悪の巣

 マルス率いるアリティア軍と合流したオグマは、ウェンデル司祭に会うためにホルム海岸へ立ち寄った。しかし、そこに司祭の影はなかった。
 さらに、アリティアで留守をしていたはずのシーダが飛び込んできて衝撃の事実を伝える。アカネイアが突然攻撃をしかけてきたというのだ。
 皇帝ハーディンによるアカネイアの信じがたい変貌。
 一行はアリティアへの帰路を急ぐ。
 
 急く気持ちを宥めるように冷たく穏やかな風が吹く夜。オグマは途中で合流を果たしたシリウスの天幕を訪ねた。
 シリウスはあくまでも旅人として振る舞い続けるつもりらしい。決して仮面を外そうとはしなかった。
 オグマにとっても、その気遣いはありがたかった。胸のうちに引っかかっている内容はただの旅人相手だからこそ聞けるものだ。
 いくらか酒を飲んでから、オグマは言った。
「貴様のおかげで無事に子供達を助けられた。礼を言う」
「礼には及ばない。私も子供達のことは救ってやりたかった」
 それきり静寂が流れた。外からも虫の音ひとつ聞こえない。
 本題へ移る前の話題を探したが、あいにく世間は荒れていた。口下手なため、適度な話題が何も思いつかない。
 無言で酒を飲んでいると、シリウスが柔らかな声で話しかけてきた。
「貴公は何やら悩んでいるように見える。ただの旅人でよければ聞こう」
 オグマは手にしているグラスの揺れる液面を見つめた。まだ酔いきれてなく話しづらさが残る。同時に、こうもお膳立てされたならば訊ねてみるしかないだろうとも思っていた。
 少し悩んでから、結局オグマは口を開いた。
「……忠義と情で揺れた時、貴様ならどう考えるのかを知りたい」
 馬鹿げた訊き方をしたと思ったが、シリウスは笑わずに言葉を受け止めた。
「なるほど。旅人には些か荷が重い質問だ」
 真剣な声音で呟いたシリウスは、緑色の酒瓶を手にして傾けた。さらさらと液体が流れ落ち、グラスへと溜まっていく。
「私には仕える主君などいないが、どちらかを選ぶとするならば忠義を選ぶだろう。忠義とは生きる道を示すものだ」
 長い指がグラスを掴む。縁に薄い唇が触れ、すぐにグラスは元の位置へ戻された。液量がほとんど変わっていない。
「だが、それが正解であるとも限らない。……話は変わるが、ハーディン公は随分と変わられてしまったようだな」
「俺の知るハーディン殿は、部下によく慕われ、国のため勇敢に戦う立派な方だった」
「今は違うと?」
 シリウスは一瞬顔を上げ、すぐに俯いた。仮面の下の視線が見つめる先を正確に知ることはできないが、手をじっと眺めているようだった。槍を握り続け硬くなったであろう武人の手を。
「アリティアへの攻撃を思えば。我が姫も危険な目にあったという。マルス様とのご結婚も近かったというのに……」
「そうか、貴公は——」
 不自然に言葉が途切れ、再び場が静まる。沈黙が妙に重く息苦しい。
「なんだ、俺がどうかしたのか」
「……いや、情が忠義と表裏一体になった状況は随分と難儀だと思っただけのことだ。それではどちらを選ぶこともできまい」
「貴様でもそう思うか」
 オグマは空っぽのグラスを傾けた。酒の苦味と仄かな甘味がうっすらと鼻に抜ける。シリウスのグラスにはいつまでも酒が残っていた。
 
 
 
 グルニアでは、ラングの下につく兵がかなりの勢力で待ち構えていた。
 だが、戦いは見かけの勢力に反して楽だった。後方の弓兵部隊が動かなかったのだ。おそらく前の戦争の仲間が指揮を執っていたのだろう。
 敵の攻撃を難なく捌ききると、一部の兵や子供達を安全な場所に残してラングの籠る城内へ侵入した。
 城内は薄暗かった。石畳の床が冷たい音をたてる。
「なんだか不気味ね」
 シーダの呟きにオグマも頷いた。
 ペガサスで移動できない城内までシーダが着いてきたことには訳がある。ロレンスの無念をどこからか聞きつけていたシーダが、共に行くと言って聞かなかったのだ。
 オグマも、同行を認めたマルスも、シーダには戦いと離れた場所で待機してもらいたいと思っていた。だが、シーダにはやや頑固なところがある。一度言い始めたら中々譲らないことを知っているだろうマルスは、シーダが同行を願い出た時に目配せをしてきた。軍を率いる立場では、たとえ婚約者であっても常にそばにいることは難しい。マルスができない分まで代わりにシーダを守ってほしいのだろう。目配せの意図を瞬時に察したオグマは、迷わず固く頷いた。
 ロレンスの無念を晴らすという責務はあったが、誰かがラングを討つのならば、オグマの手で殺ることに固執する理由はない。
(俺は何があろうとシーダ様をお守りするだけだ)
 オグマは拳を握りしめながら、シーダを盗み見た。シーダの表情には怯えが残っていた。けれど、前の戦争はシーダを強くした。振る舞い自体は冷静そのものだった。
 
