ノルダの奴隷市場

 捕虜救出のために立ち寄ったディール要塞を陥落させた直後、シーダはオグマがナバールに話しかける姿を久々に見かけた。
 港町ワーレンでの一件があって以来、ナバールから話しかける姿を見かけることは増えていたが、オグマから声をかける姿はめっきり見かけなくなっていた。
 話しかけはしないが、オグマは幼子を心配するときのような、はらはらとした不安をはらんだ視線で定期的にナバールを見ていた。あるいは厳しい監視の目を向けていることもあった。
 シーダが前にナバールを気にかけるよう頼んだために、それを律儀に守っているのだ。しかし、いざ話しかけようとすると、憂鬱なため息が溢れてしまって気が進まないようだった。
 それがどうだろうか。オグマは話しかける前にこそいつものように太く短いため息をついていたが、話しかけた後は気持ちばかりの遠慮を残しながら、服越しにナバールの腕を掴んだ。
 シーダのところまでは声が聞こえてこなかったが、口論をして戯れているようにも見える。
 ディール要塞で共に戦っている時に何かあったのかもしれない。
 腕を掴まれしかめ面で文句を言っていたナバールは、オグマと言い争ったのちに渋々と傷薬を受け取った。
 去っていくナバールの後ろ姿を見て深く長い息を吐く姿にシーダは近寄った。
「オグマ、仲直りしたのね」
 オグマはちらりとシーダを見てから、決まり悪そうに口を引き結んだ。
「……俺はまだ、奴を許してはいません」
「そう……。でも、ナバールはあなたが臆せず感情を示せる相手なのよね?」
「そういうわけでは……。恩人を侮辱されたら誰であろうと怒ります」
「ふふ、オグマが怒った理由はナバールから聞いたわ。ありがとう」
 シーダが口元に手を添えて笑うと、オグマは信じられないと言いたげに目を丸めて、それから気恥ずかしそうに薄らと頬を染めて俯いた。ナバールがシーダに事情を話すとは思っていなかったのだろう。
「でもそうね。彼は思ったことをそのまま伝えただけで、悪気はなかったのよ。彼ってあなたよりも更に不器用だわ」
 オグマはまたため息をついた。シーダが許したことで、ナバールを許せずにいた感情の行き場を失ったらしい。オグマはやけに不服そうな顔をしていた。
「俺には不器用というよりも、……ただの自由人に見えます」
「オグマに甘えているのよ」
「奴はそんなタマじゃないでしょう」
「そうかしら」
 シーダからすれば、ナバールはオグマにかなり気を許している。
(だけど、これ以上はオグマを困らせるだけね)
 今はまだ、オグマ自身にナバールへ心を許している自覚が無いようだった。けれど、二人の関係は着実に良い方向へと変化している。サムスーフ山でシーダが得た直感は正しかったらしい。
 同時に、かけら程度の寂しさを覚えた。シーダの方がずっと一緒に過ごしてきたというのに、オグマが自然体でいられる相手はナバールなのだ。シーダに兄弟はいないが、兄がいつの間にか家庭を築いた時も、人はこのような感情を得るのだろうかと思う。純粋な喜びに混ざった、物悲しさを覚えるものなのだろうか。
「今日は少し冷えるわね」
「屋内へ移りますか」
「ええ、そうするわ」
 シーダが歩き始めると、オグマはその半歩後ろを遠慮がちに着いてきた。いつもは大きな歩幅が、シーダに合わせているせいで窮屈そうだった。
 
 
 
