デビルマウンテン

 サムスーフ山の険しい山並みを見上げながら、ゴードンがため息をついた。
「海賊の次は山賊か……」
 アカネイア大陸はドルーア帝国の再興を受けて随分と変わってしまった。
 ゴードンの嘆きが周囲に伝わり、過去の平和に想いを馳せるしんみりとした空気が伝播する。
 皆、進む足は止めない。
 アリティア解放軍は、険しい山間を縫うようにして整備された道を進軍していた。
 四方が山に囲まれた景観と果てしなく続く山道は、シーダにかつて見たノルダの景色を思い出させた。だが、ここには湖がない。視界に入る建物も荒れ果てた廃墟ばかりだった。昔はあった集落が、山賊の被害に耐えきれず逃げ出したのだろう。
 シーダは気遣わしげにオグマの横顔を盗み見たが、部下と話している様子はいつも通りだった。
「みんな、少しいいかな」
 いよいよ本格的な山道に踏み込む前に、マルスが呼びかけた。夕暮れの赤い光と対をなす影が、細長く伸びている。
「ここから先はサムシアンの本拠地がだいぶ近くなる。恐れることはない。皆なら対処できる」
 それから、マルスは言いづらそうに軽く瞳を伏せた。
「ただし、ナバールという用心棒には気をつけて欲しい。相当腕の立つ剣士だそうだ。敵わなければ逃げても構わない。必ず生きてオレルアンへ辿り着こう」
 皆が緊張で息を飲む音がした。沈みゆく太陽すら不気味に思える、異様な恐れが蔓延する。
 そんな恐れを形にするように、マルスと他の兵たちとの間に一人の男が降ってきた。赤髪にも見える橙色の男は、状況が読めないと言った顔であたりを見渡した。
 最初は警戒の面持ちが浮かんでいたが、次第にその顔は悔しげに歪んだ。
 警戒したのは、アリティア軍も同じだった。マルスとの間にはジェイガンが進みでていた。オグマも、いつの間にかシーダの前に立っていた。だが、男の言葉にこちらも警戒を解くことになる。
「頼む、レナさんを助けてくれ。このままじゃ、サムシアンのヤツらに……っ——」
 男はなりふり構わず訴えかけてきた。大切な人に向けた愛情深さを感じさせる声だ。
 地面に力なく拳をぶつけて嘆く男に、マルスが応えた。
「その人が、どこに居るのかはわかるんだね?」
「きっとあの中だ。早く行かないと、またやつらに捕まっちまう」
 男は傷だらけの腕で、とりわけ不気味で険しい峰を指差した。
 マルスは頷き、皆に目を向けた。
「申し訳ないけど一刻を争う場面だ。今日はこのまま進もう」
 すっかり帳の降りた夜を探り探り進んで行く。
 ジュリアンと名乗った男は、憔悴した顔で道案内をしてくれた。
「この山の奥だ」
 岐路でジュリアンの示した場所は、とてもではないが馬を引き連れて通れる場所ではなかった。
「騎兵は今晩ここで待機してくれ。皆、ジェイガンの指示に従うように」
 マルスの言葉に騎兵がその場で野営の準備を始めた。その様子を横に、シーダはエルカイトと共にいつでも発てる準備を済ませた。
「マルス様、わたしがあの山の先を見てきます」
 返事も聞かずにシーダは空へ昇った。夜のサムスーフ山に吹く風は方角が定まらず荒々しい。エルカイトも飛ぶのが大変らしく、風に煽られながらの飛行となった。
 シスターを探すため、なるべく低空を飛び、生い茂る葉の隙間を縫うように目を凝らした。シスター一人が逃げるなら山道から外れた森の中にいるはずだ。
 弓に気をつけながら先へ進むと、シーダの予想通り、山道から少し外れた場所にそれらしい姿——純白のフードを被った女性の姿があった。木が歪な円形に途切れた森の中だ。
 追いつかれ足を止めたシスターの周りを三人の盗賊が囲っている。
(急がないと……!)
 エルカイトの手綱を握る手に力をこめたシーダが急降下するのと、紅い剣が男たちの首を跳ね飛ばすのはほぼ同時だった。飛んだ血がエルカイトの翼や頭にかかる。
「そこの女、シスターを連れて早く去れ」
 オグマほどではないが頭身の高い、すらりとした男が剣を鞘に収めた。
「あなたは?」
 男は答えず、山の深くへと姿を消した。
 シーダはその姿をあえて追わず、残されたシスターに視線を戻した。シスターは足を震わせながらも気丈な顔をしていた。姉弟や従兄弟なのだろうか、月明かりに照らされた髪はジュリアンによく似た色をしている。
「レナさん、で合っていますか?」
 シーダが訊ねると、シスターはぱちくりと目を瞬かせた。
「どうしてそれを?」
「ジュリアンから。あなたをかなり心配しているようでした」
「……ああ、ジュリアン。無事だったのですね」
 シスターは顔の前で手を合わせて、感謝するように空を仰いだ。白いローブがしっとりと上品にはためく。
 祈りを終えたレナに声をかけられて、シーダは自分の後ろにレナをのせた。
 