 玉座の間がある階に繋がる階段を上るとひらけた空間があった。右も左も柱が立っていて、入り組んでいそうだ。オグマはシーダの近くを離れないよう用心しながら左側へ向かった。
 シーダを後方に下がらせ、敵アーマーナイトを難なく倒す。リンダの魔法も手伝い、すぐに襲いかかってくる敵はいなくなった。
 奥へ続く扉には鍵がかけられていた。木製の簡素な扉だ。味方を下がらせ扉を蹴り壊すと、その先には一人の剣士が立っていた。
 赤みがかった黒の長髪。紅の刀身をもつ剣。もの静かな佇まい。
 オグマはその姿に覚えがあった。シーダも同じ感想を抱いたらしい。オグマが何かを言葉にする前に、必死な声で叫んでいた。
「ナバール! あなたはこんなことのために力を使っていい人じゃないわ」
「だれだお前は」
 ナバールは微塵も心当たりがないと言いたげに冷笑した。剣に似た鋭い目つきは、薄暗がりの中で品定めするようにシーダを見ている。
 許しがたかった。ナバールとの間には果たすべき約束があるが、それ以上に怒りが湧き上がる。
「……見下げ果てた奴だ。貴様がそのつもりなら、今度こそケリをつけてやろう」
 オグマは散々見てきたナバールの剣筋の鋭さを思い出しながら、剣を構え直した。一度戦うと決めた以上、寸分も油断できない。
「まってオグマ、この人は——」
 足を踏み出すと同時に、シーダの静止が聞こえた。
 だが、一度仕掛けた以上は簡単に引けない。ナバール相手に中途半端な剣を振れば、痛手を被るのはこちらだ。
 オグマは容赦なく左肩を狙った。ナバールから繰り出される二振りの剣を片方でも潰して起きたかった。
 オグマの剣は、相手が避けた時に靡いた髪を斬った。
(……奴がこんなに弱いはずない)
 違和感を抱きながら相手を見ると、ナバールだと思っていた男は大慌てで弁解を始めた。
「まって、ウソ、嘘ですよ! オレ、サムトーです。お忘れですか、オグマさん」
 ノルダで奴隷剣闘士として生きていた頃、同じ名前の男がいた。ヤンチャで髪が短く、お調子者だが泣き虫の末っ子。オグマは過去の記憶を呼び出しながら相手の顔をじっと見た。かつての面影をわずかながら感じる。背は随分と伸びたようだ。
「ノルダの剣闘士だった、あのサムトーか」
「ええ。あの頃はよくあなたに助けてもらいました。みんなで逃げ出した時も、オグマさんだけが身代わりに——」
 それから、サムトーは何やら勘づいたようにシーダを見た。ナバールだと偽っていた時とは異なり、今度は純粋な目をしている。
「もしかして、あなたがオグマさんを助けてくれたタリス国の王女様ですか?」
「え、ええ」
「ありがとうございました。オグマさんはオレの恩人なんです。剣闘士の頃のオグマさんは、」
「サムトー、もういいだろう。俺たちは先を急いでいるんだ」
 昔の仲間に生きて会えたことは喜ばしかったが、それと同じくらい恐ろしさもあった。シーダは昔オグマに何も罪がないと言ってくれた。けれど、それはオグマの奥底に眠る感情を知らないからだ。
 オグマは過去にもこの瞬間にもそれぞれ別の罪を犯し続けている。
 昔の話を機に今のオグマが抱える罪に気づかれることだけは避けたかった。
「オグマさん……。とにかく、オレはあなたについていきます。いいですね」
「勝手にしろ」
 頭を抱えるオグマを眺めながら、シーダは朗らかに笑っていた。
 サムトーはいつの間にか先頭に立っていた。迷いない足取りで、皆をラングのいる場所まで導いてくれる。その背を追いながら、オグマはナバールの方が長身であることを思い出した。

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