 八年以上前、慣れない坂に息を切らしながら歩いた道をシーダは再び歩いている。アカネイア王都パレスも随分と近づいてきた。
 だが、シーダは王都パレスの解放を目指しながらも、他のことに気を取られていた。
 ノルダの奴隷市場。かつてオグマと出会った場所だ。そこには、今も苦しんでいる人がいる。シーダはその人たちを助けてあげたかった。
 タリスで過ごす間もずっと同じ想いを抱いていた。けれど、たとえ少数だとしても、国王の娘がアカネイアの一地方に兵を向けることはできなかった。かといって、小国タリスには奴隷たち皆を救うだけの資金があるわけでもない。シーダは歯痒さを覚えながらも救済を諦めてきた。
 それが、今はアカネイア王女の加護の元、多くの仲間たちが集っている。
 今ならば、ただ一言マルスに現状を伝えるだけで長年の願いを叶えられる。
 シーダが意を決してマルスの元へ向かうと、一足先にオグマが天幕へ入るっていった。その少し後にナバールも続いた。
(敵襲の気配でもあるのかしら……)
 近くで待つだけのつもりで天幕に近づくと、マルスの険しい声がした。
「二人だけでは危険だ」
 二人だけ、という響きに胸がざわついた。我慢ならず天幕の前で聴き耳を立てる。
「……他の人にあんな光景を見せたくないのです。それに、こいつとなら何度も危機を乗り越えてきました」
「いいかい、オグマ。それでも、ぼくは力を貸してくれる皆をなるべく危険に晒したくないと思っている。兵が足りず危険な役目を頼むこともあったけど、その想いは変わらないよ」
 行き先は聞こえなかったが、内容から察するにオグマも奴隷市場を解放しようとしているらしい。
 複雑な気持ちだった。仲間に迎合してばかりいるオグマが、自分の想いを主張して行動を起こそうとした事実は、今までの人生の中でも指折りで数えるほど嬉しい。
 その反面、シーダに一言も相談せず、ナバール一人だけを連れて行動を起こそうとしていたことに内心もやがかかった。
 シーダはオグマと同じ景色を見られない。どれほど考え、手を尽くしても、オグマの抱える真の苦しみを理解してあげられない。
(だから、わたしのことを頼ってほしかったわけじゃないの……)
 ただ、オグマが黙って危険を冒そうとしていることが嫌だった。生きるか死ぬかの世界で剣を振ってきたオグマにとって、それは本当に些細なことなのかもしれない。それでも。いや、そうだからこそ、オグマに自分を大切にする感覚を身につけて欲しかった。オグマにとっての大丈夫ではなく、側から見た安心を選びとって欲しかった。
 きっとマルスも、シーダと似たことを考えたのだろう。続く言葉はシーダも聞いてみたかったことだった。
「ガルダの時も、オグマは自分から危険な役目を引き受けたよね。どうしてなのか聞いてもいいかな?」
「……俺の、罪滅ぼしのようなものです」
「罪滅ぼし?」
「俺は剣闘士の時、この手で多くの罪なき人を殺してきました」
 息の詰まりそうなほど長い間を置いて、オグマの重く堅い声が続いた。
「……獣のように、戦うために戦い、また戦う。それが俺の人生の全てでした。ですが、シーダ様が、獣のまま死ぬはずだった俺を人間に引き戻してくれた。俺は、あの方のご恩に報いるためにも、過去の汚れた血を雪がねばならないのです」
「オグマに罪があるようには思えないよ。ナバール、きみもそう思うだろう?」
「……オレよりも、そこの姫に聞いたらどうだ」
 天幕の布越しでもわかるほど強い視線を感じた。
 気づかれていたこと以上に、この場でナバールがシーダに話すよう伝えたことに驚いた。
「……シーダ、いるのかい?」
 名前を呼ばれ、シーダは罪悪感で身を縮こませながら中に入った。
 マルスが表情で続けるように促している。
 オグマがここまで饒舌に自分の話をするのは珍しいことだった。今を逃せば、次にいつシーダの抱える想いを伝えられるかすらわからないほど、オグマは自分の話をしたがらない。
 シーダは気まずい気持ちを一旦忘れ、言葉を届けることに集中した。
「オグマ」
 名前を呼び、海のような青い瞳を見上げる。オグマは少し背を丸めていた。
「あなたは多くの罪を犯したというけれど、あなたの過去はあなたのせいじゃないわ。あなたに背負うべき罪なんかない。わたしへの恩も充分返してもらった。だから、もう自由になっていいの」
 いくら言葉を重ねても、オグマが過去を気にして背負い続けることは理解していた。それでも、オグマには今と未来を見据えて欲しかった。
「皆、今のあなたを慕っている。あなたの過去がどんなものだとしても、今ある信頼はあなたが掴んだものなのよ。わたしは、オグマにオグマの人生を歩んでほしい。剣闘士だった過去を忘れてとは言わないから。もっと、自分を大切にしてあげて」
「シーダ様」
 オグマは苦しそうに声を絞り出した。瞼が小さく震えていた。もし今ここにシーダとオグマの二人しかいなかったら、オグマは涙を流してくれたのだろうか。
 考えてから、もう二度とオグマは泣かないと思った。
 むしろシーダのほうが泣きそうだった。視界が滲んでオグマの輪郭が曖昧になる。
 シーダはしんみりとした空気を振り払うように、精一杯明るい声で言った。
「実はね、あなたと同じことをマルス様にお願いしようと思ってたの」
 それから、くるりとオグマに背を向けた。
「マルス様、ノルダのみんなを救いましょう」
「ああ、もちろんだよ。目の前で苦しむ人がいるとわかっているのに見捨てて進むのは、ぼくたちの戦い方じゃない。オグマも、それでいいね?」
「それが王子と姫のお考えなら、俺に異存はありません」
 背後で座していたナバールが立ち上がる気配がした。声もかけずにナバールは天幕を離れていく。
(後で、お礼を伝えなくちゃ)
 胸がすいた心地でそう思った。
 