 ジュリアンがレナとの再会を喜ぶ横で、シーダは表情を曇らせた。
 隊長が、姫の帰りが遅いってんで、一人で山の中に行っちまった。
 バーツの言葉が頭の中で反芻する。
「隊長なら大丈夫だとは思いますが……」
 言葉尻を濁すマジや、その横で同じように顔を曇らせるサジも、オグマを心配しているようだった。
 シーダはオグマの心配をしながら、レナを救った紅の剣士が気にかかっていた。あの男がきっとナバールだ。山賊を斬り捨てる時の迷いない剣。特に誇った様子もなく去る後ろ姿。
 闇の中で一瞬見えた暗い瞳はオグマとよく似ていた。悲しい過去を背負い、人に頼れず生きる者の孤独があった。
 もしオグマがあの人と遭遇してしまったら。
 どちらが勝つかわからないと思った。途端に心がざわついて落ち着かない気持ちになる。
「わたし、オグマを探してきます」
 言うが早いか相棒に跨り、シーダは再び空へと舞い戻った。
 
 
 
 シーダがオグマを見つけた時、その向かいにはナバールがいた。二人は剥き出しの刀身を互いに相手に向けて斬り結んでいる。動きはナバールの方が早く、オグマの体には細かい傷が増えていた。一方のナバールも、力強いオグマの剣を受けたのか、左腕に鋭い傷があった。
 どちらが勝っても不思議ない互角の勝負が続く。シーダは上空からしばらく二人を眺めていたが、二人はシーダの姿を気にする素振りもなく剣を交わし続けた。苛烈な斬り合いの中で、オグマの傷が一つ増える。オグマも負けじと剣を振るう。
 ナバールの剣をオグマが弾き、二人の距離が開いた。暫しの膠着。
 オグマの表情にシーダは目を見開いた。そこには、いつもある孤独がなかった。心から満ち足りた顔でオグマはナバールと向き合っている。他のどの戦場でも、どのような日常でも見たことのない、心からの満足があった。
 対するナバールも、狂喜ともいえる満足気な顔をしていた。
 続けさせてはいけない。直感的にそう思った。
 思った時には、二人の間に割って入っていた。
「もうやめて」
 今にも次の剣を打ち込もうとしていたナバールの動きが止まった。露骨に顔を顰め、シーダを睨みつけている。
「邪魔だ、去れ」
「嫌よ」
 ナバールは苛立ったように剣を構え直した。
「……そんなに、その男が大事か」
 軽蔑するような声にシーダの足が震える。息も浅く乱れた。シスターを助けた時の男とはまるで別人のような殺気だ。
 背後からも緊張した空気を感じた。オグマのものだろう。振り向くことはできないが、オグマは初めて出会った時の鋭い瞳でナバールを見ているのだとシーダの勘が告げていた。
 この二人はとてもよく似ている。戦う時の顔も、態度に滲む不器用さも。
 ナバールならば、シーダには救えないオグマの孤独を理解できるはずだ。ナバールのことはまだよく知らないが、ナバールにとってもオグマの存在は孤独を癒すきっかけになる。
(だって、シスターを助けた時のあなたはとても優しい目をしていたわ)
 シーダが二人の戦いを止めるのは、オグマを失わないためだけではない。
「あなたもよ、ナバール。わたしはあなたのような人に山賊達の用心棒のまま死んでほしくない」
 シーダは竦む体を宥めながら毅然と訴えかけた。ナバールの眉間に浮かぶ皺がきゅ、と深くなる。
 剣を構えた姿勢のままナバールは動こうとしなかった。牽制だけで、実際に斬りつけるつもりがないのだろう。
「勝手なことを。お前には関係ない」
「関係あるわ。それでも、どうしても戦うと言うなら、わたしをその剣で好きなようにして」
 シーダが言い切ると、ナバールはしばらく言葉の真意を確かめるように睨みつけてきた。シーダは後ずさりたくなる気持ちを堪えてその目に耐える。
