様。俺は、この国の傭兵隊に入れますか」
 オグマの声は掠れていた。
 心臓がどくりと跳ねた。
 オグマは剣を振るのが嫌になって闘技場から逃げたのだと、父が言っていた。傭兵隊に入ってしまったら、オグマは再び剣を振るわなければいけなくなる。嫌だと逃げたものに、もう一度向き合わなければいけなくなる。
 良かれと思ってした行動が、酷な選択をさせてしまったかもしれないと思うと恐ろしかった。
 何も言えずにいると、オグマはシーダに精一杯の微笑みを見せてくれた。わずかに端を持ち上げられた口は歪だった。
「この地で恩返しをさせてください。戦いならば、少しはお役に立てると思います」
 差し戻されたティアラを、シーダは受け取れなかった。
 母の口癖を思い出していた。
 苦しんでいる人がいたら助けてあげなさい。そうすればきっと、シーダも皆も幸せに過ごせます。
 ティアラを受けとれば、この先オグマを苦しめてしまうかもしれない。剣を振って苦しむオグマを見た時、この瞬間の選択を後悔せずに済むだろうか。
「本当に、無理してない?」
 悩んだ末に、ただ聞くことしかできなかった。オグマは眩しいものを見つめるように目を細めた。
「俺なんかがあなたの役に立てるなら、それは嬉しいことです」
 表情も、ティアラを持つ手も、漂う香りも、誠実が滲んでいる。嘘をついているようには思えなかった。
 シーダはオグマの言葉を信じ、差し出されたティアラにゆっくりと手を伸ばした。
「ありがとう、オグマ。これからもよろしくね」
 オグマは辛うじて頷いたとわかるほどわずかに頭を動かした。
「オグマとこれからも一緒にいれるなんて嬉しいわ」
 無邪気な本心を口にすると、少し遅れてオグマの目から温かな涙が溢れ落ちた。涙は次から次へと溢れて止まらない。
 母のティアラを椅子の上に置き、シーダはオグマの頭に触れた。
 見た目よりずっと柔らかなブロンドヘアはオグマをよく表している。傷だらけで大きくて顔も少し怖いけれど、シーダが大切なものを奪わないよう気にかけてくれたオグマ。今だって、触れやすいように背中を丸めてくれている優しい人。
 オグマの身体中にある傷痕が早く良くなりますように。良くなったら、一緒にお気に入りの花畑へ行こう。花冠をかぶって、昼寝をして、小さな幸せを共有しよう。
 オグマが傭兵隊に入って剣を振るっても苦しくないように、楽しい稽古も教えよう。
 頭の中で色々なことを考えながら手を動かした。オグマの苦痛が少しでも消えるように願いながら、髪の流れに沿って何度も、何度も頭を撫でた。
 
 
 
 オグマが来てから、時間は瞬く間に過ぎていった。気づけばもう八年も、オグマはタリス城に留まりシーダを守ってくれている(オグマは城の近くに引っ越そうとしたが、シーダが引き止めて使用人の部屋を貸し与えた)。
 オグマは、シーダが望むことをいつも拒まず受け入れてくれた。花畑に行くことも、一緒に剣の練習をすることも、木こりの仕事を手伝うことも。
 ロレンスや他の傭兵には絶対に断られていたお嬢様ごっこだって、不満一つこぼさず付き合おうとしてくれた。結局サイズの合うドレスがなくて諦めたが、いじけてしまったシーダのためにオグマは自分から化粧をした。不器用に引かれた口紅や過剰な白粉は、きっと心地良くなかったと思う。それでも嫌な顔ひとつせず、シーダを元気づけようとしてくれた。
 そんなオグマのことを、シーダは実の家族のように慕っている。兄弟のいないシーダにとって、オグマは歳の離れた兄のような存在だった。オグマにとっても、タリスの城が帰るべき場所であってほしいといつも願っていた。
 しかし、シーダは知っていた。オグマは心の奥にずっと孤独を飼い、自分を責めながら生きている。
 十四歳の時、剣闘士時代のオグマが常に死と隣り合わせの闘いを強いられ見せ物になっていたことを知った。父が教えてくれたのだ。
 それ以来、オグマの表情の奥にある分厚い壁が見えるようになった。
 周囲が心から笑っている時、オグマだけはうまく笑えていない気がした。武に優れ面倒見が良く、今ではよそ者ながら傭兵隊の隊長として慕われる姿の奥に、誰も触れることのできない領域があった。
 決して責めているわけではない。むしろ心配だった。苦しいことがあっても、オグマはそれを悟らせない。オグマの過去を知るまで、その奥に潜む孤独な苦しみに気づけなかったように、オグマは何も明かしてくれない。そしていつか、オグマ自身が泡のようにどこかへ消えてしまうのではないだろうか。そんな恐ろしい予感が頭をよぎるのだ。
(オグマに安らぎを与えたい。でも、どうやって……。わたしは、オグマの孤独な苦しみを、本当の意味では理解してあげられない)
 行き場のない苦悩を感じたのか、勇気づけるようにエルカイトが嘶いた。オグマと出会ったばかりの時にはまだ幼かったエルカイトも、今やシーダを乗せて飛ぶ立派な天馬だ。
 タリスは今日も平和だ。すぐそばの大陸でドルーア帝国による混乱が続いていることが嘘のように、島国には穏やかな風が吹いていた。

close
横書き 縦書き