 
 
 奴隷市場の解放は、オグマとナバールとジュリアン、それからマリクが要として動くことになった。
 狭い通路の続く屋内での戦闘に斧や槍は適さない。とはいえ、剣だけでは遠距離からの攻撃に対応できない。あまり大軍を投入して事を荒立てると、ドルーア帝国側に動きがあった時の行動にも遅れが生じる。
 諸々の事情を踏まえた結果、建物の出入り口を狙える位置に弓兵を配備し、内部には少数で突撃するという話に落ち着いた。
 作戦が決まった後は、速やかに実行へと移された。シーダは四人の帰還を弓兵隊と共に祈りながら待った。レナもシーダの隣で祈っていた。
 突撃を開始したのは、日中の暑さが気持ちばかり引き始める午後四時頃。それから空の端がわずかに明らんでくるまで、出入り口からは誰も出てこなかった。
 多くの奴隷を引き連れて四人が出てきた時、ナバールだけが血に濡れていた。
 日が沈んだ後マリクから聞いた話だが、屋内での戦闘はほとんど起こらなかったらしい。奴隷を解放する前に市場のオーナーを探し、ナバールが一太刀で斬り捨てたという。オーナーを失った奴隷たちは、自らが解放されたと知ると大喜びで四人の元へ集い感謝を示した。
 突入してから出てくるまでに時間がかかってしまったたのは、解放された人々に囲まれてしまったからなんです、とマリクは嬉しそうに顔を綻ばせた。
 一通り話してから、マリクはふと思い出したように聞いてきた。
「シーダ様は、ナバールさんの過去をご存知だったんですか?」
「いいえ、彼のことは何も知らないの。どうして?」
 マリクは意外そうに口を丸めてから、日常会話の延長のような緩やかさで話した。
「オーナーを探す途中、オグマさんに気になることを言っていたんです。確か、オレの古巣を潰すときには付き合ってもらうぞ、とかなんとか」
 古巣というからには、ナバールもどこかの奴隷の出なのかもしれない。
 シーダに驚きはなかった。薄々そうではないかと思っていたのだ。ナバールの不器用さは人間関係の作り方を知らない人のそれだった。奴隷として暮らしていたのなら全て説明がつく。
「そう。それでオグマは?」
「承諾されてました。その代わり、オーナーはナバールさんが斬るようにと……」
 オグマがどうしてナバールにそんな頼みをしたのか、シーダにはわからなかった。わからなくていいと思った。理解できないやり取りを二人が交わしていることこそが、シーダの願った、シーダが触れられないオグマの領域にナバールがいることの証明になる。
(それに……)
 オグマは気づいていないかもしれないけれど、未来の約束があればそう易々と危険な真似はできないはずだ。
「マリク、あなたは二人のやり取りを聞いてどう思った?」
「互いを信頼しているのだと思いました」
「ふふ、そうね。仲が悪そうには見えないわよね」
 今はそれで充分だ。シーダの知らない場所で二人が補い合ってくれるのなら、オグマの奥にある厚い壁が崩れる日もくるはずだ。そして、いつかオグマの飼っている孤独が埋まることをシーダは切に願っている。

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