 やがて、ナバールは緩く口角をあげ、一瞬だけシスターを助けた時と同じ目を見せた。構えていた剣が、鞘に戻される。同時に、背後から感じていた緊張感ある空気も和らいでいった。
「……お前が命をかけてまで止めると言うのなら仕方がない」
 それから、ナバールはふと横に視線をやった。
「あそこにいるのは、お前たちの仲間か?」
 視線の先には、マルス含むアリティア解放軍の仲間たちが立っていた。
「マルス様」
「シーダ無事でよかった。オグマも」
 かなり心配させたのか、マルスの表情は疲れきっていた。心の底から安堵したような深いため息をついている。それも束の間、すぐに軍の代表の顔へ戻り、ナバールの前へ進み出た。
「……きみが、剣士ナバールだね」
 マルスの問いかけに、ナバールは頷いた。ぶっきらぼうな声で今度はナバールが質問した。
「お前は、オレを雇うつもりはあるのか」
 マルスが視線を彷徨わせた。突然のことで状況を理解できていないらしい。
「わたしがナバールに言ったの。山賊の用心棒のまま死なないで、って」
 補足すると、マルスはようやく合点したようにナバールを見て微笑んだ。人好きのする顔で右手を差し出し、握手を求めている。
「わかった、きみを雇うよ。報酬は後で相談してもいいかな」
 ナバールは了承したが、マルスの手には触れなかった。そのまま足音を立てずオグマのそばに寄っていく。
 オグマの周りは既に部下たちが取り囲んでいた。だが、物怖じせず近づいてくる剣士の圧の方が上手だった。ナバールが近づくごとに、部下たちは萎縮したように離れていく。
「おい、続きだ」
 ナバールは既に剣の柄に手をかけていた。サムスーフ山の頂上から吹きおろす冷たい風が髪を揺らしている。ナバールの、感情に乏しい表情を補うようになびく、よく整った長髪。それと対をなすように立つオグマは、大きなため息をついた。
 部下がふざけた時ですら、オグマがここまで露骨に呆れを見せることは滅多にない。それが、誰が見ても呆れているのだとわかる顔をしていた。
 二人から距離を取った部下たちもそのことに気付いたのか、物珍しそうに二人のやりとりを観察していた。
「馬鹿言うな。貴様はマルス王子に雇われたんだろう」
「だが、オレはあの女に山賊達の用心棒のまま死ぬなとしか言われていない」
「シーダ様は仲間内の争いも嫌うお方だ。それに、こうもギャラリーが多くては戦いに集中できないだろう」
 オグマはそう言いながらも、ほんの一瞬、名残惜しそうに右手で剣の鞘に触れた。本音は後者にあるのかもしれない。ナバールと対峙していた時の満ち足りた表情を思い出しながらシーダは思った。
 マルスも、オグマの様子がいつもと違うことに気づいたらしい。新緑のように柔らかい声で笑いかけてきた。
「オグマはいい出会いをしたね」
「ええ、そうみたいです」
 すっかり深まった夜を前に、解放軍は進む。翌日はサムシアンとの激しい争いになるはずだ。
 ナバールは集団のずっと後方を一人で歩いていた。少し歩いただけでもさらさらと揺れる髪は、何年もかけて大切に伸ばしてきたことが窺われる。おぼろな月明かりはナバールの髪がわずかに赤みがかっていることを教えてくれた。
「オレに用か」
「離れていかないように見ていただけよ」
「雇われておきながら逃げ出すのは、愚か者の行動だ」
 だから安心しろと言いたげに、ナバールはそれきり無言を貫いた。
 サムシアンから見つからないよう皆が黙々と歩く。月明かりと僅かな松明の灯しかない暗闇に、様々な音がよく響いた。無機質な風の音。梢が揺れる音。忍んだ足音。そのどれをとっても、最初にこの山に足を踏み入れた時の不気味な様子はもはや何処にもなかった。

close
横書き 縦書き